2017年12月18日月曜日

第75話 国歌の話

国家(state)は国歌(national anthem)と国旗(national flag)を持っている。
日本では、「君が代」が国歌であり、「日の丸」が国旗である。
一般原則では、各国は独自の国歌・国旗を持って居るが、必ずしもそうではない国も存在する。

1.国歌を歌えない国

世界は広いもので、国歌を歌えない国が幾つか存在する。

①スペイン
②アラブ首長国連邦
③カタール

これらの国は、曲はあるが 歌詞が作られていないので、歌えない。

2.メロディーを共用する国

また、歌詞は違うが メロディーだけを共用している国もある。

①イギリス・リヒテンシュタイン
②フィンランド・エストニア

3.国歌を共用する国

国歌(歌詞・曲)を共用する国

①ギリシャ・キプロス
②トルコ・(北キプロス・トルコ共和国)

4.世界最古の国歌

オランダ国歌「ウイルヘルム」が、最古の国歌で1568~1572年に作られた。

スペイン国歌「Marcha Real :国王行進曲」も古く、最初の記録は1761年である。
1770年に、国王が公式行事の際常に演奏するように命じ、国王行進曲と呼ばれ国歌となった。

5.君が代

「君が代」の歌詞が、歴史上最初に登場したのは、古今和歌集(西暦912年)である。
世界最古の「国歌の歌詞」』である。

賀歌 題しらず、詠人しらず

我が君は 千代にませませ さざれ石の
      いわおとなりて こけむすまでに

私にとっては、日本国歌の歌詞が『詠人しらず』というのが、涙が出るほど嬉しいのである。

鎌倉時代以降(1200年頃)では、和漢朗詠集の写本等で、現在の「君が代」となっている。

  君が代は 千代に八千代に さざれ石の
        いわおとなりて 苔のむすまで

鎌倉幕府から江戸幕府まで、征夷大将軍の治世下の時代では、、「君が代」は一般的な
長寿を願いことほぐ賀歌」とされていた。
そのため 鎌倉・室町時代では、宴会等の際に『最後のお開きの時に謳う和歌』の定番になっていた。

しかし時代が下がるにつれ、「君が代」の解釈を「天皇の治世」と解釈する傾向が強くなっていった。

しかし幕藩体制の江戸時代の前期(17世紀中頃)に、「君が代は天皇の治世の意である」と解釈する国学者が出てきたのである。
明治以降は、何はばかる事もなく「天皇の治世」と決めてしまった

音曲の方は、林廣守(1831―1896年)が作曲し、ドイツ人エッケルトが和声を付けた。
これを明治26年(1893年)8月12日「祝日大祭日歌詞並楽譜」を官報に告示した。
これ以降「君が代」は、事実上国歌となった。
さらに平成11年(1999年)8月13日公布・施行された「国旗及び国に関する法律」により、日の丸を国旗とし 君が代を国歌とする事を法律で定めた。

日本で最初の吹奏楽団が結成されたのは、1869年である。薩摩藩が藩士数十名を選抜し、薩摩バンドを結成した。指揮者は、イギリス人 ジョン・ウイリアム・フェントン である。
薩摩バンドの合宿所を,妙香寺(横浜市中区妙香寺台8)に定めた。最初は楽器もないので、調練・譜面の読み方・等の訓練をしていた様である。
注文していた輸入の楽器類が、明治3年(1870年)7月に妙香寺に届き、本格的な吹奏楽の練習が出来るようになった
フェントンも「君が代」の作曲を試みたが、不評で不採用となった。

妙香寺に、「国歌 君ヶ代 発祥之地」の石碑がある。これを正確に説明すると、不採用となった「フェントン」の「君ヶ代 発祥之地」」である。

ここで、妙香の名誉のために申し添えておきたい。
日本最初の吹奏楽団薩摩バンド」がここで結成され、その合宿所がここだったのは 紛れの無い事実である。
以上

2017年11月23日木曜日

異論な話 第74話 女性の時代(極東編) 続編





1.蔡英文(1976/8―41歳/2017:ツァイ・インウェン)
中華民国総統(台湾)

