2014年12月19日金曜日

最高裁判事の信任投票

衆議院総選挙の度毎に、「最高裁判事の信任投票」(国民審査)が行われる。最高裁判事は、裁判所の推挙に基づき、内閣が最高裁判事を任命する。信任投票の対象となる裁判官は下記である。
  • 任命後初めての衆議院選となる最高裁判事
  • 衆議院選後10年を経過した最高裁判事(最高裁判事は高齢で任命されるのでこれは無意味)
この信任投票制度は、「アメリカ合衆国ミズーリ州の憲法」を参考にして作られた制度と言われている。アメリカの各州には「州憲法」・「州最高裁」があり、それぞれ独自の司法システムを持っている。アメリカ合衆国全体の最高裁は、信任投票制度を持っていない。

日本の最高裁判事の信任投票については、『最高裁昭和27年2月20日(1952年)大法廷判決』(3頁)において、最高裁は最高裁に都合のいい判決を行っている。要点を下に示す。

  • 信任投票は罷免の可否を判断する。
  • 信任投票は任命の可否を判断するものではない
  • 白票は、「罷免する積極的意思なし」とする。
  • 信任投票は、「罷免する積極的意思」の有無で決する。
  • × 印以外の記号を書けば無効票となる。
  • 審査公報では、事件名のみの記載で可。(個々の判事意見は不記載でよい)


2014年12月14日衆議院総選挙と共に「最高裁判事の信任投票」が行われた。信任投票結果を、下記に示す。

        鬼丸かおる  木内道祥   池上政幸   山本庸幸   山崎敏充
× 印              4,678,087     4,861,993      4,855,670     4,280,353     4,786,184
無記入       46,138,768   45,954,803    45,961,112   46,536,351    46,030,604
無効票                   720               779                793               871                787
投票総数   50,817,575
× 率(%)       9.206             9.568            9.555             8.423            9.418

無効票は、熊本県・福島県特異的に多発している。
投票率とうは下記である。
  • 有権者数         103,858,444(約1億人)
  • 投票数               52,859,837
  • 棄権者数           50,998,584
  • 投票率               0.5090
  • × 総数               23,462,287
  • × /票                  0.462


興味深いのは、1票当たりの× の数 である。0.462 だから、過半数が白票を投じたらしい。「過半数が棄権」したと考えるべきである。

一般的には名前の記載番号が若いほど、× を受けやすいと思われる。しかし鬼丸・山本の両氏は、特異的に× 率」が低い。意図的に × 印を付けなかった人が多数いたことになる。
即ち、『鬼丸・山本』両氏を積極的に信任した人たちが多数いた事が証明される。

鬼丸かおる・山本庸の両氏は、『現状の1票の格差』を違憲と見做した裁判官である。

この人たちを信任しているが、信任投票で〇を付ける事が出来ないので「他の人に × 」を付けて意思表示をしたのである。はなはだ回りくどく、分かりにくい仕組みにされている。

信任投票であるから、素直に「信任する人に〇印を記入するシステム」に直せば、単純明快な良い制度になるのである。
しかし日本国は『最高裁判事信任投票』を現状の劣悪な制度設計のまま長年にわたり放置し、「国民審査」と呼称して不信任者に× を与える『不信任投票』方式を堅持し続けているのである。誠に残念である。慨嘆久し。
以上

2014年12月3日水曜日

君が代と日の丸

一般的には、国家(state)は国歌(national anthem)と国旗(national flag)を持っている。日本では、相撲の千秋楽には総員起立して「君が代」を合唱することになっている。
2020年の東京オリンピックで幾つかの金メダルを獲得することができれば、「日の丸」の掲揚と「君が代」の演奏を聴き、日本人として大いに感激に浸ることができる。

しかし地球は広いもので、国家を歌えない国が幾つか存在している。スペイン・アラブ首長国連邦・カタール他若干の国である。それぞれ国歌は有るのだが、歌詞がないので唱和することができない。
スペイン国歌「マルチャ・レアル:Marcha Real:国王行進曲」は、ヨーロッパ最古の国歌の一つで、起源も作者も不明である。最初の記録は1761年に登場するようである。1770年に、国王が公式行事の際につねに演奏するように命じたので、国歌とし「国王行進曲」と言われるようになった。

「君が代」が最初に登場したのは、古今和歌集(略称:古今集)である。平安初期(912年頃)に完成した、日本最初の勅撰和歌集である。

 
  賀歌 題しらず 詠人しらず
  
  我が君は 千代にやちよに (千代にませませ) さざれ石の
                     巌となりて 苔のむすまで(苔むすまでに
 

この歌の『我が君』が、大君(天皇)とか朝廷を意味すると断定することはできない。むしろお祝いの席で、「お祝いの当事者」の長寿を願った賀歌であろうと思われる。特に女性が「大切な」男性を呼ぶときは『君』と言う。

鎌倉時代から以降(1200年頃)では、和漢朗詠集の写本等で、現在の「君が代」となっている。

  君が代は 千代に八千代に さざれ石の
                 いわおとなりて こけのむすまで

鎌倉幕府以降明治維新まで、征夷大将軍治世下の幕府の時代は、「君が代」は一般的な「長寿を願いことほぐ賀歌」とされていた。しかし時代が下がるにつれて「君が代」の解釈を「天皇の治世」と解釈する傾向が強くなっていったようである。
鎌倉・室町時代は、宴会等の際に最後のお開きの時に謳う和歌の定番になっていた。しかし幕藩体制の江戸時代の前期(17世紀中頃)において、はやくも「君が代天皇の治世の意である」と解釈する国学者が出てきたのである。
明治以降は、何はばかる事もなく「天皇の治世」と決めてしまった。

音曲の方は、林廣守(1831-1896年)が作曲し、ドイツ人エッケルトが和声をつけた。これを明治26年(1893年)8月12日「祝日大祭日歌詞並楽譜」を官報に告示した。これより以降「君が代」は事実上「国歌:national anthem」となっていた。
さらに平成11年(1999年)8月13日公布・施行された「国旗及び国歌に関する法律」により、日の丸を国旗とし君が代を国歌とすることを法律で定めた。

日本で最初の吹奏楽団が結成されたのは、1869年である。薩摩藩が藩士数十名を選抜し薩摩バンドを結成した。指導者は、イギリス人ジョン・ウイリアム・フェントンである。薩摩バンドの合宿所を、妙香寺(横浜市中区妙香寺台8)に定めた。最初は楽器もないので、調練・譜面の読み方・等の訓練をしていた様である。注文していた輸入の楽器類が、明治3年(1870年)7月に妙香寺に届き、本格的な吹奏楽の練習ができるようになった。フェントンも「君が代」の作曲を試みたが不評で不採用となった。

妙香寺に「国歌君ヶ代発祥之地」の碑がある。これを正確に説明するならば、不採用となったフェントンの「君ヶ代発祥之地」である。
ここで、光明寺の名誉のために申し添えておきたい。日本最初の吹奏楽団薩摩バンドがここで結成され、ここがその合宿所となっていたのは紛れの無い事実である。

日の丸の歴史は極めて古い。古代では天照大神(あまてらすおおみかみ)を太陽神とし、日本人は太陽神の末裔と考えていた。即ち「日の本の人」なのである。
中国の隋書に、日本から遣隋船が来たことが記録されている。隋は西暦581年中国を統一し618年に唐に滅ぼされた。
小野妹子(おののいもこ)の遣隋船が持参した口上書は、「日出處天子致書日没處天子無恙云々」とある。「日出づる処の天子、日没する処の天子に書を致す。つつがなきや、うんぬん」である。意気軒昂な挨拶ではあるが、当然相手を怒らせてしまった。「日本の天子」と名乗ったからである。隋の煬帝から小野妹子に託された返書のあて先は「倭王」宛てになっている。

日本の船に「日の丸」の旗がはためくようになったのは、室町時代の勘合貿易以降(1401~1549年)である。日本の船籍を表す旗として、日本船は「日の丸」をへんぽんと翻しつつ、極東の海を闊歩していた。
16世紀にはシャム(現在のタイ)には、アユタヤ(バンコクの北方)郊外に日本人町が出来ており、「アユタヤ」王朝には日本人の雇兵隊もいた。
アユタヤ侵略を目指して上陸してきたスペイン艦隊の陸戦隊を、日本人町の頭領山田長政は、日本義勇兵を率いて「日の丸」を掲げて迎撃し、撃退した。

鎖国を行った江戸時代は、国籍表示よりも藩籍表示が重視され藩の旗を掲げるようになっていった。ただし幕府海軍は「日の丸」を使用していた様である。1860年勝海舟が太平洋横断を行った三本マストの咸臨丸(かんりんまる)の船尾には、「日の丸」の旗が翻っていた。

幕府陸軍も「日の丸」の旗を掲げていた様である。幕軍のフランス式騎兵隊の調練の絵に、「日の丸」をかざして乗馬している人が描かれている。

戊辰(ぼしん)戦争(明治元年-明治2年:1868-1869年)では、官軍の陸軍は錦旗を掲げて進軍した。錦旗は元公卿であった岩倉具視の発案によるものである。
1862年三条実美らの進言により、孝明天皇は岩倉具視らに辞官・蟄居を求められた。皇女和宮の降嫁の際に岩倉具視も同道していたので、親幕派と見做されたようである。
錦旗は、岩倉具視が洛北の岩倉村に蟄居中に発案し、薩摩藩・長州藩に作成させた。赤地の細長い布地の上部に金色の丸い日像があり、その下に「天照皇太神」と金字で書いてある。

戊辰戦争の発端は、1868年1月26日幕府軍艦2隻が兵庫沖で薩摩藩軍艦に発砲して始まった。引き続き27日には新政府軍と幕府軍との「鳥羽・伏見の戦」へと拡大していった。「日の丸」の旗と「天照皇太神」の旗との本格的な戦争になったのである。奥羽越列藩同盟も共通の旗として「日の丸」を使用し、会津の白虎隊も「日の丸」の下で戦った。

戊辰戦争は、新政府軍の勝利に終わり、幕府は消滅した。しかし「日の丸」の旗は、新政府に引き継がれ、明治3年(1807年)1月27日制定の太政官布告により、「御国旗」と規定された。これ以降「日の丸」は日本船の船籍を示す旗として使用され、事実上の国旗として使用されていた。法律上国旗と制定したのは平成11年(1999年)8月13日である。
以上

