2017年6月28日水曜日

第72話 朝鮮半島の呼び名





朝鮮半島は、白頭(ペクト)山(2744m)から分流する、鴨緑(ヤールー)江・豆満(トウマン)江で大陸から区切られている、半島である。白頭山の位置は、威鏡道・平安道境界線が中国国境と接する地点が鴨緑江である。鴨緑江上流は東に向かい、そこから北上した辺りが白頭山である。

鴨緑江は西南西に流れて、黄(ホワン)海に流入する。豆満江は東北東に流れて日本海に流入する。


中国の「史記」に朝鮮と言う地名があるようなので、紀元前(BC)から朝鮮半島の何処かに「朝鮮」と言う地名があったと思われる。

高麗(コウライ)国王を駆逐し、李氏朝鮮(1392-1910年)の朝鮮王朝を樹立したのが李成桂であり、朝鮮王朝の初代である。

朝鮮国王旗は、地色が暗い赤(砥の粉:酸化鉄)色で「真ん中に 白・橙 色の二つ巴」その周囲を「八卦」で取り囲んでいる。

韓国国旗は「四卦」である。朝鮮統一が出来れば、「八卦」に改定する腹積りとも推察できる。
『朝鮮八道完全統一』の悲願が込められているのであろう。

李成桂は、朝鮮王朝初代として即位すると、直ちに明国(中国)に使節を送った。
明国の初代皇帝洪武帝は、高麗国の国名変更を推奨した。李成桂は『朝鮮』・『和寧』の二つを提示し、『選択を洪武帝に委(ゆだ)ねた』。
この様にして、『朝鮮国は明国の冊封(さくふう)体制に組み込まれて』しまった。
これ以来、朝鮮半島全体を『朝鮮』と呼ぶようになった。
朝鮮王朝の「東国輿地勝覧」では、中国人が「朝光鮮麗の地」と言ったため、と記している。とにかく朝鮮国は、中国人を名付け親にして置きたかったらしい。

元々は、朝鮮半島には多くの国々があった。神功皇后の三韓出兵(西暦200年頃)で、新羅・高句麗・百済は、戦わずして日本国に朝貢を約束した。

神功皇后は、第14代仲哀天皇の皇后で、仲哀天皇崩御後に第15代応神天皇を身もごられたまま、自らも含めて朝鮮半島に出兵された。
「朝鮮北部」と「鴨緑江北岸の大陸の一部」を高句麗が領有し、南部の東側が新羅・西側が百済であった。

7世紀に入り大陸では唐が台頭し、第3代唐皇帝高宗(在位649-683年)は朝鮮半島に侵攻した。唐・新羅連合軍は、660年 半島南部の西側、百済を滅亡させた。
唐軍13万(主に水軍)・新羅軍5万(陸兵)。この後唐軍主力は北上し、高句麗征伐に向かった。
百済の遺民たちは、百済復活を目指し方々で蜂起し、新羅軍との間で戦闘が続き日本国にも救援を求めてきた。
斉明天皇は九州に出兵したが、661年急死された。しかし日本軍は、3派に分かれて朝鮮半島に出兵した。1派は船舶170余・兵力1万余。2派は662年2万7千人。3派は663年1万余り。
最終的には、白村江(はくすきのえ)に結集していた唐・新羅軍に対し、日本軍は地上戦・海上戦を挑んだが、大敗に終わった(663年)。日本水軍は、転戦中の陸兵や亡命の百済難民を回収しながら日本国に逃げ帰った。
朝鮮北部の高句麗は唐軍により668年 滅亡した。
朝鮮半島南東部の新羅は、唐に対し離反や降伏を繰り返す「なまくらな姿勢」であったが、最終的には唐の冊封態勢に組み込まれた。
新羅は、平安道(ピョンアンド)の清川(チョンチュン)江以西を除く、ほぼ朝鮮半島全土を領有した。

極東において、この頃 唐と敵対関係を保持した儘(まま)の国は日本だけとなってしまった。
唐は百済救済で朝鮮に派遣されていた日本軍の捕虜を667年日本国に送り返してきた。
天智天皇(在位668-672年)は、669年遣唐使を再開した。

7世紀後半には、ほぼ朝鮮全土が新羅の支配下となっていたが、大陸側に「渤海:ぼっかい」国(698-926年)が建国され、朝鮮北部の領有をめぐって、新羅・渤海の対立抗争が激しくなった。
渤海は、靺鞨(まつかつ)人の国で、ロシア沿海地方の農耕・漁労民の国である。
後の女真(ジョルチン)族で、後世に中国で金朝・清朝を建国している。
渤海国は、713年唐に朝貢し唐の冊封体制に組み込まれた。
この頃の朝鮮半島は、威鏡道が渤海国の領土の一部となり、平安道が唐の領土の一部となっていた。南の残り6道が新羅の領土であった。

732年渤海が大陸の遼東半島まで進出し、唐は新羅に渤海攻撃を要請した。
唐・渤海の和解が成立し、735年新羅の領土は南6道と確定した。

八世紀末ごろ新羅国内は混乱し、779年新羅から日本に朝貢があった。また新羅難民の日本への亡命も多数あった。
新羅の内紛はさらに激化し、898年「後高句麗⇒泰封」900年「後百済」が建国され、旧新羅領内は、新羅・泰封・後百済の鼎立(ていりつ)となった。