右図は、台湾の略図である。* は原子力発電所の所在地である。蔡英文は、2025年までに原発全廃を目指すと表明している。

台湾の人口は、2,355万人/2017年である。(東京都人口:1374万人/2017年)
(韓国人口:5,125万人/2016年)

右図は、中華民国国旗(青天白日旗)である。

2016年5月20日から第14代総統となった、台湾初の女性総統である。
米コーネル大学にも留学しているが、英 ロンドン・スクールオブ・エコノミックス で法学博士(1984年:28歳)を取得。

フィリピン のロドリゴ・ドゥテルテ大統領が提起した国際裁判南シナ海判決:2016/7/12  フィリピン vs 中国 の仲裁裁判)では、「中華人民共和国」が「南シナ海」において主張していた『歴史的権益』について『国際法上の法的根拠がなく、国際法に違反する』というものであった。
処が中華民国総統・蔡英文は、この判決結果の一部に強く反発した。
①判決文中の「中国の台湾当局」という表現が、極めて不見識不当である。
②中華民国が実効支配している「太平島」を、島ではなく岩だとして排他的経済水域を認めないのは全く不当である。

台湾の中華民国は、『国際連盟』には加盟していない(出来ない)。日本は加盟しているが『敵国条項』該当国とされている。

蔡英文は、中華民国として『4つの原則』を公開提示している。
①国際法に基づいた平和的解決。
②多国・地域間協議に台湾を加える事。
③南シナ海における航行と飛行の自由を守る義務のある事。
④中華民国は争議の棚上げと資源の共同開発による紛争の解決を主張する事。

温厚・知的で、過激な言動はなく 清廉潔白な人柄である。
数度訪日しており、親日的で日本にとっては特別に大切にすべき総統である。

米国トランプ大統領との会見を希望したが、トランプが習近平(中華人民共和国・国家主席)との関係を重視し会見に応じてくれないので、2017年1月米国経由で中央アメリカ4か国(ホンジュラス・ニカラグア・グアテマラ・エルサルバドル)を歴訪し友好関係を築く努力を行った。

「中華民国」は中国大陸の極近くに、金門馬祖の諸島群を実効支配しているが 中華人民共和国との間の領土紛争はない。
金門島には空港が有り、台湾の主要都市に定期便が運航されている。

台湾の全輸出(約30兆円)の4割が中華人民共和国向けである。
また大陸に住む台湾人は100万人程度と見込まれている。

台湾は国連非加盟であるが、「国連安保理決議」に協力し、北朝鮮との貿易を全面禁止する『経済制裁』を行っている。

2.朴槿恵(1952/2―65歳/2017:パク・クネ)大韓民国第18代大統領


第5~9代大統領朴正煕の長女である。
西江(ソガン)大学校電子工学科を卒業後、仏グルノーブルに留学中、1974年8月母親が暗殺されたため急遽帰国した。以後父親の「ファースト・レディー」役を務めた。

1979年10月、父朴正煕が暗殺された。朴槿恵27歳で、父を失い両親ともに暗殺されたことになった。
1998年の国会議員補欠選挙に当選し(46歳)政界入りした。
2013年2月61歳で大統領に就任した。韓国初の女性大統領である。この時の国民の支持率63%であり極めて高い。
経済復興・国民幸福・文化隆盛を唱え、希望の時代を切り開くと宣言している。
更に「北朝鮮が核放棄し平和と共同発展の道に進むことを願い韓民族が豊かに・自由に・自分の夢を成し遂げられる幸福な統一の基盤を作りたい。」と語った。
素直に自分の気持ちを述べたものと思う。彼女の温かい素朴な人柄が感じ取れる言葉である。