2014年11月4日火曜日

トランプと麻雀と百人一首

囲碁や将棋は、19×19や10×10の罫線を引いたそれぞれ専用の盤を使用するゲームである。従って『ボードゲーム』の分類に入れられる。チェス(西洋将棋)や双六(すごろく)もボードゲームである。
トランプや麻雀は、専用の盤は不要である。「専用の盤」なしで行われるゲームを『テーブルゲーム』という。
日本のテーブルゲームの筆頭は、トランプと麻雀であろう。トランプと言うのは日本固有の言い方であり、英語では「プレイング・カード」と言われる。英語で「トランプ」と言うのは、切り札の事である。

現在のトランプは、「クラブ」・「ダイヤ」・「ハート」・「スペード」の4つの「スーツ」があり、各スーツの札の数は13枚である。合計で52枚になる。一般的には、この他に「ジョーカー」2枚ほどが入れられているのが1セットである。
この形式のトランプがほぼ出来上がったのは、15世紀後半のフランスであると言われている。これがイギリスにわたり16世紀には現在のトランプの様式が完成されていた。

トランプゲームは多種多様にあるが、最も知的でユニークなゲームは『コントラクトブリッジ:略称ブリッジ』であると思う。4人で行うゲームであるが、向かい合った2人が1つのチームである。1つのテーブルで2つのチームが対戦する。米国や英国の家庭に招待された場合は、来客チーム vs ホスト夫婦の対戦が行われる。
「どのスーツを切り札にし、カードを何枚獲得するか」をセリ落とし、セリの結果を実現してみせるゲームである。日本には「日本コントラクトブリッジ連盟」があり、競技会等が行われている。
現在行われているような形式のブリッジが完成したのは、20世紀半ば頃であり、極めて新しいゲームである。
セリのシステムやセリ上げ方に色々なシステムやコンベンションが使われており、生半可な知識では、ゲームに参加できない。
もう50年も昔になりますが、私が外来研究員として原研(原子力研究所)の独身寮に居た頃、夕食の後はいつも原研の方々と「ブリッジ」を楽しんでいたのを思い出します。ビッドシステムはゴーレンだったと思います。

「ブリッジ」では、全部のカードを獲得することを『グランドスラム』と言います。ゴルフやテニスのグランドスラムは4大・大会を制覇することですが、ブリッジの『グランドスラム』は4種類のスーツの全部の札を獲得することです。ゴルフやテニスはブリッジからの連想で、『グランドスラム』と言うようになったものとだと推量します。

麻雀は19世紀末頃に現在使用されているような形式のものが出来上がったようである。麻雀の盛んな国は、中国・台湾・日本・米国である。
日本の麻雀は、萬子(マンズ)・索子(ソウズ)・筒子(ピンズ)の9×4×3=108枚の牌と白・発・中の3元牌12枚と東・西・南・北16枚と合計136枚の牌を使用している。
これをテーブルの中央で掻き混ぜて並びなおす動作を洗牌という。これを全自動で行う麻雀卓がある。業務用として数十万円もしていたが、最近はずいぶん安い麻雀機が出現してきたようである。

ブリッジは、2人同士の2チームの対戦である。麻雀も4人でテーブルを囲むが、4人がそれぞれ個々に敵対し個人戦を戦い、①・②・③・④の順位を争う。
麻雀はテーブルゲームであり、ゲーム専用の盤は使用しない。従って麻雀用のテーブルはあるが、罫線等は一切引かれていない。麻雀卓は60~70糎(センチ)四方の正方形の卓で、卓の周りに枠が設けてある。枠の底の卓の天板には、緑色のフエルトが貼ってあるのが一般的である。

百人一首は盤やテーブルを使用せず、畳敷きのお座敷で行う『座敷ゲーム』である。
鎌倉時代の藤原定家(1162~1241年)が選んだ秀歌選が小倉百人一首と呼ばれている。小倉百人一首で「歌かるた」が作られている。かるたは短冊形の厚手の紙札で、「読み札」100枚と「取り札」100枚が1セットになっている。「読み札」は、歌人の「絵姿」・「名前」・「歌」が書かれている。「取り札」は、歌の下の句だけが「ひらかな」で書かれている。

百人一首で行われるゲームは、「坊主めくり」と「かるた取り」が有名である。
「坊主めくり」は多人数で行い、、「読み札」だけを使用する。読み札を全て裏返しにして積み上げ、山札とする。参加者が順次に山札を1枚だけ取って、自分の手札にする。
取った札の種類により下記を行う。
  • 歌人が坊主以外の男ならば、自分の手札に加える。
  • 歌人が坊主ならば、自分の手札を全て供出し山札の横に置く。
  • 歌人が姫ならば、供出の札全てを自分の手札に加える。
山札が無くなったら、ゲームの終了となる。手札の多さによって順位を決定する。

「かるた取り」は、大勢で行う場合と2人だけで行う「競技かるた」とがある。大勢で行うかるた取りは、読み手を一人選ぶ。取り札100枚を畳の上に散らして並べる。取り札の周りを、参加者が取り囲んで、読み手の歌詠みを待つ。この時不公平をなくすため、取り札はテンデンばらばらな向きに並べて置く必要がある。読み手が歌を詠み始めれば、取り手が取り札を取ってよく、その歌の下の句に該当する取り札を探し出し、自分の手札にする。
取り札が無くなれば、ゲームが終了する。手札が多い順に順位が決定される。

「競技かるた」は、「社団法人全日本かるた協会」の定めたルールで行われる本格的な『座敷ゲーム』である。毎年1月上旬に近江神宮(滋賀県大津市)で「名人戦」・「クイーン戦」が行われている。

競技かるたは、取り札50枚を使用し半分の25枚を自陣に並べ、残りの25枚が敵陣に並べられる。競技者には15分の暗記時間が与えられ、自陣・敵陣の各札の位置を記憶する。
読み手の読む「読み札」は、100枚を全部使用しランダムな順序で詠む。読み札が読み始められると、該当する取り札を早く取る競技である。自陣の札で勝った場合は、その札が取り払われる。敵陣の札で勝った場合は、自陣の札1枚を敵陣に送る。
自陣の札が無くなった方がゲームの勝者となる。札を取る手は片方だけと決められており、取り手の変更は違反となる。「お手付き」の場合は相手陣から1枚の札を送られる。

1月の名人戦・クイーン戦はNHKで放映されるが、競技選手の恐ろしいほどの集中力と瞬発力の早業に、思わず息を呑むこと必定である。
以上








2014年9月18日木曜日

囲碁と将棋の話

日本の2大ボードゲームと言えば、囲碁と将棋を挙げる事ができる。囲碁は、中国の春秋時代(BC770~403)に生まれたようであり、二千数百年の歴史を持つ。将棋は、6世紀にインドで発明された「チャトランガ」がルーツの様である。

囲碁が日本に伝来したのは、奈良時代(710~794)に間違いない。東大寺の正倉院に聖武天皇(在位724~749年)・光明皇后の御愛用品が御物として保存されている。これらはユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている。この大切な御物の中に「木画紫檀棊局:もくがしたんのききょく」があり有名である。罫線には象牙が埋め込まれている。碁石は、珊瑚・瑪瑙(めのう)等である。この他にも正倉院には碁盤2面が保存されている。

将棋については、平安時代(794~1185)末期の将棋駒が4点、興福寺旧境内で発掘されている。桂馬・歩兵の他「酔象:すいぞう」の駒である。残り1点は、文字が確認できず種類不明である。「酔象」は現在の日本将棋では使用されていないが、「攻撃範囲」は周囲8方向のうち、真後ろに下がれないだけである。

「チャトランガ」は、チェスと同様8×8=64の「マス目に駒を置くゲーム」である。
「中国将棋:シャンチー」は、9路盤であるが罫線の交点に駒を置く。自陣中央に「帥」がいる。「朝鮮将棋:チャンギ」も、9路盤であり罫線の交点に駒を置。自陣中央に「漢」がいる。「西洋将棋:チェス」は、8×8=64の「マス目に駒を置く。自陣中央にキングとクイーンが並んでいる。

将棋の各駒には、駒の種類ごとに「攻撃範囲」が決められている。駒は「攻撃範囲」に出撃できる。「攻撃範囲」に敵の駒があれば、これを捕獲し盤上から除去して「攻撃範囲」に進出できる。
将棋の勝負は、敵のキング王将を味方の駒の「攻撃範囲」に追い詰め逃げ場を失わせる
事により勝ちが確定する。
外国の将棋は、駒が最初から敵味方で色分けされていて、相手に捕獲された駒は盤上から除去されてゆく。戦いの進行に従って、敵味方の駒がどんどんと盤上から減って行き、どちらも手勢不足で、指揮官同士の平和共存の道しか残っていない場合が起こりうる。
外国将棋の「引き分け率」は、25~30%。先手の勝率60~70%の様である。

昔の西洋人は、チェスを「キング オブ ザ ゲーム」と称賛していたようであるが、囲碁や日本将棋を知らなかったのであるからやむを得ない。
キングが戦いに疲れ果て、平和共存するのは慶賀至極かもしれないが、私の個人的見解からすれば、『勝負をつけるのがボードゲームの真骨頂』である。理想のボードゲームとは「引き分け率」はほぼ0であり、先手の勝率は限りなく50%に近いことが望まれる。

チェスの「引き分け率」30%先手勝率70%は、理想に比べるとはるかにかけ離れた数値であり、誠に残念である。
日本将棋での、プロの「引き分け率」は2%程度であり、先手勝率は50.6~54.0%程度(年により変動)である。囲碁では「引き分け率」はほぼ0であり。先手勝率は50±0.05%程度となっている。

外国将棋に比べ、日本将棋だけが極端に理想ボードゲームに近いのには、明確な理由がある。
日本将棋だけが、捕獲した相手の駒を味方の戦力として再利用できるルールとなっているのである。外国将棋は敵味方を、色を違えて判別しているが、敵の捕虜を自分の駒として使用する日本将棋では、敵味方を色で判別させる訳にはいかない。駒は全て同色にして、別の方法で敵味方を判別する手法が必要になる。
そこで採られた方法が、「駒に種別を示す文字を書く事」と「駒を5角形にして尖った先を敵陣に向ける事」の双方で敵味方の判別が行われている。これ等は日本人の大発明であった。

しかしこの大発明によって、日本将棋に様々な「禁じ手」を生む結果となっている。
  • 同一縦線上の2歩打ち
  • 王の歩打ち詰め
  • 敵陣の最奥に歩・香・桂打ち(動けない駒となってしまう)
  • 敵陣の2列目に桂打ち(動けない駒となってしまう)

