2014年1月9日木曜日

軍師黒田官兵衛孝高


2014年1月5日、「軍師黒田官兵衛」のタイトルでNHKの大河ドラマが開始された。岡田准一の官兵衛も適役の様で、ひとまずは安心した。

私の当面の関心事は、2014年間の大河ドラマの放映において、黒田官兵衛孝高(15461604年)の生誕から何歳までの官兵衛を放映するかという事である。官兵衛の生涯は57年と4か月余りであった。


本当は関ヶ原の合戦以降の1600年代の晩年まで描かなくては、官兵衛の本性やスケールの大きさを伝えることはできないと思う。しかし国営放送であるNHKが、官兵衛の晩年までも放映を続けると国際問題を惹起する恐れも十分考えられる。豊臣秀吉の日本統一(1590年:小田原征伐)まで、としておくのが穏当の様である。黒田官兵衛満44歳の時までである。

 『異論な話』は個人のブログであり、国際問題のおそれも無いだろうから、豊臣秀吉の「日本統一」以降の史実をそのまま忠実に記載しておく。

 「日本統一」後秀吉は、朝鮮・高山国(台湾)・呂宋(ルソン:フィリピン)に使者をだし、朝貢を促した。高山国・呂宋には倭寇や明海賊の基地はあったが、「朝貢できる様な統一勢力」は存在せず、使者は空しく帰国した。但し朝鮮とは話がこじれてしまって、1592年・1598年の2度にわたって朝鮮出兵が行われた。

 黒田官兵衛は、総大将宇喜多秀家 付の軍監として朝鮮に渡った。本人は極めて不本意であったと思われる。「出兵そのものに反対」であったに違いない。朝鮮では碁ばかり打っていて、ほとんど何もしていない。
総大将の貫禄不足で睨みが効かず、小西行長らの暴走があり十分な采配が取れていなかった。止むを得ず官兵衛は、病気を理由に早々に帰国した。

最初の出兵の「文禄の役」の講和交渉が始まった時、官兵衛は朝鮮に再渡航させられたが石田三成とそりが合わず、確執を持ったまま、これ又早々に帰国した。三成33歳・官兵衛46歳であった。三成は職務に忠実で、必要となれば嘘も平然とつける優秀な官僚である。一方官兵衛は、信義の人であり嘘偽りは決して行わない人であった。そりが合う訳がない。

歴史に「もしも」はないが、私としては、この時ばかりは黒田官兵衛孝高に踏ん張っていてもらいたかった。官兵衛帰国後の講和交渉の結果は、嘘偽りに満ち満ちたものとなってしまった。

再度の帰国で秀吉の怒りを買った官兵衛は、「如水軒」と号して出家した。しかし出家後も秀吉に重用されている。
1592年の「慶長の役」でも、総大将小早川秀秋の軍監として釜山に滞在した。

驚くことに官兵衛は、1585年キリスト教の洗礼を受けている。(霊名:ドン・シメオン)。15877月「伴天連(ばてれん)追放令」を秀吉が出し、キリスト教の弾圧を始めた。ところが、官兵衛は率先して命令に従った。信義の仁・官兵衛には主君秀吉への忠義が第一義であり、神・仏への信仰は知識を広げる方便に過ぎなかったようである。又1593年頃には、頭を丸めて出家している。秀吉に謹慎を認めてもらうための方便である。

「秀吉の朝鮮出兵」は日本軍約16万人・朝鮮・明の連合軍約25万人を動員した、大戦争であり、当時としては「世界最大の国際戦争」であった。当時の世界12位の軍事力を持つ国の激突であった。
16世紀のヨーロッパにおける国際戦争は、大抵英国が絡んでおり、海戦が多い。スペイン・イギリスの艦隊決戦等が行われたりしている。勿論オランダ等をめぐる陸戦もあるが、せいぜい数千人、どんなに多くても双方数万人を超える兵力での国際戦争は行われていない。当時としては、世界に類を見ない桁違いの規模の国際戦争が行われた。
 