これが各国の賛同を得て、国連安保理の北朝鮮制裁決議(2094号)に繋がっている。
これは、朴槿恵の外交上の大功績であると認めてよい。
朴槿恵は、アジア第4位の資本と技術力が、北朝鮮の人的資源・天然資源と結合すれば飛躍・活力の源泉になると南北統一に強い意欲を示していた。
しかしこれは、政策化されず願望のままで残された。

朴槿恵は、対中国政策に熱心で相互に留学生を6万人程度送り込んでいる。
中国は、韓国国債の最大保有国であり、また韓国の最大貿易相手国でもある。
韓~中 間には、毎週800便程度の航空便が運航されている。

2016年10月、友人崔順実(チェ・スンシル)の国政介入問題で弾劾訴追され12月国会で訴追案が可決された。このため彼女の、大統領職務が停止された。

現在(2017/11月)は、収賄罪で逮捕されている。但し本人は18件起訴内容全てを否認している。

韓国大統領の末路は、悲惨な人が多い。自殺者の例もある。

3.小池百合子(1952/7―65歳/2017)東京都知事


衆議院議員であったが、2016年の都知事選で、『東京都の改革のため、崖から飛び降りる覚悟で臨みます。』と宣言して当選した。

彼女は、カイロ大学文学部社会学科(エジプト)卒業である。
帰国後テレビ番組のキャスターをしており、1990年度「日本女性放送者懇談会賞」を受賞している。

小池百合子は、目端の利く人である。
第16回参議院通常選挙(1992/7/26)で、日本新党比例区で細川護熙・小池百合子40)他2名 合計4名が当選した。

第40回衆議院総選挙(1993/7/18)で小池百合子は、小選挙区兵庫2区日本新党で当選した。この時自民党は過半数に至らず、細川連立内閣が誕生した。
小池百合子(41歳)は、内閣総務次官を拝命している。

2003年「第1次小泉2次改造内閣」で初入閣(51歳)し、「環境大臣」になった。
「第2次小泉内閣」では「沖縄&北方対策特命担当大臣兼務した。

第1次安倍内閣(2006/9/26―2007/9/26)では、初代防衛大臣久間章生(キュウマ・フミオ)が不適切発言で辞任し、小池百合子(54歳)が防衛大臣を拝命した。

国会議員として実績を重ねた小池百合子であるが、彼女独特の『極めて鋭敏に研ぎ澄まされた目端を利かし』、都知事選に立候補し、初の女性都知事」の誕生となった(64歳)。まさに華麗な転身である。
処が「持って生まれた性格」は如何ともしがたく、『色んな処に目端を利かし』やたら首を突っ込んでくる。どう考えてみても、一途な健闘を期待する方が無理だった。

都知事でありながら、2017/9/25「希望の党」を結成し、小池百合子が代表となった。
第48回衆議院総選挙で民進党との合流を意図したが、彼女が「候補者選別」の意向を表明したので、一般の強い反感を買った。
民進党党首・前原誠司は、「希望の党」を前提に、『民進党から衆議院立候補者を出さない』と勝手に決めた。彼は「話の詰め」が甘く、民進党内に多様な流れを生じさせた。

無所属立候補・希望の党立候補・立憲民主党(党首:枝野幸男)結成などである。
選挙結果は、自民党の大勝であった。但し野党第1党は立憲民主党55名、希望の党50名、公明党29名…であった。この結果は、順風満帆に人生を切り開いてきた小池百合子の生涯で、恐らく初めての強烈な逆風であった。
東京夏季五輪は、残り3年を切ってしまった。『東京五輪』・『東京都の改革』は待ったなしである。今後都知事として、全力で取り組んでくれるものと期待している。

