2015年6月12日金曜日

戦争学概論・『日本の戦争・後編』

1.仏印進駐(1940・1941年)

1939年5月 ドイツ・イタリア軍事同盟が結ばれ、5月10日 ベルギー・オランダに対しナチスドイツの電撃作戦が』開始された。(第2次世界大戦)
オランダは14日降伏し、ベルギーは28日降伏した。
ドイツ軍がドーバー海峡に達したのは、19日である。イギリス軍はダンケルクからの総撤退作戦を行い、重装備兵器のことごとくを放棄して、34万人の兵の撤退に成功した。ドイツ軍のダンケルク制圧は6月5日である。

フランスは6月10日パリの無防備都市宣言を行い、政府をボルドーに移した。イタリアは同日イギリス・フランスに対し宣戦布告を行った。
フランスは、6月21日 ドイツ・イタリアに降伏した。

この様なヨーロッパ情勢の下で、1940年8月末に、日本・フランス間で「フランス領インドシナ」(現ベトナム・カンボジア・ラオス)に日本軍の駐留を認める協定ができた。
日本の狙いは、中国蒋介石政府への支援物資輸送ルートの遮断と南方資源(ゴム等)の獲得である。

2.日・独・伊 三国同盟

1940年9月27日 ベルリンにおいて締結された。

①日本はドイツ・イタリアのヨーロッパ新秩序建設について、指導的地位を認め尊重する。
②ドイツ・イタリアは、日本の大東亜新秩序建設について、指導的地位を認め尊重する。
③新しく敵にまわる国があれば、同盟国はあらゆる政治的・経済的・軍事的方法で相互援助する。

要するに、「ヨーロッパと東南アジアで、お互いやりたいことをやろう。アメリカが首を突っ込むのは止めさせたいね」と言っているだけである。しかしアメリカは、首を突っ込んできた。

3.アメリカの軍備増強と対日経済制裁

アメリカは1941年度会計(40/7/1 ~ 41/6/30)で軍事費支出を飛躍的に膨張させた。また9月16日には、選抜徴兵法を成立させた。
対日経済制裁は、1940年半ば以降本格化し、重要戦略物資が次々と輸出許可制品目に指定されていった。
1941年7月28日 日本軍が南部フランス領インドシナに進出して、虎の尾を踏んでしまったようである。アメリカは「在米日本資産の凍結(7/25)・石油の対日輸出全面禁止(8/1)」を行った。

ここに及んで日本は、解決しがたい難問題を抱え込んでしまった。日中戦争を勝ち抜くには、今後も膨大な戦費が必要である。戦費調達と軍事物資入手には『アメリカとの貿易が不可欠』であった。
このまま推移すればじり貧に追い込まれ、滅亡の道しか残らない。
問題はアメリカの当面保有する戦力が、太平洋・大西洋の両洋で同時に戦えるだけの戦力であるか如何かの問題に帰着する。

当時の日本政府は、第3次近衛文麿内閣(1941/7/18 ~ 10/18)であった。近衛は中国からの撤兵も視野に入れた日米首脳会談を模索したようであるが、10月2日米国は会談拒否を通告してきた。
近衛内閣の陸軍大臣であった東条英機は、閣内で「総辞職」か「開戦」を主張し、近衛内閣は10月16日総辞職した。

この後を東条英機内閣が引き受け、起死回生・乾坤一擲・一か八かの大博打 の太平洋戦争に直走った。

4.太平洋戦争(1941/12/8 ~ 1945/9/2)

太平洋戦争は、日本時間12月8日 ハワイ州オアフ島の真珠湾奇襲攻撃で開始された。
開戦当初の日本の海軍力は、アメリカの太平洋艦隊を上回っていた。陸軍はフランス領インドシナから出兵し、マレー半島に快進撃を続けていった。
戦局の転換点は、1942年6月に行われた『ミッドウェー海戦』である。この海戦で大敗し、主力空母4隻を失い、搭載航空機・ベテランパイロットが海に消えた。
以降日本軍は制空権・制海権を少しづつ失ってゆき、じり貧で後退を続けていった。
沖縄戦は1943年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月20日頃終結した。

