2012年2月27日月曜日

台湾の話

正確に書くと『臺灣』である。台湾内部で一般的に使用されている漢字は「台灣」である。日本では「台湾」と書く。
英語ではTaiwanまたはFormosaという。後者はポルトガル語に由来し、「麗しい」の意味である。
何れにしろ『タイワン』の呼称は、原住民の言葉に由来し、漢語や日本語とは無縁の様である。

面積36,000平方キロ(大略九州程度)、人口23百万人程度。
日本と同様に火山が多く、温泉が豊富で、大地震も起こる。中央山地には高山が多く、最高峰は玉山(3997m)で、日本の富士山(3776m)より200m余り高い。3000m以上の山は、133座あり、日本に比べ桁違いに多い。
台湾の旗(国民党)は青天白日旗(右掲)である。

三国時代(220~280)に、中国では「夷州」 の呼称で台湾島が知られていた様である。3世紀末に「魏志倭人伝」で日本の国が知られていたのと同列である。

日本においては、古くは台湾の事を「高砂」とか「高山国」と呼んでいた様である。
室町時代(14~16世紀)には、明国と勘合符による勘合貿易が行われていた。しかし勘合符を持たない密貿易も盛んであり、「南無八幡大菩薩」 の旗を掲げた密貿易船も横行していた。密貿易船は、しばしば海賊にも変身し「八幡船:バハンセン」とか「倭寇」とか呼ばれて恐れられていた。
この頃の高山国には、倭寇や明の海賊 の基地が幾つも作られていたと思われるが、明国が台湾を支配していた形跡は全くない。

16世紀末に日本統一を果たした豊臣秀吉は 、「朝鮮」・「高山国」 ・「呂宋:ルソン:フィリッピン」に『朝貢を促す使者』 を派遣した。 朝鮮とは話がこじれて、二度にわたる「朝鮮派兵」となってしまった。
「高山国」には、原田孫七郎が派遣されたが、倭寇や明海賊の基地は在るものの、使書を渡すべき『国の統一機構』は見つからず、空しく帰朝したようである。(当該使書は、加賀前田家に残されているとの事。)

17世紀になると、1625年台湾近くの「澎湖島」の領有を廻り、明国とオランダの紛争が勃発し、澎湖島は明領とし、台湾島はオランダの領有を認める協定が成立した。 オランダは、台湾に「ゼーランジャ城」と「プロビンシャ城」の要塞を作り、台湾支配を開始した。
この頃の台湾では、日本商人や倭寇の基地が沢山作られており、貿易拠点として使われていた。日本国の関与なしで、明~オランダ間だけの一方的な協定で台湾の帰属が決められたので、その後大きな問題が発生した。

台湾のオランダ支配が一方的に進められ、日本人の台湾基地に貿易税が掛けられる様になってしまったのである。日本人はオランダの貿易課税に強く反発し、遂に浜田弥兵衛はオランダの台湾長官を襲撃する事件を起こしてしまった。  
事件後 浜田弥兵衛は、台湾先住民の代表達を引連れて、徳川三代将軍家光に謁見している。
ところが徳川幕府は厄介な国際問題に困惑し、1639年『鎖国』してしまった。
自国民の権益保護には全く頭が回らず 、重要問題をひたすら回避する腑抜け役人の先例を観る事ができる。  

台湾領有を意図していたのは、オランダだけではない。スペインも1626年台湾北部を領有し、「サン・サルバドル」要塞や 「サン・ドミンゴ」 要塞を作った。オランダ~スペインの確執はあったであろうが、最終的にはオランダがスペインを駆逐し、1642年オランダの台湾全島支配が完成した。
その後植民地の労働力確保のため、対岸の福建省から多数の中国人を台湾に移住させて行った。