囲碁は極めて単純なルールのボードゲームである。縦横19×19=361の罫線の交点(目という)に石を置いてゆくだけである。石は移動しない。石は丸くて、碁笥に入っている間は全く個性がなくて平等である。敵味方は白石と黒石で判別される。

しかし碁笥から取り出されて、ひとたび盤上におかれると、敵味方の相互関係により石の価値に大差が生じる。敵石を屠る必殺の石となったり、全く無意味な「駄目石」だったり、敵の威力を減殺する囮だったり、打ち手の力量次第で千変万化する。
石は原則として、空いている目の何処に打ってもいいと言うのが、単純明快で清々しい。

対局を始める時点では、敵味方の陣地は全く存在していない。交互に石を置きながら戦いが進むにつれて、敵味方の陣地らしきものが形成されてゆく。
囲碁の勝敗は、敵味方の囲った陣地内の『空白の目の数』の多さで決せられる。終戦後味方の陣地内の「敵の捕虜」は敵陣に返され、敵陣の『空白の目の数』を減らす事になる。我々素人の大乱戦の対局では、戦後の捕虜交換を行ってみないと、勝敗が分からぬ事が多々ある。
置き碁(2~9子局)の場合は、白から打ち始めるが、同等の対局だと黒から打ち始める。ただし6目半の「コミ」を出すことになる。先手有利の代償である。7目以上の目数差がないと黒の勝ちにならない。

囲碁の別称として『手談』はよく知られている。『爛柯:らんか』もまた有名である。中国の王質という樵(きこり)が石室山に入ってゆくと、童子が碁を打っていた。童子に勧められた「なつめの実」のようなものを食べながら観戦していた。ふと気付くと斧の柯(柄)が腐爛して朽ちていた。驚き慌てて急いで里に帰ってみたが見知らぬ人ばかりであった。要するに「中国の浦島伝説」の一つなのである。碁を観ていると時のたつのを忘れるようである。
『奕:ばく』も、囲碁・ばくち・勝負事を表す。

古式の囲碁は、四隅の星に黒石と白石を交互に置いてゆき、5手目から試合開始となっていた。中国・韓国では、80~100年ほど前までは、古式の方法で打たれていたようである。
この方式をやめたのは、もちろん日本が最初である。16世紀後半の事である。本能寺の変(1582年6月21日)の直前に、織田信長の前で本因坊算砂と鹿塩利玄の対局が行われており、その棋譜が残っている。これは古式ではなく現代方式の打ち碁である。

本因坊算砂(1559~1623年)は、京都の日蓮宗寂光寺本因坊の僧で法名を日海と言った。豊臣秀吉が天下を平定し、1588年碁打ちを招集し、御前試合を行わせた。日海はこの大会で優勝し、20石10人扶持が与えられた。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は、本因坊算砂にいづれも5子で指導碁を打ってもらっていた(座隠談叢)ようである。
江戸幕府が開かれ(1603年)、1612年囲碁衆・将棋衆は寺社奉行あずかりとなり、俸禄が与えられた。本因坊算砂は、将棋の大橋宗桂とともに50石10人扶持であった。

現在の囲碁同好会では、囲碁の段級位を持ち点制で定めている場合が多い。一般的には初段を200点とし、1段級位差を±13点としているようである。104点差であれば9子局となる。4級の人であれば、9子局で5段と対局できる。これらは勿論アマ同士の対局のハンディーの話である。

最近は、パソコンソフトで相当に強い将棋ソフトや囲碁ソフトが出てきて楽しみが増えてきた。将棋ソフトでは、かなり古くから強いソフトが開発されていたようである。
最近囲碁ソフトを購入し対局してみたが、相当以上に手ごわい相手であった。互先黒番で対局したが、幸いにも白の大石を仕留めて大勝できた。次の日白番でやったら、完膚なきまでにやられてしまった。相手の方は適当に手抜きして、私の読み筋にない手を次々に打ってくる。残念ながらソフトの方が私より若干上手の様である。

パソコンソフトに負けた悔しさで、悔し紛れに気付いたのが考慮時間の差であった。私の考慮時間は合計30分程度に過ぎないのに、「あ奴」はやたらに長考していた。
翌日持ち時間30分ずつで対局してみたら、白番でも黒番でも私の勝ちは動かない。
あ奴」は局勢悪しと気付くと、私の地の味の悪そうな処なん箇所かに、それぞれ石を打ってくる。順次に私の読み筋通りに正しく対応してやると、「あ奴」は遂に諦めて投了してくれる。なかなか愛嬌があってよろしい。

何時までも「あ奴」と言う訳にもいかないので、近いうちに「あ奴」に適当な名前を付けて遣ろうと思っている。

以上






2014年8月15日金曜日

三途の川 愚考

齢傘寿(数え年80歳)ともなると、つまらぬ話が妙に気になるものである。
この世とあの世の境界に『三途の川』(さんずのかわ)があるという話である。平安時代末期(12世紀)から、三途の川の渡し賃は「銭六文」であると言い伝えられている。
渡し賃を持たずに冥界に入国した者たちは、冥界の入国管理官である奪衣婆に渡し賃代わりに衣類を剥ぎ取られ、裸で渡る事になるそうである。

16世紀に信濃国小県郡(おがたぐん)上田(現在の上田市)に真田幸隆(ゆきたか)(1513~1574)という武将がいた。甲斐国武田家の家臣であった。
真田家の旗印として「六文銭」を定めたのは、真田幸隆である。戦場の戦死者の三途の川の渡し賃として考えたものであろうと思う。戦場に臨むにあたって「不惜身命:ふしゃくしんみょう」の決意を表したものである。身も命も惜しまず戦い抜き、三途の川を渡ることを辞せずとの思い入れを込めた旗印なのである。
これ以降、真田家の旗印は「六文銭」が良く使われているが、これ以外にも「結び雁金」・「州浜」の旗印もある。

真田幸隆の嫡男信綱と次男昌輝は、長篠設楽原(ながしの・しだらがはら:愛知県新城市)の決戦(1575/7/9)で、織田方の銃弾にたおれ戦場の露と消えた。
織田・徳川連合軍3万8千人と、武田騎馬軍1万5千人の激突であった。この時の織田軍の3千挺の鉄砲の威力は凄まじかった。武田騎馬軍団は、設楽原に屍の山を築き事実上壊滅してしまった。
真田信綱・昌輝の兄弟は、父の定めた「六文銭」の旗印に包まれて、無難に三途の川を渡ったに違いない。

この後の真田家の当主は、真田幸隆の三男真田昌幸(まさゆき:1547~1611年)が引き継いだ。昌幸は実に立派な知将であった。
上田城は眞田昌幸によって1583年に築城された平城である。この城により真田昌幸は、攻め寄せてきた徳川軍を2度にわたり撃退している。

第1次上田合戦(1585年)は、徳川家康が家臣団で選りすぐった真田討伐軍7千人を編成し上田に差し向けた。これを迎え撃つ真田軍は、1千2百人と援軍上杉軍の若干名に過ぎなかった。結果は徳川軍の大敗となり、死者千名余りを出している。徳川方は「銭6千文」の三途の川の渡し賃が必要となった。

第2次上田合戦は、関ヶ原の合戦(1600年)と関連している。徳川家康は下野国小山(栃木県小山市)から関ヶ原に取って返す時、東海道を通って行った。徳川家康の子息・秀忠(2代将軍)は、3万8千人の軍勢を率いて中山道経由で関ヶ原に向かった。その進路を阻んだのが3千5百人で守る真田昌幸の上田城である。
初陣の徳川秀忠は、知将真田昌幸に散々に振り回され、徒労を重ねる事になってしまった。真田昌幸の狙いは明確である。上田城に拘泥させて、「天下分け目の合戦」に間に合わなくさせる事である。謀略により既に3日も無駄に停泊させており、後は籠城により数日持ちこたえれば、お釣りがくると読んでいたようである。
徳川秀忠は上田城を無視して通過すればよかったのであるが、知将真田昌幸の策にまんまと乗せられてしまった。

9月5日徳川秀忠は、信濃国上田から黒田長政(黒田官兵衛の嫡男)宛ての書状を出している。9月8日の最後の上田城攻めも不首尾に終わり敗退している。9月10日徳川秀忠は上田城攻めを中止し岐阜に向かって発進した。真田昌幸の策略により、徳川秀忠は5泊6日上田に滞在させられ、その後の悪天候にも難渋し、9月15日の関ヶ原の合戦には間に合っていない。このため徳川秀忠は、徳川家康から大叱責を受けている。

閑話休題「三途の川」談義に戻る。
近年日本では火葬が一般的であり、冥界への出国検査で、法令により金属類の携行は堅く禁じられている。甚だ困った事態であるが「六文銭」の旗か、、「六文銭」を印刷した紙を持って行くしか方法がないようである。
台湾・中国・韓国では、商業的に冥銭が発行されているが、各国における三途の川の渡し賃が幾らなのかは詳らかでない。日本の文銭との為替レートも不明である。
台湾・中国・韓国では、墓前で冥銭の束を焼くことによって、冥土への送金を行うようである。額面が米ドル単位の「冥通銀行券」も発行されている。

恐らく数億人の日本人が三途の川を渡っていると思うが、冥界に関する情報量が極めて貧弱なのに困惑している。渡船場の構造とか、船は何人乗りか、櫓漕ぎか櫂か竿か、船頭はどんな風体か、川幅はどの程度で急流なのか歩いて渡れそうなのか、知りたいことが山ほどある。
冥土の旅は、元々片道切符しか持っていないのでやむを得ないと思うが、まれには忘れ物に気づいて、この世に取りに帰ってきた人もいて欲しい。

三途の川は、彼岸に渡るしかないと思うのも不思議な話である。川は遡行もできるし、流れ下って海にも出られる。三途の川の源流はどこから発し、どこの海に流入しているのか、調べてみたい。
私の想像では、須弥山(しゅみせん)に端を発し、八海の一つに流れ下っているのだろうと思っている。仏教の世界観では、須弥山を中心にしてこれを八つの山が取り囲んでいる。八つの山の中に鉄囲山(てっちさん)と呼ばれる山がある。三途の川は須弥山に端を発し、須弥山と鉄囲山に囲まれた海に流れ込んでいるに違いない。