1945年3月硫黄島(東京都小笠原村)が陥落した。その後此処から発進するB29爆撃機による絨毯爆撃(焼夷弾)により、日本中の主要都市が次々に焼け野が原にされていった。

1945年8月6日広島に原子爆弾(濃縮ウラン)が投下され、9日長崎にプルトニウム爆弾が投下された。広島・長崎合わせて約30万人の無辜(むこ)の市民が虐殺された。
日本降伏直後、アメリカ軍は広島にABCC(Atomic Bomb Casualty Commission:原爆傷害調査委員会)を作った。ここは被害者の身体被害の大きさは調べるが治療はしなかった。(治療法を知らなかった。)要するに原爆の威力を調べるだけが目的であった。

4月28日イタリア社会共和国ムッソリーニ総統がパルチザンにより処刑され、4月30日ナチスドイツのヒットラー総統は、地下壕で自殺した。5月以降は、日本だけが連合国の総攻撃を受けることとなった。

7月26日 アメリカ・イギリス・中華民国の連名で、ポツダム(ベルリン郊外)宣言が出された。ソ連は『日ソ中立条約』(1941-1946年)により、不参加。
ポツダム宣言の要旨は下記である。

①日本に降伏を勧告する
②3ヶ国は、日本が降伏するまで徹底的に戦う。
③ドイツが完璧に叩かれたのを知っているだろう。
④軍国主義者の指導を捨て、理性の道を選ぶべきだ。
⑤条件は以下に示す。譲歩・遅滞は認めない
⑥戦争犯罪者は処分する
⑦新秩序が実現するまで、日本国を占領する。
⑧カイロ宣言は履行され、日本の領土は本州・北海道・九州・四国と小諸島に限定する。
⑨日本軍は武装解除する。
⑩戦争犯罪者処罰と民主主義復活を行う。言論・宗教・思想の自由と人権の確立。
⑪日本の経済復興・生産手段の保有を認め、将来は国際貿易の復帰も認める。
⑫日本国民の自由意思による、平和政府の樹立を求める。諸条件達成後、占領軍は撤退する。
⑬即時 無条件降伏を宣言すること。それ以外は破滅するだけである。

日本はソ連(中立条約)を頼り、仲介を依頼したようであるが、梨の礫(つぶて)で全く無為な時間(19日間)を浪費した。

8月14日 日本国はポツダム宣言受諾を通告した。
15日正午 敗戦を告げる昭和天皇の玉音放送が行われた。
9月2日 東京湾内のアメリカ戦艦ミズーリーの甲板上で、日本政府代表と大本営代表が降伏文書に署名した。これにより日本降伏が正式に文書で固定された。

無謀な太平洋戦争の代償は、巨大であった。日本の戦闘員死者約1,700,000人・軍属死者約400,000人・国内民間人死者(原爆とその他の都市)400,000人以上と推定される。

アメリカ戦闘員死者約355,000人・イギリス人戦闘員死者約87,000人・中華民国戦闘員死者約1,500,000人・中華民国民間人死者約17,000、000人程度と推定される。

太平洋戦争敗戦から後の 70年間、日本国は戦争を放棄し平和憲法を守り続けて、世界平和に努力している。
以上

2015年6月10日水曜日

戦争学概論・『日本の戦争・中編』

1.第1次世界大戦(1914~1918年)

ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアの中央同盟軍とイギリス・フランス・ロシアの連合軍との間で戦争が始まった。
戦争のきっかけは、1914年6月28日 オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビア国サラエボ(現在のボスニア・ヘルチェゴビナの首都)で暗殺されたことによる。

オーストリアは、7月23日 2日間の猶予期限付きで10か条の最後通牒を発した。10か条の内容は、セルビア内での「反オーストリア活動の禁止・弾圧」・「犯人逮捕・尋問」「前記2者にオーストリア政府機関を参加」等である。
セルビアが司法手続きに関するオーストリアの関与を拒否したため、世界大戦の引き金が自動的に引かれてしまった。後は各国の軍事同盟の配線に従って信号が伝わり、全世界が戦争に巻きこまれていった。