1592413日(文禄の役)、日本軍は釜山に上陸し、小西行長軍・加藤清正軍・黒田長政(官兵衛の嫡男)軍の3軍に分かれて侵攻した。小西・加藤両軍は早くも53日に首都漢城(ハンソン:現在の京城|ソウル)に入場した。
火縄銃ではあるが、日本の銃は極めて優秀で、朝鮮での銃の多用は絶大な威力を発揮したと思われる。当時の日本は「世界最多の銃保有国」で、既に50万丁程度保有していたと推定されている。

716日に明の援軍が朝鮮半島に到着したが、平壌攻防戦で明軍は脆くも敗れ去った。
しかし日本軍は明の参戦を見るに及んで、進軍は平壌までとし、防備を固める方針を採った。
 加藤清正軍は、釜山から東海岸に沿って北進し、723日会寧(フェリョン:北朝鮮咸鏡北道)に至り李氏の王子二人を捕縛した。
また724日には、小西軍・黒田軍が平壌(ピョンヤン)入城を果たした。
 15934月、明・朝鮮連合軍も平壌戦敗退に懲りて、講和を申し出てきた。
下記の講和条件で、当面の講和が成立した。
   朝鮮二王子と従者を朝鮮側に返還する。

   日本軍は釜山まで撤退する。
   明軍は開城まで撤退する。
   明から日本に使者を派遣する。
 4条件は表面上守られた形になっているが、報告内容は双方で大きく食い違っていた。日本側は「明降伏」と報告しており、明側は「日本降伏」と報告していた。
1593515日明勅使は、九州名護屋(佐賀県唐津市:朝鮮出兵の本陣として築城された。)で秀吉と会見した。秀吉は明に対し7条件を提示した。主要部を下記に略記する。
   明の皇女を天皇の妃とすること。
   勘合貿易の復活。
   朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲。
   朝鮮王子と家老各1名を人質として日本に送る。
   捕縛していた朝鮮二王子は返還する。

 一方「秀吉の降伏」と知らされていた明は、「日本国王の称号と金印」を携えた使節を日本に派遣した。15969月秀吉は明使節と謁見したが、自分の要求が全く無視されているのを知り、激怒して使節を追い返した。このため秀吉は、再度の朝鮮出兵を決意した。慶長の役15971598年)である。
 1597221日付の朱印状が作戦開始命令である。日本側の準備もあるし、朝鮮・明連合軍も日本軍の再侵攻に対する防備を固めていたので、再侵攻には時間がかかっている。
 
釜山に上陸し侵攻準備を進める日本軍に対し、15977月朝鮮水軍が攻撃を行ったが、撃退した。716日さらに巨済島沖に敗退していた朝鮮水軍を、水陸から攻撃し壊滅させた。制海権を掌握し補給路の安全を確保した日本軍は右軍・左軍の二手に分かれて進撃していった。
両軍は全羅道(チョルラド)の要衝である全州(チョンジュ)で合流し、819日全州を掌握した。朝鮮・明 連合軍は、相次ぐ諸城の落城により戦意を喪失し、全州から撤退していた。
 稷山(ショクサン:忠清南道天安(チョナン)市付近)で日本軍と明軍が遭遇し、明軍を敗走させた。日本軍は、これで計画通り京畿道・忠清道・全羅道を制圧した。
以降も当初計画通り、朝鮮南岸を恒久的領土とするため、反転して朝鮮南岸の各所に築城を開始した。
 朝鮮・明 連合軍は、15971222日最東端の蔚山城に攻撃を開始した。日本軍は急遽救援隊を差し向け、159814日朝鮮・明軍を敗走させた。
その後朝鮮・明 連合軍は、朝鮮南岸の日本の諸城に攻撃を仕掛けてきたが、いずれも撃退している。
その中でも泗川(シセン)倭城の戦いは特筆すべきものであった。
島津軍7千と明・朝鮮連合軍数万の迎撃戦となった。連合軍が大敗し、泗川平原で島津軍は勝鬨を挙げた。島津の威名は北京にまで轟いたと言われている。
その後の紆余曲折はあるが、1598918日豊臣秀吉が他界して、朝鮮撤退が行われた。11月中旬から撤退が開始され、11月下旬には撤退が完了している。
以上