今では各大学の山岳部・探検部・ワンゲル部のOB・OGで冥界入りされた方々もおられると思う。かの地では「三途の川旅行記」が出版されているかもしれない。

ここまで想像してみて、これ以上想像を膨らませると収拾がつかなくなると悟った。
この世で立派な功績を遺した人々が、続々と冥界へ渡っていった訳である。渡し賃は「銭六文」のままかもしれないが、冥界が全く進歩していないと考える方が荒唐無稽な考え方であると思う。
三途の川には立派な橋が架けられており、入国管理官『奪衣婆』は居るかも知れないが、入国手続きは電子化され、スムーズな入国者の流れができていると考えられる。
日本の人口は、今世紀末には5千万人程度と予測されるが、冥土の人口は増加する一方である。冥土が今後将来も、大発展してゆくことは間違いないと思う。

日本の川で『三途の川』の名称を持つ川が存在している。群馬県多野郡甘楽町を流れる川で白倉川を経由して鏑川に流入している。利根川水系の川である。
上信電鉄上信線の上州新屋駅(じょうしゅうにいやえき)の傍を流れている。
白倉川合流地の付近に姥子堂(うばごどう)があり、奪衣婆が祀られている。
以上

2014年8月2日土曜日

日・韓・中の経済的互恵関係

日本の隣国大韓民国中華人民共和国は、経済的互恵関係を今後一層深めながら、良きライバルとして競い合い、相互発展を続けてゆきたいものだと思っている。そのために、日・韓・中の様々の経済指標の現状を確認してみる事にした。

日・韓の輸出入相手国を詳しく調べてみると、日・韓・中・米が『経済的互恵関係』の絆で強く結ばれている事が分かってきた。もはや既に、お互いが「不可欠の大切な国である」ことは、紛れのない明白な事実である。

中国の習近平国家主席や韓国の朴槿恵大統領がいかに歴史認識に拘泥していようと、日本の安倍総理が「経済的互恵関係」の看板で首脳会談の実現を熱望していようと、これ等にお構いなく現実の「経済的互恵関係」は今後も力強く進展してゆくことに間違いはない。

日本にとって、輸入先の第1位が中国であり、第2位米国、第6位韓国である。
輸出先の第1位は米国、第2位中国、第3位韓国である。

韓国にとっては、輸入先の第1位が中国、第2位が日本、第4位が米国である。
輸出先の第1位は中国、第2位が米国、第4位日本となっている。

1.GDP(国内総生産)

2013年の名目GDP
         
          日本         韓国         中国          米国
  兆ドル          4.920                       1.222                       9.181                         16.800
世界ランキング                                15                           2                                  1
人口 億人       1.2734                      0.5022                    13.6076                      3.1637

GDP/人 ドル/人 38,840                    24,320                     6,750                        53,100
世界ランキング     24                            33                           84                               9

  ランキング         国名                 GDP(ドル/人)
            1                                ルクセンブルグ                            110,424
            2                                ノルウェー                                    110,318
            3                                カタール                                       110,260
            4                                スイス                                             81,324
            5            オーストラリア                                64,863
            6            デンマーク                                      59,191
            7                                スウェーデン                                  57,979
            8                                シンガポール                                 54,776
            9                                アメリカ                                           53,101                               
           10                               カナダ                                             51,990

2.通貨

通貨単位      円         ウォン(韓)        元(中)      ドル
為替(対ドル)
2010年               87.78                       1154.70                           6.7696                 1.00
2011年               79.81                       1107.42                           6.4601                 1.00
2012年               79.79                       1126.13                           6.3123                 1.00
2013年               97.60                       1094.09                           6.1952                 1.00
2014年             102.54                       1851.85                           6.1380                 1.00
  

円とウォンは自国の通貨価値を下げているが、元は通貨価値を高めている。特にウォンは、2014年に急激に信用を失った様である。

3.韓国の輸出入

韓国の輸出入を調べると、日・中との経済的な連携の重要度を知る事ができる。
韓国の輸出入相手国は下記である(2013年統計)。

  輸入先           億ドル        %
  中国                                   825                        16  (おもに原材料輸入と推定)
  日本                                   619                        12  (おもに部品輸入と推定)  
  EU                                      567                        11  (おもに部品輸入と推定)
  米国                                   412                          8  (おもに部品輸入と推定)
  サウジアラビア                  361                          7  (おもに石油輸入と推定)
  カタール                             258                          5  (おもに石油輸入と推定)
  オーストラリア                   204                           4  (おもに原材料輸入と推定)
  その他                             1908                         37
  合計                                 5156                       100

  輸出先                             億ドル                      %
  中国                                 1455                         26
  米国                                   616                         11
  EU                                      504                          9
  日本                                   336                          6
  香港                                   280                          5
  シンガポール                    224                           4
  ベトナム                            224                           4
  その他                             1959                         35
  合計                                 5596                       100

  
韓国の貿易の基調は、原材料・部品を輸入して完成品を輸出し、貿易収支の均衡を図っている。上記輸出入表において、貿易収支が赤字となっている国を朱記している。

  ①韓国は、原材料・部品を輸入し国内加工し、完成商品を輸出している。
  ②韓国の貿易収支は440億ドルの黒字である。
  ③韓国は中国から原材料を輸入し、完成品輸出を行っている。
  ④韓国の対中国貿易収支は、630億ドルの黒字である。
  ⑤韓国の対日貿易収支は、283億ドルの赤字である。
  ⑥韓国の対EU貿易収支は、若干の赤字であるがほぼ均衡している。
  ⑦韓国は、湾岸諸国から大量の石油を輸入している。(619億ドル
  ⑧韓国は、オーストラリアから天然資源の原材料を輸入している。
  ⑨韓国にとって、日本は部品仕入先として大切な国である。

4.日本の輸出入

日本の輸出入相手国(2013年統計)

 輸入先            兆円         %
 中国                                   17.65                      21.7  (原材料・製品輸入)
 米国                                     6.81                        8.4
 オーストラリア                     4.98                        6.1  (主として原材料輸入)
 
 
 
 サウジアラビア                   4.86                        6.0  (石油・天然ガス輸入)
 アラブ首長国連邦              4.15                        5.1  (石油・天然ガス輸入
 韓国                                    3.49                        4.3
 マレーシア                          2.90                        3.6
 インドネシア                       2.82                         3.5  (原材料・天然ガス輸入)
 ドイツ                                  2.32                         2.9  (部品・製品輸入)
 台湾                                    2.31                        2.8
 その他                               28.98                      35.6
 合計                                   81.27                    100.0

 輸出先                               兆円         %
 米国                                   12.93                      18.5                                     
 中国                                   12.63                      18.1
 韓国                                     5.52                       7.9
 台湾                                     4.06                       5.8                      
 
 香港                                     3.65                       5.2
 タイ                                       3.51                       5.0
 シンガポール                       2.05                       2.9                 
 ドイツ                                    1.85                       2.7
 インドネシア                         1.66                       2.4
 オーストラリア                      1.66                       2.4        
 
 その他                                20.27                     29.1
 合計                                    69.79                   100.0

日本の原発は全て停止しており、近年燃料輸入が増大して日本の貿易収支は大幅の赤字である(11.48兆円)。
輸出入表において、貿易収支が赤字となっている国を朱記している。

   
  ①日本は原発が全て停止しており、燃料輸入が急増している。
  ②このため近年貿易収支の赤字が急拡大している。
  ③日本の輸出先NO1は米国で、対米貿易収支は6.12兆円の黒字である。
  ④日本の輸出先NO2は中国で、貿易収支は5.02兆円の赤字である。
  ⑤日本の輸出先NO3は韓国で、貿易収支は2.03兆円の黒字である。
  ⑥湾岸諸国との貿易収支は、9.84兆円の赤字である。
  ⑦オーストラリアとの貿易収支は、3.22兆円の赤字である。
  ⑧インドネシアとの貿易収支は、1.16兆円の赤字である。
  ⑨ドイツとの貿易収支は、0.47兆円の赤字である。

5.輸出入における日韓の差異

日韓ともに、燃料は全て輸入に依存している。

  輸入先         日本              韓国
  湾岸諸国        9.01兆円           619億ドル
  インドネシア      2.82               -
  合計          11.83                                     619     (約6.2兆円)

  ①韓国の総合貿易収支は、440億ドル(約4.4兆円)の黒字である。
  ②日本の総合貿易収支は、11.48兆円赤字のである。
  ③韓国は、対中貿易(輸出入1位)で630億ドル(約6.3兆円)の黒字である。
  ④日本は、対中貿易(輸入1位・輸出2位)で5.02兆円の赤字である。
  ⑤日本の輸出先の第3位は韓国で、貿易収支は2.03兆円の黒字である。
  ⑥日本は、対ドイツ貿易で0.47兆円赤字である。
  ⑦日本は湾岸諸国から大量の石油を輸入している。(9.01兆円
  ⑧日本はインドネシアから天然ガスを輸入している。(1.16兆円
  ⑨日本は、オーストラリアから天然資源の原材料を輸入している。(3.32兆円

6.日本の貿易収支改善の方策

日本の貿易収支が悪化したのは、2011年からである。2011年3月11日東日本大震災が起こり、殆どの原発が停止に追い込まれた。このため火力発電所用の燃料輸入が急増大した。
これに加えて、デフレ脱却を狙ったアベノミックスの円安誘導政策の副作用で、燃料輸入費が一層の割高となってしまった。

  年            貿易収支       経常収支
  2010                           909.2   億ドル             2040.3   億ドル
     2011                           -202.9                          1193.0
     2012                           -728.5                            604.5
     2013                         -1184.0                            343.4

韓国では、原発25基が稼働中であり、貿易収支面での韓国とのハンディーキャップは極めて大きい。
貿易収支改善のもっとも確実で手っ取り早い方策は、国内原発の安全性の確認を着実に進め、確認できた原発を順次稼働させてゆく事である。

長期的には、韓国の発送電分離・送配電国有化・使用済み核燃料再処理放棄等を参考にし、国内電力料金の『総原価方式』を取りやめ、強力に「原子力開発のスリム化」を進めることが大切である。
以上




2014年7月16日水曜日

朴正煕大統領と朴槿恵大統領

朴正煕(パク・チョンヒ)大統領(1917-1979)は、第5~9代の大韓民国の大統領である。
1963年、腐敗と混乱の中にあった「政治」と「軍」の中にあって、朴正煕は改革派を率いて決起し、クーデターにより政権を奪取した。独裁政治を推し進めるためKCIA(韓国諜報機関)による国内弾圧を進めたが、1979年10月側近の金載圭により暗殺された。