日本は日英同盟により、8月23日宣戦布告し連合国側で参戦した。
中国の山東半島の付け根に青島(チンタオ)と言う都市がある。ここにドイツ軍の要塞があり、ドイツ東洋艦隊の基地となっていた。会戦とともに、主力艦は東回りで本国帰還を目指したが、アルゼンチンの近くフォークランド沖でイギリス艦隊と遭遇し壊滅した。

青島のドイツ軍要塞への攻撃は、10月31日から開始され、イギリス陸海軍との共同作戦で行われた。この時ドイツ軍は、飛行機による日本軍の偵察を行っていた。日本軍は空中戦を挑んでみたが、成果は得られなかった。
日本陸軍はドイツ軍要塞に重砲弾の雨を降らせ、ドイツの要塞砲を沈黙させ、11月7日青島要塞は陥落した。
日本海軍は、南洋諸島(現在のパラオ共和国・ミクロネシア連邦・マリアナ諸島)のドイツ軍基地の攻撃を行った。

ロシアは、1917年の二月革命でニコライ2世皇帝が退位し、共産革命の坩堝と化した。共産政府はドイツ軍と講和し、ドイツ軍は安心して西部戦線に集中できるようになった。
アメリカの参戦は、1917年4月6日である。総兵力210万人のアメリカ軍の登場で、西部戦線の均衡が崩れていった。

1918年11月11日 連合国とドイツの休戦協定が締結され、第1次世界大戦は事実上終結した。最終的な講和は、1919年6月28日のヴェルサイユ条約により完了した。
この戦争の特徴は、潜水艦・飛行機・戦車・毒ガス(塩素ガス)の登場である。
潜水艦はドイツで発明され、U-Boot と呼ばれた。Uボートにより、商船5千隻余りが撃沈されている。
飛行機は両軍ともに偵察用に使用しただけで、空中戦は成立しなかった。
キャタピラーで走る戦車はイギリスで発明され、Mark I 型戦車が実際の戦闘に参加した。投入した49基のうち、戦闘に参入できたのはわずか数基であり、大きな効果はなかった。当時戦車を『タンク』と呼んだのは、イギリスの『戦車開発プロジェクト』の秘密名称が「Tank Supply :水槽供給 委員会」であったからである。
毒ガスは、ドイツ軍が使用した。風向きがドイツ軍 ⇒ 連合軍 の時を見計らって、高所から塩素ガスを放出した。

第1次世界大戦の終了により、ドイツ領だった南洋諸島は日本の「信託統治領」となった。

2.満洲国(南は朝鮮半島に接する中国東北部)

1912年1月1日 中國大陸に孫文が中華民国を建国した。清朝12代最後の皇帝・愛新覚羅溥儀
(あいしんかくらふぎ:アイシンジュエルオ・プーイー)は、1912年2月12日退位した。
その後袁世凱が、中華民国の大統領となったが、孫文は中国国民党を作って袁世凱と対立した。孫文亡き後、蒋介石(1887~1975年)が後継し、北伐を行った。
この時南京事件(1927年3月)を起こしている。軍人・民衆の一部が反帝国主義を叫び、南京に在った日本を含む外国領事館と外国人居留地を襲い、外国人に対し暴行・略奪などの大変な残虐行為を行っている。

1931年9月18日 日本関東軍の謀略により、柳条溝事件が発生した。日本国が権益を持つ南満州鉄道の爆破事件である。場所は中国東北部の瀋陽(シャンヤン)市付近である。関東軍は中国軍の犯行と発表したが、関東軍の自作自演の爆破であった。
これを契機として、関東軍は満州事変へと戦争を拡大し、満鉄沿線の主要都市から中国軍をことごとく駆逐し、これらの都市を占領した。(1931/11~1932/02)

関東軍は、1932年3月『満洲国』建国を宣言し、清朝最後の皇帝溥儀を満洲国の執政とした。
当時の日本国の犬養内閣は、満洲国不承認の方針であったが、5・15事件で総理大臣犬養毅が海軍将校たちによって暗殺された。続く斎藤實(海軍大将)内閣では、軍の圧力や世論に押されて1932年9月 日満議定書で満洲国を承認した。

