2013年10月9日水曜日

黒田官兵衛孝高

2013/8/28の「異論な話」で、行雲流水の表題で戦国の名将黒田官兵衛の事を書いた。次の表題を何にするか考慮中であったが、NHKがタイムリーなヒットを打ってくれて歓喜雀躍した。NHKの報道では、2014年の大河ドラマを『黒田官兵衛』にする由である。私としては大喝采・万々歳である。とにかく立派にやってくれよと、期待に胸を大きく膨らませている。

黒田官兵衛孝高は、播磨の国に生まれた。姫路城主小寺家の家老の家柄であり、姫路城代を務めている。
官兵衛30歳(満)に満たない若さながら、織田信長の天才的才能を見抜き、主君小寺政職に織田家への臣従を進言していた。織田信長が、長篠の合戦(1575年)で3千挺の鉄砲を使用して、武田勝頼を完敗させた頃である。

信長から摂津の国を任されていた荒木村重が、信長に謀反し有岡城(兵庫県伊丹市)に籠城した。官兵衛の主君小寺政職も謀反に呼応しようとしたので、主家の存亡の危機を感じて単身有岡城にのりこみ、荒木村重の説得を試みた。黒田官兵衛32歳の時である。もちろんこの時、官兵衛の長子(後の黒田長政)を信長の人質に差し出した上でのことである。
凡人であれば、無難に主家小寺政職の説得だけで済ますところであるが、天下の形勢に明るい官兵衛にとっては、信長への謀反の無謀さに驚いたことであろう。
天下の形勢を話せば、荒木村重にも判ってもらえると信じたに違いない。官兵衛は信義の人であった。


荒木村重は、黒田官兵衛の説得に全く耳を貸さず、官兵衛を城内の岩牢に幽閉してしまった。立つこともできない岩牢であった様である。
帰ってこない官兵衛に対し、短気の信長はしびれを切らし、人質の官兵衛の子の斬首を命じた。
1年後有岡城が落城し、官兵衛は救出された。

幽閉でひざ関節を痛めてしまった官兵衛は、戸板に乗せられて信長の前に運ばれ平伏していた。信長は声も出なかったと思う。自分の短気を深く後悔するとともに、忠臣黒田官兵衛孝高の悲惨な姿に息をのんだに違いない。

有岡城から救出されたのが官兵衛33歳の時である。以後ひざ関節を痛めたため、若干びっこを引いていたとの説もあるが定かではない。
信長から斬首を命じられていた人質の官兵衛の息子は、かねてから官兵衛の人柄を見抜いていた知将竹中半兵衛に秘かにかくまわれていて、無事であった。「天才は天才を知る」の好例である。

黒田官兵衛は百戦連勝の不敗の知将であった。この智謀の軍師は、誠心誠意の正義の将でもあり、決して人を欺かなかった。戦国時代における、屈指の信義の名将と言っていい。
近年において、本能寺の変(1582年6月21日)は黒田官兵衛の策謀であったという人もいるが、この様な人は官兵衛の智謀だけを評価し、官兵衛の人柄に感銘を持たない人物だと思う。
信義の名将が、本能寺の変を画策するはずがない。

最大の受益者を犯人と思わせながら、真犯人を別に用意するのがミステリー作家の常套手段である。「本能jの変」について、今日では様々なミステリーが作られているようである。歴史は、あたかもミステリー作家の様であった。

確かに本能寺の変で最大の利益を得たのは羽柴秀吉であり、秀吉の参謀が黒田官兵衛であった事は事実である。
本能寺の変の時、羽柴秀吉は備中高松城(岡山県岡山市北区高山)の水攻めを行っていた。本能寺の変を知らせる明智光秀方の密偵を捕え、毛利方宛ての光秀密書を読んだ官兵衛は、「主君羽柴秀吉が天下統一の好機を掴んだ」と確信したに違いない。
毛利と急遽和議を結び、「中国大返し」を行い、逆賊明智光秀を天王山の決戦で打ち破った。この時期頃から羽柴秀吉の天下統一まで、黒田官兵衛孝高の智謀は更に冴えわたるのである。

羽柴秀吉の天下統一後は、さすがの黒田官兵衛も、晩年の秀吉の征服欲を抑えきれなかったらしい。
秀吉は、朝鮮・高山国(台湾)・呂宋(ルソン:フィリピン)に使者をだし、朝貢を促している。高山国や呂宋には倭寇や明海賊の基地があるものの、朝貢ができるような統一勢力は存在せず、使者は空しく帰国したようである。一方朝鮮とは話がこじれて、1592年・1598年の2度にわたって朝鮮出兵が行われた。

歴史上では、日本からの最初の朝鮮派兵は倭国の時代である。391年に倭国が百済・新羅を破り従属させている。562年まで朝鮮半島南部を任那日本府が統治していた。
663年白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅と倭国・百済の軍が激闘し、倭国・百済が敗退した。以降朝鮮半島から日本は撤退している。

逆に朝鮮半島から攻め込まれたのは、1274年・1281年の2度にわたる元寇である。北九州に上陸されたが、いずれも撃退した。
この他に1419年、李氏朝鮮が単独で対馬に侵攻してきた。