初代大統領は、李承晩(イ・スンマン)である。1950年の朝鮮動乱(北朝鮮軍の韓国侵入:1950~1953)の際、大統領は「李承晩ライン」を勝手に設定し、「海洋主権宣言」を一方的に行った。国際慣行を全く無視した非合法な『軍事境界線』の宣言である。韓国では『平和線:ピョンファソン』と呼称している。『軍事境界線』は、日本海と東シナ海に設定されていた。
単純に言えば、武力による『韓国の漁業専管水域の設置宣言』である。「平和線」を越えた日本漁船は片っ端から拿捕(だほ)された。抑留された日本漁民は4千人近くに達した。韓国との国交の無い『占領下:オキュパイド』(敗戦国)日本であったが、もちろん強硬に抗議した。米軍も「国際法上の慣例無視」と強く抗議してくれた。「李承晩ライン:平和線」内に日本領土竹島(韓国呼称独島:トクト)があったからである。

1965年、朴正煕大統領の下で「日韓基本条約」が締結された。またこれに付随する協約・協定等で日韓関係の正常化が進められて行った。竹島問題は双方の合意で棚上げにしておくことを前提にしていた。

これに関連した「財産・請求権・経済協力協定」により日本政府は、韓国政府に対し無償3億ドル・有償2億ドルの政府援助と、民間融資3億ドルの支援を行っている。当時の日本の外貨準備高は18億ドル程度であり、驚くべき多額の援助であった。しかも360円/ドルの交換レートであった。当時の韓国の国家予算は、わずか3.5億ドル程度である。
この協約締結の際、日本政府は「韓国人への個人補償は、日本政府が行う」と提案したが、韓国側が拒否した。『韓国が日本の経済協力金を一括して受け取り、韓国政府の責任において韓国人の個人補償を行う』ことで合意している。このために驚くべき多額の経済援助となった訳である。
ところが2010年韓国政府(李明博:イ・ミョンバク)は唐突に、「慰安婦」・「樺太残留韓国人」・「原爆被害韓国人」は別だと言い張り、日本政府に補償を要求してきた。日本政府は困惑したと思うが、『別だとする論拠』が私にはさっぱり分からない。

本論に戻り、朴正煕大統領はその驚くべき多額の経済援助を元手に、国内のインフラ整備や企業投資等に使用し、「漢江(ハンガン)の奇跡:(驚異的経済成長)」を達成した。実に秀でた手腕を持つ政治家であった。

朴槿恵(パク・クネ)大統領(1952年~)は、大韓民国第18代大統領(2013年2月25日~)である。朴正煕大統領の次女である(先妻の姉がいる)。西江(ソガン)大学校(ソウル特別市に本部のあるミッション系の私立大学)電子工学科卒の「理系女」である。
卒業後フランスに留学したが、1974年8月母親が暗殺されたため急遽帰国した。父親朴正煕大統領も1979年暗殺されており、朴槿恵大統領は暗殺により両親とも失ってしまっている。

韓国は伝統的に暗殺が多い国ではないかと思われる。伊藤博文を暗殺した安重根(アン・ジュングン)を韓国では英雄視して、ソウル特別市に「安重根記念館」が設立されている。また韓国海軍には「安重根」と名付けられた潜水艦もある。

朴槿恵大統領治下の大韓民国には、日本が学ぶべき先進的な制度や技術が数多くある。
  • 発送電分離と送配電業務の国有化
  • 原子力発電所の設計建設技術と運転技術
  • 使用済核燃料の再処理放棄政策
  • 国の債務残高
1.発送電分離と送配電業務の国有化

1961年7月に韓国電力株式会社が発足し、電力設備の建設・整備を進めていった。1982年国有化が行われ韓国電力公社(KEPCO)が設立された。送配電を担当する公社であり、株式の51%を国が保有している。
韓国電力公社は、「水力・原子力発電会社」の他5つの発電会社を保有している。

韓国は、電力公社を意図的に赤字にして、電気料金を安く設定している。
その結果として、日本の電気料金の1/3程度であり、国内産業の輸出競争力を強めている。
また韓国人1人当たりの電力使用量(kw/人)は日本人の1.3倍である。

2.原子力発電所の設計建設技術と運転技術

①設備利用率が極めて高く95%以上である米国90%フランス76%日本58%である。
 (2008年統計)

②韓国の原発は殆ど全て「加圧水型」である。福島第一原発の様な「沸騰水型」原発は1基も建設      していない。

③国策として原発の改良と標準化を進め、国内の原発増設を強力に進めると同時に「原発輸出」も推進する。

④ウラン濃縮工場を持っていない(日本は持っている)が、低濃縮ウランを米国から輸入し、原発用燃料集合体の製造を行っている。

稼働中の原発は25基(2014年推定)に及ぶ。(日本の原発54基は全て停止中)

⑥古里・月城原発~福岡約200km。(福島第一~東京約200km)



3.使用済燃料の『再処理放棄政策

①日本は燃料再処理工場を下北半島『六ケ所村』に建設したが、試運転終了の予定日は2009年2月から延長に次ぐ延長が繰り返された。現在のところ2014年10月が予定されているが、延長される可能性が高い。

②日本の再処理工場の建設費用は7600億円から恐らく3倍以上に膨らんでしまっている。

③韓国は再処理放棄の簡便で賢明な政策を行っている。

④各発電所に使用済核燃料の保管プールを造らせ、使用済核燃料をプール中で冷却保管させるだけである。費用はけた違いに安くなる。

4.国の債務残高

①韓国の債務残高は、2014年4月推計で531兆ウォンである。為替相場は0.0972ウォン/円であるから54.6兆円程度である。

②日本の債務残高1000兆円に比べたら、けた違いに小さく塵のようなものである。

③ただしこれは韓国の建前論であって、最近「国際通貨基金:IMF」から嘘をつくのは止めろと脅かされ、韓国の『対外債務残高』は韓国政府・地方政府・個人を含めると200兆円に及ぶと自白したようである。

④韓国が破綻して一番困るのは米国の様で、目下のところ米韓が組んで「200兆円の肩代わりを日本にやらせる」画策に躍起になっているようである。


以上が、日・韓の現代史に関する私の歴史認識であります。
 
以上

2014年6月5日木曜日

STAP研究白紙撤回

2014年6月5日の毎日新聞の一面トップに「STAP研究白紙」を報じていた。
動物の体細胞に外部刺激を与えて、幹細胞を造るという研究である。
幹細胞とは、「様々な組織に分化できる機能を持った細胞」のことである。

動物の身体・知能は、受精卵という唯一個の細胞から分裂増殖を繰り返しながら造り上げられる。ひとたび体細胞に分化してしまった細胞は、それぞれの体組織の細胞として所定の役割を果たして行く。皮膚細胞は血管細胞には成りえず、血管細胞は皮膚細胞には成りえない。
受精卵は、分裂を繰り返しながら、多数の幹細胞を経て身体組織を造り上げてゆく。

人工的に幹細胞を造る手法は、京都大学の中山伸弥氏により、既に iPS細胞として手法が開発されている。中山氏はこれによりノーベル賞を受賞している。
iPS細胞は、4つの遺伝子(中山因子)を体細胞に導入し、幹細胞にリセットさせたものである。

小保方晴子氏のSTAP研究では、「体細胞を37℃の酸性溶液(PH5.7)に25分間浸すことにより、幹細胞にリセット出来る」と主張している。
2014年1月英国の権威ある科学雑誌「Nature」に小保方晴子氏とハーバード大学チャールズ・バカンティ(Charles Alfred Vacanti)氏・山梨大学若山照彦氏の共同研究として論文が掲載され脚光を浴びた。

このたびの白紙撤回により、「理化学研究所」の権威が問いなおされる仕儀と相成ったのは誠に残念である。野依良治理事長も心を痛めておられることと推察します。
小保方晴子氏の最大の不幸は、今までの研究生活の中で厳格な指導者に恵まれなかった事であろうかと思います。科学的な研究は、発想や願望も大切であるが自然の原理に裏付けられている必要がある。裏付けの原理・論理の得られない研究は、絶対に暴走させる訳にいかないのである。厳格な指導者の監督下にあれば、暴走による不祥事は起こりえないのである。

小保方晴子氏のSTAP細胞の発想は、素晴らしい着想であった。
彼女の Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency cell(刺激惹起性多能性獲得細胞:シゲキ・ジャッキセイ・タノウセイ・カクトク・サイボウ)は、マウスのリンパ球を弱酸処理して得られたと主張している。ここでの最大の問題点は、STAP細胞の再現性の実証が何よりも大切な事なのである。
マウスの胃袋の中に、胃酸の環境下でSTAP細胞のようなものが見つかるかどうか調べてみる価値は無かったのだろうか。
小保方晴子氏に厳格な指導・監督者がいたならば、彼女の暴走は起こりえなかったであろうと思うと返す返すも残念である。

2009年12月4日に、ブログ『異論な話』の第四話を掲載した。第四話のタイトルは「事業仕分」である。(自著「異論な話」:発行所風詠社2013年3月27日第1刷発行)
政権交代が行われ初の民主党鳩山内閣が誕生し、枝野衆議院議員・蓮舫参議院議員の「事業仕分」は快刀乱麻で適役だった。

超高速計算機開発予算7千億円は、事業仕分で「要検討」にされてしまった。蓮舫議員の「世界第2位では、なぜ駄目なのですか」との鋭い舌鋒がこたえたらしい。こうゆう場合の官僚たちの常套手段は、著名人を修羅場に放り出して説明してもらう事である。

官僚たちの常套手段に乗せられて、2001年ノーベル化学賞受賞の野依良治氏が「修羅場」で説明する仕儀と相成りました。野依良治氏は、「科学技術向上のための先行投資は日本国の存亡に係る不可欠のもの」との趣旨の説明をされておりました。
但し、残念ながら仕分け作業は一般論を対象にしません科学技術向上のための先行投資項目は、掃いて捨てる程沢山あります。これを「掃き捨てるもの」と「残すもの」とに仕分するのが、事業仕分であります。従って、『どういう手法・基準で仕分するのか』が議論の対象なのである。