中華民国の大統領蒋介石は、柳条溝事件を国際連盟に提訴し、国際連盟からリットン調査団が派遣された。
調査団の報告書は、「①満洲は中国の一部であるが、②満洲の自治政府建設について『日・中新協定の締結』を提案」する勧告であった。

国際連盟総会(1933年2月24日ジュネーブ)の議決結果は、賛成42国・反対1国(日本)・棄権1国(シャム:現タイ国)投票不参加1国(チリ)であった。これを不服として、日本は国際連盟を脱退した。
残された道は、太平洋戦争へと続く孤独な道を、独り寂しく歩むだけとなってしまった。

3.中華民国(1921年~)

1912年1月1日 中国の国家として設立宣言を行った。初代大統領は孫文(1866-1925年)である。その後袁世凱が大統領として、北京政府(1912-1928年)を樹立した。
これに対し孫文は1919年 中国国民党を創設し、1921年 中華民国政府を広州で立ち上げた。

孫文の後継者蒋介石は、1926年7月1日北伐宣言を発し、中華民国軍は北京政府打倒に向かった。1927年3月下旬、北伐軍は上海・南京に入城し、中華民国政府を南京で樹立した。この時民族主義を掲げ、共産主義者の弾圧・排除を行った。
1928年6月8日 蒋介石の北伐軍は北京に入城し、北京政府は瓦解した。9日北伐完了を宣布し、中国は中華民国として統一された。

その後日中戦争により日本の侵略を受け、首都を重慶(じゅうけい:チョンチン)に移し、太平洋戦争(第2次世界大戦)の終了を迎える。
その後毛沢東の率いる中国共産党軍に追われ、台湾に逃れ、台北を中華民国の首都とした。(1949年12月)

4.日中戦争(1937~1945年)

日中戦争は、盧溝橋事件がきっかけである。盧溝橋は、北京市南西15km程の所にある盧溝河(永定河)に架かる、美しい橋である。
盧溝橋東北の荒れ地で夜間演習を行っていた日本軍に対して、1937年7月7日 中国軍が発砲してきた。

日本軍が、北京郊外まで派兵している根拠は、1901年9月7日 締結された「北京議定書」である。これは日本国を含む列強諸国が、清国に対して強制した全くの不平等条約であった。
海岸から北京までの自由通行を阻害しないために、この間の各地点を列強が占領する権利を認める。と言うのがその一つである。
これに基づき、列強の軍が駐留していた。日本軍4千人・フランス軍2千人・アメリカ軍千人・イギリス軍千人程度の他、イタリア軍もいた。日本人居留民1万7千人・外国人居留民1万人程度である。

中華民国政府は、盧溝橋事件の現地決着を認めず抗日武力行使を決定し、戦線は拡大して日中全面戦争に突入した。戦線が最大に拡大したのは、1938年10月頃である。
北は満洲国を擁し、西方では天津・北京の領有はもちろん、太原・洛陽あたりまで進出しており、長江(揚子江)流域では、武漢まで進出していた。
中華民国蒋介石総統は、重慶を首都として抗日戦を続けた。

5.ノモンハン事件(1939年5月11日~31日:6月17日~8月31日)

満洲国を作った日本は、1930年代にモンゴル・ソ連と国境線をめぐる幾多の紛争に悩まされた。1939年には紛争件数200件程度にまで達した。その最大のものがノモンハン事件である。

第1次ノモンハン事件では、日本・満洲軍2千人余り、ソ連・モンゴル軍1,500人程度の戦闘であった。日本陸軍の九七式戦闘機は圧倒的に強く、ソ連機を数十機を撃墜している。
第2次ノモンハン事件では、圧倒的な物量のソ連軍の攻撃により、日本軍は「ソ連の主張する国境線」外に叩き出されてしまった。
日本軍は6万人程度出動したが、戦死・戦傷・戦病で約2万人が戦線を離脱している。九七式戦闘機に対しても、ソ連は「ドッグファイト」を避けて、『一撃遁走』戦術を採用し、日本戦闘機に損害が出てきた。
これにより、関東軍の北進政策は完全に行き詰まって、放棄せざるを得なかった。
以上