北の泰封は、「黄街道」・「江原道北部」・「京畿道」・「忠清道北部」を領有。
日本に面した新羅は、「江原道南部」・「慶尚道」。
後百済は「忠清道南部」・「全羅道」。

918年泰封領内で高麗(こうらい:918-1392年)が建国され、泰封滅亡。高麗は、933年唐の冊封体制に入る。新羅は高麗に帰順(935年)し、高麗領となった。後百済は高麗により滅亡(936年)。

中国大陸で元王朝(1260-1634年)が出来、朝鮮半島にもモンゴルの侵略が始まった。
最初の侵攻が1231年。第6次侵攻(1273年)まで繰り返された。
この間、モンゴル騎馬軍団の攻撃回避のため、高麗王朝は本拠を江華島(現仁川広域市 沖)に移していた。
モンゴル軍団は、縦横無尽に高麗国内を暴れまわり、高麗軍の捕虜20万余り、死者無数。亡骨 野を覆う、惨状となってしまった。遂に高麗王朝は、全面降伏した。

元は、日本侵攻を計画し、高麗国内に直轄の『征東行省』を置いた。高麗国王は、その次官とされている。兵員・人員・装備などの調達や諸準備は、高麗国にとっては大変な負担となっていた。
文永の役(1274年11月)と弘安の役(1281年6月-8月)の2度にわたる日本侵攻であった。文永・弘安の役の元軍総数は夫々16万人。
高麗国は文永の役で、兵8千水夫6.7千人。弘安の役で、兵1万水夫1.7万人。
何れも日本軍が勝利し、元・高麗軍は敗退した。
以上


2017年6月15日木曜日

第71話 光格天皇




最近は、皇統の存続に万全を期すため、女性宮家の創出が議論されるようになってきた。
女性宮家もさることながら、第33代推古天皇を始めとして、過去には女性天皇が10代8人(2方が重祚)居られた。

明治の御代になって、旧皇室典範(1889年2月11日)が制定された。
第一条で『大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス』とある。
現皇室典範(1947年5月3日施行)においても、旧皇室典範を踏襲し、『男系男子』を踏襲している。

脈々と継続している日本歴史の中で、明治元年以降僅かに150年程だけが、女性天皇を頑なに拒否しているのである。私には全く納得がいかない。

英国の例を見るがいい。現英王室は、1952年に即位されたエリザベス二世女王陛下(91歳)である。
フォークランド紛争(1982年3月19日-6月14日)の際、鉄の女 第71代マーガレット・サッチャー首相(1979-1990年在任期間)は、英国艦隊を急遽アルゼンチン沖まで派遣し、フォークランド諸島を奪還した。
全く見事な女性首脳コンビであった。
今の日本の天皇が政治に拘れることはあり得ないし、女性首相も未だ現れていない。現在の日本では、英国流は全く実現不可能である。

万世一系の日本国の天皇家において、『極めて重大な事象が2度』起こっている。

その『最初の出来事』が、第32代崇峻天皇の暗殺(592年)である。

崇峻天皇は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の推薦により即位された。それにも拘らず、馬子の陰謀により暗殺された。
馬子は一族の繁栄を求め、物部氏との闘争を繰り返し、物部氏を滅亡に追い込んだ。
蘇我馬子と推古天皇は『叔父-姪』の親族関係である。
崇峻天皇崩御後、蘇我馬子は推古天皇に懇願し天皇即位を要請した。
推古天皇は、39歳で即位された。第33代推古天皇(在位593-628年)は、第29代欽明天皇の皇女で、姿色端麗 挙措動作は乱れなく整い18歳で第30代敏達天皇(在位572-585年)の皇后となられていた。

推古天皇は、頭脳明晰で常に公明公平に判断を行われておられた。この時代に、東洋初の公明正大で立派な女帝を持つことが出来たのは日本国の幸運であった。

二度目の出来事』は、光格天皇のご即位である。

第119代光格天皇(在位1780/1/1-1817/5/7)は、第121代孝明天皇の祖父である。

第118代後桃園天皇(在位1770/5/23-1779/12/16)が急逝され、『後継の準備が手間取った』ため、「後桃園天皇の在位期間は後桃園天皇没後も引き伸ばされて」しまった。

最終的に、第119代光格天皇即位で落着した。
第118代後桃園天皇から「4親等上に遡って」第113代東山天皇に至り、そこから3親等降った光格天皇が即位されたのである。
第118代後桃園天皇から第119代光格天皇までは、実に驚くべきことに『7親等もの大差』がある。(親子の間柄が1親等である。)

祖父母と孫は2親等であるが、従兄弟・従姉妹の関係は4親等となる。
左図の「光格天皇から、今上天皇までは6親等」である。
第118代後桃園天皇と第119代光格天皇との親族関係は7親等と極端に離れている

この事で、光格天皇のご即位がいかに『難航したか』を十分に伺い知ることが出来る。

傍系の閑院宮家の出自であり、第118代後桃園天皇の養子と言うことで即位はされているが、実際の養子縁組は後桃園天皇没後に取り決められたものである。

江戸幕府第10代将軍徳川家治(在位1760-1786年)の御台所は、光格天皇の叔母である。従って光格天皇は、江戸幕府第10代将軍「徳川家治」の義理の甥に当たる。
江戸幕府との関係もあり収まりもよく、結果的には光格天皇は皇室・幕府共々に歓迎されたものと推察される。
以上