星霜移り人は去り、野依良治氏が「修羅場」で説明されてから5年が経ちました。
今や独立行政法人「理化学研究所」の真価が問われる事態となっております。
理事長野依良治氏が自ら率先して、研究事業の『事業仕分』を推し進めるのが肝要ではないかと思われます。理事長の手腕に、大いに期待しております。
以上



2014年5月6日火曜日

見果てた夢の話

私は、今年傘寿を迎えた。傘寿とは「数え年」80歳の事である。数え年とは、昔の年齢の数え方である。赤ちゃんが、オギャアと生まれた瞬間に1歳となる。その子が最初の正月を迎えると2歳になる。師走(12月)に生まれた赤ちゃんは、わずかひと月たたぬ間に2歳の子供になるのである。
正月元旦に、昔は日本人全体が一歳年嵩になったのである。昔の元旦の厳粛さ・御めでたさは格別の意味があり、現在の元旦のような生半可なものではなかった。
満年齢と「数え年」との関係は、今年既に誕生日を迎えた人は「満年齢+1=数え年」である。今年未だ誕生日を迎えていない人は、「満年齢+2=数え年」である。

稀代の英雄豊臣秀吉(1537~1598年)は、61歳で伏見城にて他界した。彼は下層民の子として生れ落ち、針売りを手始めに艱難辛苦(かんなんしんく)を重ねながら戦国の世を生きぬき・勝ち抜いて、日本国の天下を平定したのである。身分は庶民から、関白・太政大臣にまで登りつめた英傑であった。彼の辞世の歌を下に示す。

  露と落ち露と消えにし我が身かな
           浪速のことは夢のまた夢

辞世の歌とは、そんなものかと単純に見てはいけない。辞世の歌の最後の所の『夢のまた夢』には、極めて深遠な思いが込められている事に、気付いて欲しい。
浪速の栄耀栄華は、「遠い昔の見果てた夢」だったと言っているのである。即ち『見果てぬ夢』は未だ残したまま、この世を去って行く我が身の上に、万感の思いを込めた痛切な本懐を吐露したものである。英傑は最後まで英傑であった。

日本国を平定した後の彼の本当の「見果てぬ夢」は、近隣諸国「朝鮮・(高砂:台湾)・明(みん:中国)・呂宋(るそん:フィリピン)」から日本国に朝貢させることであった。
彼は真面目に近隣諸国に使者を派遣していたが、明・朝鮮とは話がこじれて戦争となってしまった。また台湾・フィリピンには、朝貢できる様な統一の国家機構は存在しないとの使者の報告を受けていた。

明・朝鮮の連合軍約25万人に対し、日本軍約16万人は圧倒的に強かった。日本軍は組織的な鉄砲隊を持ち、鉄砲の威力は凄まじかった。文禄の役は1592年4月13日釜山攻撃開始、5月3日首都漢城(現在のソウル)陥落。7月16日平壌(ピョンヤン)近郊で明・朝鮮軍を撃破、7月24日平壌陥落。1593年4月明・朝鮮との当面の講和が成立した。
その後、明の使者が来朝したが講和条件の話がこじれて、慶長の役(1597・1598年)が始ってしまった。
「近隣諸国からの朝貢」こそ、豊臣秀吉の『見果てぬ夢』だったのである。彼は見果てぬ夢を残したまま、1598年9月18日三途の川を渡ってしまった。

札幌農学校(現北海道大学)のウイリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)は「少年よ大志を抱け(Boys, be ambitious)」と教えたと聞いている。若者は大志を抱き「見果てぬ夢」を追い求めるものである。
星霜移り人は去り、私も齢(よわい)傘寿ともなれば『見果てぬ夢』は「夢のまた夢=見果てた夢」の話として決着をつける事と致したい。

私が途方もない大志を抱くきっかけとなったのは、大学院1回生(1958年)の時である。指導教官からこれを読めと渡された文献が、米国の原子力潜水艦シーウルフ(SSN-575)に関連する「液体金属ナトリウム」関係の文献であった。「液体金属ナトリウム」で冷却される原子炉が、この世界に存在していたことが私にとっては全くの青天の霹靂(へきれき)であった。

三菱原子力工業に入社し、国家プロジェクトの高速増殖実験炉「常陽」の三菱受託部分の設計業務を担当することになって、本当に途方もない大志を抱くようになってしまった。1960年代の後半である。私は高速増殖炉一筋で良いのだと、自分自身で納得していた。
それから引き続き高速増殖原型炉「もんじゅ」の設計である。1968年後半から予備設計が開始され、三菱担当部分の「炉心上部の回転プラグ」と「2次ナトリウム冷却系」の設計を担当した。夢の実現に夢中になった。私の人生の最も輝いていた時代であったかもしれない。勿論私独りだけで出来るはずはなく、大勢の仲間たちと共に頑張っていた。

「人生は、あざなえる縄の如し」である。私の人生は二転三転する。社命で転勤を命じられ、加圧水型原子力発電所の「配置設計」を担当することになってしまった。これ以降は、見果てぬ夢は本当に「見果てぬ」ことになってしまった。
今や私は、高速増殖炉の熱烈なサポーターの一人である。
ここで心残りな見果てた夢の中身を、簡単に説明しておきます。

高速増殖原型炉「もんじゅ」は、夢の原子炉であるはずだった。燃料はプルトニウムであるが、運転すればするほど原子炉内のブランケット部分で、天然ウランからプルトニウムが生産されるのである。有難いことに、燃料で消費するプルトニウムよりブランケット部分で生産されるプルトニウムの方が多いのであるから、まさに夢の原子炉である。

「常陽」や「もんじゅ」は、日本の技術力を総動員して造り上げたものですが、何故だかトラブルが非常に多い。「常陽」・「もんじゅ」ともに、多発したトラブルにより現在長期運転停止中である。
日本の技術力がこんな様で良いはずがない。サポーターとしては、歯ぎしりする思いである。しかし日本の技術力は現在そんな程度でしかないのであろう。

下に高速増殖原型炉の各国比較表を示す。原子炉冷却材は、いづれも「液体金属ナトリウム」を使用している。

施設名               国      電気出力   型式    炉心燃料        運転開始  現状
                      万kw
Phenix            フランス     25      タンク    Pu・U二酸化物  1974年  運転中
SNR-300          ドイツ         32.7    ループ   Pu・U二酸化物              計画中止
PFBR              インド          50      タンク    Pu・U二酸化物              建設中
もんじゅ          日本         28      ループ   Pu・U二酸化物              長期運転停止中
PFR                イギリス       25      タンク    Pu・U二酸化物  1976年  閉鎖
CRBR              アメリカ       35      ループ   Pu・U二酸化物              計画中止
PRSM              アメリカ       31      タンク    U・Pu・Zr合金                計画中止
BN-350            カザフスタン 15      ループ   Pu・U二酸化物  1973年  閉鎖
BN-600         ロシア       60      タンク    Pu・U二酸化物  1980年  運転中
KARLIMER-600 韓国           60      ループ   U・TRU・Zr合金              計画中

注記:TRU(trans uranic elements)とは、プルトニウム等の超ウラン元素の事である。下記にTRUの一部を列記する。

原子番号  元素記号  元素名
 93             Np         ネプツニウム
 94             Pu         プルトニウム
 95             Am        アメリシウム
 ・               ・
 ・               ・
109            Mt          マイトネリウム

アメリカ・イギリスは核物質の拡散を懸念して、高速増殖炉開発には抑圧的な行動を取っている。イギリスはPFRを閉鎖し、アメリカは自国の全ての計画を中止した。他国の高速増殖炉計画に対しても決して快くは思っていないと思う。

フランスは、高速増殖炉に熱心であり、技術力も高い。現在フェニックスを運転中であるが、電気出力120万kwのスーパーフェニックスを建設・運転した実績を持つ。
スーパーフェニックスは、1986年本格稼働を開始したがトラブルが続出し、1990年一旦運転を休止した。その後紆余曲折を経て1998年閉鎖となった。
現在フランスで進行中の計画は、電気出力50~60万kwのASTRIDという新型プロトタイプの高速増殖炉の建設である。

ロシアも、高速増殖炉には意欲的に取り組んでいる。エカテリンブルグの近くにベロヤロスク原子力発電所があり、そこの黒鉛減速の原子炉は閉鎖されているが、BN-600の高速増殖炉だけが運転中である。同所に更にBN-800、BN-1200を建設中である。
ロシアの原子炉は、恐ろしいことに伝統的に原子炉格納容器を持っていない。事故で放射性物質が漏洩すると、直ちに周囲の環境が放射性物質で汚染されてしまう事になるが、一向に気にしないようである。

国連安保理常任理事国は、米・英・仏・露・中であり、アメリカ・イギリスは高速増殖炉抑制派である。フランス・ロシアは積極的な推進派である。中国は推進派であるが、かなり遅れを取っている。
中国は、1990年頃から高速増殖実験炉の概念設計を開始した。電気出力60万kwの高速増殖原型炉CPFRの運転開始予定は2020年頃を目指している。

インドは、1985年から電気出力1万kw余りの高速増殖実験炉を既に運転している。
電気出力50万kwの高速増殖原型炉PFBRは、2003年頃から計画が開始され、2023年までに運転開始を目指している。

高速増殖実用炉が開発されれば、人類のエネルギー源は長期にわたり保障される。このために私は頑張り続けたかった。これが私の「見果てた夢」の中身です。
今の私の見果てぬ夢は、「もんじゅ」再開の朗報を聞く事なのでしょう。
以上











2014年4月14日月曜日

調査捕鯨の差止め

国際司法裁判所(ハーグ:オランダ)は、2014年3月31日日本の南極海(南氷洋)の調査捕鯨差止めを裁定した。原告はオーストラリア政府であり、「国際捕鯨取締条約」に違反するとして提訴したものである。同条約の目的は「鯨族の適切な保存を図り、捕鯨産業の秩序ある発展を可能にする」ための条約である。

日本の調査捕鯨は、1987年以降継続して行われていたものである。捕鯨は財団法人日本鯨類研究所(ICR:Institute Cetacean Research)が行っており、捕鯨船と乗組員は共同船舶(株)からチャーターしている。共同船舶は、「調査捕鯨」を独占受託するためだけの目的で設立された正真正銘の民間会社である。
Cetacean とは、クジラ・イルカ等の「クジラ目」の動物の事である。