明の海賊鄭芝竜(テイシリュウ)が日本の平戸に滞在し、日本人妻「まつ」との間に出来た子が『鄭成功』である。1624年誕生した。1631年鄭芝竜は、妻子を引連れ明に移住し、明朝に仕えた。
1646年明朝は滅亡し、清王朝に代わった。明の官であった鄭芝竜は清に捕縛され、日本人妻「まつ」は 自害して果てた。父母を清に奪われた『鄭成功』は、海賊の首領となり、清王朝に頑強に抵抗を続けた。しかしながら次第に追い詰められ、遂に大陸から逃れて台湾を反抗の拠点にした。
鄭成功は、中国人兵士・家族約3万人を引連れて台湾攻略を開始した。1662年オランダ軍を降伏させ、台湾の支配権を中国側に取り戻した。ところがこの年のうちに鄭成功は他界し、長男鄭経が台湾統治を引き継いだ。
鄭成功は、『国姓爺』とも呼ばれていた様で、近松門左衛門(1653~1725)の人形浄瑠璃 「国姓爺合戦」 は、『鄭成功』の波瀾万丈の生涯をモデルにしたと言われている。
台湾の鄭一族と清王朝の抗争はその後も続いて行くが、1683年鄭一族は遂に清に降伏した。清王朝は1684年台湾領有を宣言した。

大日本帝国の明治政府は、朝鮮半島への権益拡大を狙っていた。李氏朝鮮を属国としていた清王朝と大日本帝国が衝突し1894年日清戦争を始めてしまった。1895年の日清講和条約(伊藤博文-李鴻章)で『朝鮮の独立』・『遼東半島・台湾と澎湖諸島の割与』および賠償金の支払い等を取り決めた。 
これに対し極東への進出を目論むロシア・フランス・ドイツが結託し、日本の遼東半島領有に強硬に反対した。 このため日本は、臥薪嘗胆し「遼東半島領有」を諦めざるを得なかった。
一方ロシアは、遼東半島を租借し旅順要塞を作り、太平洋艦隊の基地として着々と極東進出を進めていった。ドイツは、 遼東半島の対岸山東半島の付根の青島(チンタオ)を租借した。フランスは後に中国南部雷州(レイチョウ)半島北東部の堪江(チャンチアン) を租借した。ロシア・ドイツ・フランスは、結託して日本の進出をくい止めるとともに、清の衰えにつけ込み、やりたい放題をやった様である。

日清戦争で台湾を領有した大日本帝国は、台湾統治に着手したが頑強なゲリラの抵抗に遭い難渋している。台湾北部から上陸し、増援を繰り返していったが全島の制圧までに半年程度を要している。
日本の台湾統治が始まると、特に教育に力を入れ、小・中学校を沢山各地に作り、高校・大学も台湾に設立した。台湾の人々に、日本人としての教育を受けさせたのである。

1941年太平洋戦争が始まると、台湾の人々も約30万人が日本兵や軍属として戦争に送り出された。誠に幸いな事に、台湾は沖縄の様な戦禍に見舞われる事は無かった。 1945年 日本降伏と同時に、中国に返還された。
中国大陸では引続き毛沢東の共産党と蒋介石の国民党の内戦が続いていた。1949年大陸では遂に国民党が大敗し、蒋介石は国民党を率いて台湾に逃れた。『歴史は繰り返す』である。300年ほど前の 『鄭成功』の再現である。

その後しばらくは、国民党独裁の台湾統治が続いた。台湾出身の李登輝氏が国民党の総統になった時、1996年台湾総統を普通選挙で選ぶ民主的仕組みに大改革された。初代の公選総統は李登輝総統である。2000年の総統選挙では、民主進歩党の陳水扁氏が当選した。陳水扁総統が2期続いた後、2008年国民党の馬英九氏が総統に当選した。

台湾の話で不可欠の話題は、紫禁城の秘宝である。北京の紫禁城天安門と南方に広がる天安門広場は有名でよく知られている。紫禁城は中華人民共和国政府により維持管理され、観光客の入場見学ができる。流石に立派なものである。しかし清王朝が保有していた多数の秘宝は、紫禁城には殆ど残っていない。
1937年北京郊外「盧溝橋」事件をきっかけに大日本帝国が中国侵略を開始すると、中国人たちは紫禁城の多数の秘宝を、戦禍を避けるべく多数に分散して隠蔽した。その後大陸の内戦で敗退した国民党軍は、隠蔽していた多数の秘宝を引っ提げて台湾に転進した。
台湾に持ち込まれた多数の紫禁城の秘宝は、現在台北市の『故宮博物院』(クーコン・ポーウー・ユェン)に展示されており、誰でも見学できる。
以上

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