閑話休題、本題に戻る。
秀吉の朝鮮出兵では、総大将宇喜多秀家 付の軍監として黒田官兵衛は朝鮮に渡ったが、極めて不本意であった様である。出兵そのものに反対であったに違いない。出兵の手配一切は石田三成に任せ、口出ししなかったようである。朝鮮では碁ばかり打っていて、何もしていなかった。

日本軍・朝鮮軍ともに十数万人を動員した戦争であり、当時としては「世界最大の国際戦争」であった。
1592年4月13日(文禄の役)、日本軍は釜山(プサン)に上陸し、小西行長軍・加藤清正軍・黒田長政(官兵衛の嫡男)軍の3軍に分かれて侵攻した。小西・加藤両軍は早くも5月3日に首都漢城(ハンソン:現在の京城|ソウル)に入場している。
火縄銃ではあるが、日本の銃は極めて優秀で、銃の多用は絶大な威力を発揮したようである。
また7月24日には、小西軍・黒田軍が平壌(ピョンヤン)入場を果たしている。
加藤清正軍は、釜山から東海岸に沿って北進し、7月23日会寧(フェリョン:北朝鮮咸鏡北道)に至り李氏の王子二人を捕縛した。

7月16日 明の援軍が朝鮮半島に到着したが、平壌攻防戦で明軍は早くも敗れ去った。日本軍は明の参戦を見るに及んで進軍は平壌までとし、防御を固める方針を採った。明・朝鮮連合軍も平壌戦敗退に懲りて、講和を申し出てきた。
この時出来上がった講和の話は、だれが画策したのか定かでないが、虚偽欺瞞に満ち満ちた、世界に例を見ない嘘偽りの講和であった。
明朝に対しては、日本側が降伏したと報告され、日本側に対しては朝鮮側が降伏したと報告されているのである。

もちろんこんな嘘偽りの講和が実際に成立するはずがない。講和交渉は決裂し、1597年(慶長の役)日本軍の再度の侵攻作戦が敢行された。戦闘開始日を調べてみたが素人の私にはよく分からない。
釜山には簡単に上陸を果たし、日本軍は釜山周辺に布陣した。出撃を渋っていた朝鮮水軍が7月に釜山攻撃を試みたが失敗し、近くの巨済島(コジェド:きょさいとう)沖に停泊しているのを日本軍が知り、水陸両面攻撃により撃滅した。この海戦で、朝鮮水軍は事実上壊滅した。
9月には日本軍は、全羅道(ぜんらどう:チョルラド|現在の行政区分では北道・南道に分かれている)・忠清道(ちゅうせいどう:チュンチョンド|現在の行政区分では北道・南道に分かれている)・京畿道(けいきどう:キョンギド|現在の行政区分で言えばソウル特別市・仁川広域市や北朝鮮の一部を含む韓国北東部一帯の地域である)まで侵攻した。

日本軍はこれ以上の進軍を取りやめ、各所に新城を作って恒久的な占領を目指した。簡単に言えば、当時の日本軍は現在の韓国領全体の領土化を目論んだのである。
その後紆余曲折はあったが、1598年9月18日豊臣秀吉が死去し、朝鮮の日本軍撤退が行われた。

ここで再度黒田官兵衛の話に戻る。
文禄の役では、総大将宇喜多秀家の軍監として黒田官兵衛は朝鮮に渡ったが、総大将の貫録不足で睨みがきかず、勇み立った小西行長らの暴走があり、十分な采配が取れなかった。止むを得ず官兵衛は、病気を理由にして帰国した。
偽りの講和話が持ち上がった際再渡航したが、石田三成とそりが合わず確執を持ったまま帰国した。同じ知将でも、官兵衛の方がはるかに格上である。もっと大きな度量で石田三成を扱えなかったものかと、私はこの時の官兵衛を大変残念に思っている。

再度の帰国で秀吉の怒りを買い、官兵衛は「如水」と号して出家した。しかし出家後も秀吉には重用された。
1597年の慶長の役では、総大将小早川秀秋の軍監として釜山に滞在している。

黒田官兵衛孝高は、1585年キリスト教の洗礼を受けている。(霊名:ドン・シメオン)。
1587年7月秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」をだしキリスト教弾圧を始めると、信義の仁 官兵衛にとっては、信仰は方便に過ぎず、主君秀吉の命に背かぬことが第一義であった様である。

秀吉の死後からが、黒田官兵衛の真骨頂が発揮される。
即ち織田信長・豊臣秀吉・明智光秀・徳川家康らと並び、黒田官兵衛も天下を狙う「大伴黒主」であった。信義の人「黒田如水」も誰はばかることもなく、本気で天下を狙ったのである。

ただし残念ながら、関ヶ原の天下分け目の大会戦は、東軍方で参戦した官兵衛の嫡男黒田長政の大奮闘などによりあっさり1日でけりがつき、徳川の天下になってしまった。歴史の皮肉は痛烈である。黒田官兵衛孝高は、ぬか喜びしただけになってしまった。

黒田長政は、この功により福岡藩52万石の初代藩主となっている。黒田如水は隠居し、大宰府に一庵を設けてひっそり暮らしていた。
晩年は「如水」の名のごとく、すべてを水に流したように振る舞い、静かな暮らしであった。
1604年4月19日死去。享年満57歳である。
以上