ICRの2011年度のキャッシュフローを調べてみると、3大収入源は下記である。

  1. 副産物収入        32.9億円         鯨肉販売
  2. 補助金等収入       25.3億円         政府補助金
  3. 調査受託収入       1.3億円         政府調査発注
今までは60億円程度の収入で赤字気味のICRを支えてきたが、これからは収入の半分を占めていた副産物収入が大きく減少することになる。今がICRの正念場であろう。

調査捕鯨の年間捕獲頭数は下記である。(IRC発表データ)

北西太平洋
  1. イワシクジラ   100頭
  2. ニタリクジラ    50
  3. ミンククジラ    220
  4. マッコウクジラ   10
合計     380
南極海
  1. クロミンククジラ  850
  2. ナガスクジラ   50
合計     900

捕獲頭数の70%が南極海であるから、差止めの影響は極めて大きい。
年間1300頭も捕獲し鯨肉販売で33億円/年を稼いでいたので、商業捕鯨とみなされたのであろう。

これはICRの受け売りであるが、推定資源量と年間捕獲頭数の対比を以下に示す。

鯨種                推定資源量   捕獲頭数/年   割合
イワシクジラ                               21,612                100                       0.46     %
ニタリクジラ                                20,501                  50                       0.24
ミンククジラ                                42,257                 220                      0.52
マッコウクジラ                          102.112                   10                      0.01
クロミンククジラ                       761.000                 850                      0.11
ナガスクジラ                              11,755                   50                      0.43

この様な研究成果は、海外向けに論文発表し、商業捕鯨が可能であることを主張しなければならない。国際捕鯨条約の目的は、「鯨族の適切な保存を図り、捕鯨産業の秩序ある発展を可能にする」ことにある。
目的に沿った調査捕鯨であったことを、全世界に広くPRすべきであろう。
IRCは調査捕鯨が条約目的に沿った活動であり、様々な貢献・成果を得ていることを強く主張すべきである。IRCはこのことを論証する国際的な論文を数多く作成し、これを全世界に発信することに、総力を結集して当たらなければならない。ただし「推定資源量の推定増加率」も忘れずに発表する必要がある。
このためのICR向け資金供給やPR手法の援助等を、日本国政府は惜しんではならない。

歴史と文化に根差した沿岸捕鯨は、世界各所で行われているが、捕獲頭数は少ない。
現在商業捕鯨(?)を行っているのは日本以外にはノルウェー(500頭程度)とアイスランドだけである。四面楚歌で「環境保護」の大合唱に取り囲まれている。
大合唱の首謀者たちは、自国の畜産業の輸出が最大の関心事で、他国の海洋資源の利用に強硬に反対するのである。「捕鯨産業の秩序ある発展」などは以ての外と考えている。

海洋国日本としては、何としてでも捕鯨権益は守って行かなければならない。そのために日本国政府は、長年にわたりICRに補助金を給付し続けてきたのである。
ICRの存続を懸けた大活躍を期待している。

   米・豪は 目くじら立てて 自然保護

                              雲行
以上








2014年3月21日金曜日

フランスの原子力発電所

1.コールダーホール型原子力発電所

フランスの原子力発電所は、コールダーホール型原子力発電所の建設から始まった。天然ウランを燃料とし、中性子減速材には黒鉛を使用する。原子炉冷却材には炭酸ガスを使用した。
ChinonA1~A3・Bugey 1・G1~G3(マルクール原子力地区)・Saint-Laurent A1~A2の合計9基である。最初の原子力発電所ChinonA1の着工が1957年である。

この当時のフランスにはウラン濃縮技術がなく、天然ウランからプルトニウムを生産し、長崎型のプルトニウム核爆弾を作る目的であった。
ChinonA1の営業運転期間は1963~1973年である。コールダーホール型原子力発電所は逐次営業運転を開始していったが、長くても20年程度で営業運転を終了している。Saint-Laurent A2の1992年の営業運転終了で、フランスのすべてのコールダーホール型原子力発電所の営業運転は終了した

この型の原子炉は、イギリスで開発されたものである。天然ウランで発電できるのが特徴であり、施設は大規模であるが電気出力は非常に小さい。建設の主目的は「原子爆弾製造原料のプルトニウムの生産用」であった。

日本の最初の原子力発電所は東海第一原子力発電所で、コールダーホール型原子力発電所であった。イギリスからの輸入であり1960年1月着工、営業運転開始は1966年7月である。生産されたプルトニウムはイギリスが引き取る事になっていた。電気出力16万kwであった。
1998年3月末営業運転を終了し廃炉になっている。現在廃炉作業が進められている。

2.CANDU型原子力発電所

カナダで開発された、原子力発電所である。重水減速・重水冷却で、天然ウラン燃料の原子炉である。カナダはCANDU一本槍であり、国情に合致した一貫した政策は立派である。他の形式の原子力発電所は、カナダでは建設されていない。

フランスでは電気出力7万kwの1基だけ輸入した。稼働期間は1967~1985年である。
原子力開発を目指した国は、ほぼ間違いなくCANDU炉を輸入しているが、日本だけは輸入していない。
その代わりに、日本は独自に設計した新型転換炉(ふげん)を建設した。重水減速・軽水冷却・圧力管型原子炉である。着工1970年12月、運転開始1978年3月、運転終了2003年3月。現在廃炉作業中である。もはや新型転換炉の開発は行われる可能性は全くなく、このプロジェクトは失敗であった。

3.高速増殖炉

Phenix(23.3万kw)とSuperphenix(120万kw)を建設し運転していた。前者の運転期間は1973~2010年、後者は1985~1997年である。
プルトニウムを燃料とする原子炉で、原子炉の冷却材は液体金属ナトリウムである。高速中性子による核分裂を利用するので、中性子減速材は不要である。
高速増殖炉の最大の特徴は、原子炉炉心内の「ブランケット」の天然ウランからプルトニウムが生産されることである。さらに驚くことに、燃料として消費するプルトニウムよりもブランケット内で生産されるプルトニウムの方が多いのである。全く「打出の小槌」のような発電炉なのである。この型の発電所を使い続ければ、すべての天然ウランがプルトニウムに転換されて、さらに電力に転換されてゆくことになる。発電用エネルギー源としては、笑いの止まらないような話であるが、全く正しい科学的事実である。

日本で建設された「常陽」・「もんじゅ」はこの型の原子炉である。
「常陽」は実験炉で発電設備はない。某ユーザーの運転不手際で、炉心上部の機構を損傷し、現在運転休止中である。
「もんじゅ」は原型炉で2010年5月運転を開始したが、炉内中継装置の落下事故でうんてん停止中となっている。

4.加圧水型軽水炉

現在フランスで稼働中の原子力発電所は、全て加圧水型軽水炉PWR)で、59基である。ベルギー国境近くのChooz(ショー)AもPWRであるが、何故だか稼働期間1967~1991年で稼働を終えている。ChoozB1~B2は現在も稼働している。

5.フランス電力会社EDF(Electricite de France)

フランスの国策会社で、株式の85%を政府が保有している。フランスの電力市場は完全に解放されており、必ずしもEDFの独占ではないが、EDFは世界最大の電力会社であると思われる。
欧州連合(EU)をはじめ、電力自由化の進む国々の電力会社株式を積極的に買収し、世界各国の電力会社を傘下に集める多国籍電力会社である。

6.フランスの電源構成

フランスと日本の電源構成を下記に示す。2011年のデータである。

         フランス          日本
石油                   0.6                                14.7
石炭                   3.1                                27.0
天然ガス            4.8                               35.9
原子力             79.4                                 9.8
水力                   8.1                                  8.0
その他               4.0                                  4.6

フランスは余剰電力を近隣諸国に輸出している。

7.電力料金比較

OECD/IEAからの孫引きで、グラフからの読取値であるから最後の桁は不確かである。
読取数値は、2012年の家庭用電力料金の値である。

韓国                    95 $/Mwh                    34%
アメリカ             120                                 47
フランス            175                                 63
イギリス            217                                 78      
日本                 278                                100
イタリア            288                                104
ドイツ               342                                 123

%表示は、日本を基準にした場合の料金比較で、韓国は日本の1/3程度、ドイツは23%高い。

8.フランスの国土

フランスと日本の国土事情を以下に示す。

            フランス                 日本
人口      0.6234(2009年)           1.276(2012年)   億人
面積                63.3                                                 37.8                     万平方キロメートル
人口密度        98.5                                                338                       人/平方キロメートル
GDP                  2.58                                                  5.96                 兆ドル(国内総生産:2012年)
GDP/人             4.14                                                  4.67                 万ドル/人

フランスは、日本国土の倍くらいの広い国土で、日本人の半分くらいの人口で暮らしている。一人当たりのGDP(国内総生産)は、日本とフランスは大差ない。

9.原子力発電所の位置



    

2014年2月24日月曜日

安土桃山時代

日本の歴史では、弥生時代が終わり3世紀後半以降から古墳時代が始まった。この頃が、日本国の誕生と考えられる。
3世紀以降から始まる日本国の歴史の中で、最も輝かしい黄金時代はいつだっただろうかと私なりに考えてみた。評価の基準となる物差しは、人ごとに異なっており、十人十色の答えが出てくるのは当然である。

自由奔放な発想をもとに、桁外れな活躍を行った数多くの英雄たちを輩出した「安土桃山時代」を、私としては強く推したいと思う。この時期は「織豊時代」とも言われている。織田信長・豊臣秀吉の時代である。戦国時代の後期も含めて、16世紀(1501~1600)が日本国の黄金時代であったと私は堅く信じている。
これに次ぐ時代は19世紀(1801~1900)であり、『坂の上の雲』(司馬遼太郎)の時代である。

神仏をも信じず、自分の信念のみで突き進んだ「天下布武」の織田信長は、尾張半国の実権を握っていた織田氏の庶家の子である。
「天下布武」の障害となれば、比叡山の焼き討ちを敢行し、僧・児童の首を刎ねてしまった。比叡山の僧兵が浅井・朝倉と結んで敵対したからである。
その後の紆余曲折はあるが、最終的には遂に鎌倉幕府の「足利義明将軍」を追放してしまったのである。

豊臣秀吉は、下層民の子として生まれたが、遂には日本統一を果たし、太政大臣関白にまで上り詰めた。さらにはこれに飽き足らず、近隣諸国の朝鮮・高山国(台湾)・呂宋(ルソン:フィリピン)に朝貢を促そうとしたのであるから驚く。場合によっては、明国にまで攻め入る勢いであった。全くの類まれな英傑であった。

16世紀の日本国の人口は、1~2千万人程度である。参考までに「18世紀以前の日本の人口」を以下に示す。また当時のヨーロッパとの対比のため「イングランドの人口推計図」も以下に示す。16世紀のイングランドの人口は4百万人程度である。さらに参考用に現在の英国の地域別人口構成を下記に示す。

ウェールズ              3,064  千人            4.9%
北アイルランド        1,811                      2.9
スコットランド          5.255                      8.3
イングランド          53,143                    83.9
合計                      63,143                  100.0




豊臣秀吉により日本国内は完全に平定されて、農工業の生産性が上がり、殖産興業・文明文化が高まり、富国強兵が行われた。
16世紀後半には、日本は「世界最多の銃(火縄)保有国」となり、50万丁程度保有していたと推定されている。逆に銃保有数から考えると、兵30万人程度の動員は比較的容易であったろうと思われる。
日本は、16世紀における「世界最強の軍事国家」であったと考えてよい。

文化面での発展も著しいものがあった。南蛮貿易で堺が発展し、多数の豪商が誕生した。絵画では狩野派の障壁画等が素晴らしい。千利休による茶の湯が完成したのもこの頃である。陶磁器や漆器も発達し、木版印刷も行われ始めた。出雲阿国による歌舞伎踊りもこの頃に始まった。
織田信長が始めた無税の楽市楽座が広まり、国内市場も活気づいた。


16世紀頃の日本の海外進出は、秀吉の朝鮮出兵だけではない。民間による海外進出も極めて活発であった。

シャム(現在のタイ)には日本人町ができており、アユタヤ王朝には日本人雇兵隊も存在していた。日本人町の頭領の山田長政は、スペイン艦隊のアユタヤ侵攻を撃退して国王から厚い信頼を得ていた。

当時のインドシナ半島のフエ(現在のベトナムの都市)は、広南阮氏の首都であり、その東南100km程のところに會安(ホイアン)の港がある。ダナンの近くである。この港は16世紀以降国際貿易港として発展していった。16世紀の會安港には、もちろん大きな日本人町が造られていた。

この頃「高山国:台湾」には、中国やタイ・ベトナムとの通商を目的とした「日本商人の中継基地」が幾つか作られていた。
17世紀初めに、オランダが台湾領有を宣言し、台湾にある日本商人の中継基地に貿易税を課した。
これに反発した日本人貿易商の浜田弥兵衛は、台湾のオランダの長官を襲撃する事件を起こしている。
以上

2014年1月9日木曜日

軍師黒田官兵衛孝高


2014年1月5日、「軍師黒田官兵衛」のタイトルでNHKの大河ドラマが開始された。岡田准一の官兵衛も適役の様で、ひとまずは安心した。

私の当面の関心事は、2014年間の大河ドラマの放映において、黒田官兵衛孝高(15461604年)の生誕から何歳までの官兵衛を放映するかという事である。官兵衛の生涯は57年と4か月余りであった。


本当は関ヶ原の合戦以降の1600年代の晩年まで描かなくては、官兵衛の本性やスケールの大きさを伝えることはできないと思う。しかし国営放送であるNHKが、官兵衛の晩年までも放映を続けると国際問題を惹起する恐れも十分考えられる。豊臣秀吉の日本統一(1590年:小田原征伐)まで、としておくのが穏当の様である。黒田官兵衛満44歳の時までである。

 『異論な話』は個人のブログであり、国際問題のおそれも無いだろうから、豊臣秀吉の「日本統一」以降の史実をそのまま忠実に記載しておく。

 「日本統一」後秀吉は、朝鮮・高山国(台湾)・呂宋(ルソン:フィリピン)に使者をだし、朝貢を促した。高山国・呂宋には倭寇や明海賊の基地はあったが、「朝貢できる様な統一勢力」は存在せず、使者は空しく帰国した。但し朝鮮とは話がこじれてしまって、1592年・1598年の2度にわたって朝鮮出兵が行われた。

 黒田官兵衛は、総大将宇喜多秀家 付の軍監として朝鮮に渡った。本人は極めて不本意であったと思われる。「出兵そのものに反対」であったに違いない。朝鮮では碁ばかり打っていて、ほとんど何もしていない。
総大将の貫禄不足で睨みが効かず、小西行長らの暴走があり十分な采配が取れていなかった。止むを得ず官兵衛は、病気を理由に早々に帰国した。

最初の出兵の「文禄の役」の講和交渉が始まった時、官兵衛は朝鮮に再渡航させられたが石田三成とそりが合わず、確執を持ったまま、これ又早々に帰国した。三成33歳・官兵衛46歳であった。三成は職務に忠実で、必要となれば嘘も平然とつける優秀な官僚である。一方官兵衛は、信義の人であり嘘偽りは決して行わない人であった。そりが合う訳がない。

歴史に「もしも」はないが、私としては、この時ばかりは黒田官兵衛孝高に踏ん張っていてもらいたかった。官兵衛帰国後の講和交渉の結果は、嘘偽りに満ち満ちたものとなってしまった。

再度の帰国で秀吉の怒りを買った官兵衛は、「如水軒」と号して出家した。しかし出家後も秀吉に重用されている。
1592年の「慶長の役」でも、総大将小早川秀秋の軍監として釜山に滞在した。

驚くことに官兵衛は、1585年キリスト教の洗礼を受けている。(霊名:ドン・シメオン)。15877月「伴天連(ばてれん)追放令」を秀吉が出し、キリスト教の弾圧を始めた。ところが、官兵衛は率先して命令に従った。信義の仁・官兵衛には主君秀吉への忠義が第一義であり、神・仏への信仰は知識を広げる方便に過ぎなかったようである。又1593年頃には、頭を丸めて出家している。秀吉に謹慎を認めてもらうための方便である。

「秀吉の朝鮮出兵」は日本軍約16万人・朝鮮・明の連合軍約25万人を動員した、大戦争であり、当時としては「世界最大の国際戦争」であった。当時の世界12位の軍事力を持つ国の激突であった。
16世紀のヨーロッパにおける国際戦争は、大抵英国が絡んでおり、海戦が多い。スペイン・イギリスの艦隊決戦等が行われたりしている。勿論オランダ等をめぐる陸戦もあるが、せいぜい数千人、どんなに多くても双方数万人を超える兵力での国際戦争は行われていない。当時としては、世界に類を見ない桁違いの規模の国際戦争が行われた。
 
1592413日(文禄の役)、日本軍は釜山に上陸し、小西行長軍・加藤清正軍・黒田長政(官兵衛の嫡男)軍の3軍に分かれて侵攻した。小西・加藤両軍は早くも53日に首都漢城(ハンソン:現在の京城|ソウル)に入場した。
火縄銃ではあるが、日本の銃は極めて優秀で、朝鮮での銃の多用は絶大な威力を発揮したと思われる。当時の日本は「世界最多の銃保有国」で、既に50万丁程度保有していたと推定されている。

716日に明の援軍が朝鮮半島に到着したが、平壌攻防戦で明軍は脆くも敗れ去った。
しかし日本軍は明の参戦を見るに及んで、進軍は平壌までとし、防備を固める方針を採った。
 加藤清正軍は、釜山から東海岸に沿って北進し、723日会寧(フェリョン:北朝鮮咸鏡北道)に至り李氏の王子二人を捕縛した。
また724日には、小西軍・黒田軍が平壌(ピョンヤン)入城を果たした。
 15934月、明・朝鮮連合軍も平壌戦敗退に懲りて、講和を申し出てきた。
下記の講和条件で、当面の講和が成立した。
   朝鮮二王子と従者を朝鮮側に返還する。

   日本軍は釜山まで撤退する。
   明軍は開城まで撤退する。
   明から日本に使者を派遣する。
 4条件は表面上守られた形になっているが、報告内容は双方で大きく食い違っていた。日本側は「明降伏」と報告しており、明側は「日本降伏」と報告していた。
1593515日明勅使は、九州名護屋(佐賀県唐津市:朝鮮出兵の本陣として築城された。)で秀吉と会見した。秀吉は明に対し7条件を提示した。主要部を下記に略記する。
   明の皇女を天皇の妃とすること。
   勘合貿易の復活。
   朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲。
   朝鮮王子と家老各1名を人質として日本に送る。
   捕縛していた朝鮮二王子は返還する。

 一方「秀吉の降伏」と知らされていた明は、「日本国王の称号と金印」を携えた使節を日本に派遣した。15969月秀吉は明使節と謁見したが、自分の要求が全く無視されているのを知り、激怒して使節を追い返した。このため秀吉は、再度の朝鮮出兵を決意した。慶長の役15971598年)である。
 1597221日付の朱印状が作戦開始命令である。日本側の準備もあるし、朝鮮・明連合軍も日本軍の再侵攻に対する防備を固めていたので、再侵攻には時間がかかっている。
 
釜山に上陸し侵攻準備を進める日本軍に対し、15977月朝鮮水軍が攻撃を行ったが、撃退した。716日さらに巨済島沖に敗退していた朝鮮水軍を、水陸から攻撃し壊滅させた。制海権を掌握し補給路の安全を確保した日本軍は右軍・左軍の二手に分かれて進撃していった。
両軍は全羅道(チョルラド)の要衝である全州(チョンジュ)で合流し、819日全州を掌握した。朝鮮・明 連合軍は、相次ぐ諸城の落城により戦意を喪失し、全州から撤退していた。
 稷山(ショクサン:忠清南道天安(チョナン)市付近)で日本軍と明軍が遭遇し、明軍を敗走させた。日本軍は、これで計画通り京畿道・忠清道・全羅道を制圧した。
以降も当初計画通り、朝鮮南岸を恒久的領土とするため、反転して朝鮮南岸の各所に築城を開始した。
 朝鮮・明 連合軍は、15971222日最東端の蔚山城に攻撃を開始した。日本軍は急遽救援隊を差し向け、159814日朝鮮・明軍を敗走させた。
その後朝鮮・明 連合軍は、朝鮮南岸の日本の諸城に攻撃を仕掛けてきたが、いずれも撃退している。
その中でも泗川(シセン)倭城の戦いは特筆すべきものであった。
島津軍7千と明・朝鮮連合軍数万の迎撃戦となった。連合軍が大敗し、泗川平原で島津軍は勝鬨を挙げた。島津の威名は北京にまで轟いたと言われている。
その後の紆余曲折はあるが、1598918日豊臣秀吉が他界して、朝鮮撤退が行われた。11月中旬から撤退が開始され、11月下旬には撤退が完了している。
以上