豊洲の安全性の問題は、未だ何の方向性も見出していない。豊洲は、東京ガスの「石炭乾留工場」の跡地で、ベンゼンヒ素シアン・・・等が検出されても、何の不思議もない。

小池百合子の今後に残された最大の責務は、都知事の仕事に専念することである。
彼女の「都知事としての」即断即決・快刀乱麻、三面六臂の大活躍を期待している。
以上





2017年7月23日日曜日

第73話 中国の呼び名

中国には、古代より中華思想があり、自国を中国と考えその他の国を野蛮国と見下していた節がある。
自国が真ん中で『中国』であり、東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)・南蛮(なんばん)に囲まれているとした。
BC(紀元前)千年ごろに作られた、「詩経」には、「恵此中国 以綏四方」とある。「この中国に恵み有れ 四方は安らかに」である。
3千年前に、自ら『中国』と呼んでいたのは確かである。
「宋史」は、元の時代に編纂された正史である。編纂は1345年である。
宋史における日本国の記述は、歴代天皇の系譜を述べた後、更に続けて「其國多有中國典籍」と述べている。
14世紀頃(鎌倉時代末期)には、「中国」は「中国」と言う『地域名』を使用しており、「中国」の地域で作成された『典籍』を日本国が『多数所有していた』事を、中国人が知っていたのは、驚嘆すべき事実であろう。

英語名で「China」・仏語名「Chine」の語源は「秦:シン」であるらしい。
これがインド経由でヨーロッパに伝わった。

中国大陸の王朝は、『周から始まる』(BC1046-BC256年)と考えるのがすっきりする。
次が『』王朝(BC221-BC206年)である。
その後が『』である。前漢(BC206-AC8年)・後漢(25-205年)に分かれる。約4百年余り続いた安定した王朝であった。

次が(曹操)・(孫権)・(劉備)の三国時代となる。
広義では、、184-280年の三国鼎立時代を言う。
揚子江以北をが領有し、以南をが領有した。中国大陸奥地、「成都の辺り」がである。

中国の四大奇書は、「三国志演技」・「水滸伝」・「西遊記」・「金瓶梅」である。私見を申し述べれば、これに次ぐものとして「聊斎志異:りょうさいしい」も挙げておきたい。

三国志演技」では、「蜀の劉備」・「呉の孫権」を善玉にして書いており、魏の曹操を悪玉に仕立てているが、読む度に曹操の武人としての苛烈・果敢な行動力がむしろ立派に見えてくる。蜀の劉備玄徳は、、事が起こると驚き慌てて軍師 諸葛亮(孔明)に相談することになっている。

265-316年 魏の領内に「西晋」が興り、「呉」を滅亡させ中国全土を統一した。
但し西晋の滅亡も速かった。西晋の最後の皇帝は奴僕にされ、屈辱を嘗め尽くした後、処刑された。

439-589年は、中国では南北朝時代と呼ばれる。中国北部は、北魏が領有した。。後に東魏・西魏に分裂(534年)。
南部は、「宋」・「斉:セイ」・「梁:リョウ」・「陳:チン」と王朝が変った。

隋が興り(581-818年)、南北朝の混乱を鎮め中国を再統一した。
しかし僅か2代にして、唐にとって代わられた。

中国大陸における王朝名は、原則『一字名』であった。隋以降を列記する。
隋(581-618年)
唐(610-907年)
5代10国(907-960年)乱立時代
宋(960-1279)
元(1271-1368年)中国・モンゴル高原。正式名(大元)
明(1368-1644年)
清(1644-1912年)(正式名 大清帝国):北東部はアムール川流域沿海州に至る。

清朝末期、イギリスとの間で『アヘン戦争:1840/6/28-1842/8/29』が勃発した。
イギリスは、紅茶・陶磁器・絹を清国から多量に輸入していた。
銀での支払いに苦慮して、インドの植民地で栽培した『麻薬アヘン阿片』を清国に密輸出することで帳尻を合わせようとした。
清 国民を麻薬に溺れさせるイギリスの姦計に、清国は強硬に反発し戦争になった。
イギリスは軍艦16隻の他多数の輸送船を擁する東洋艦隊を編成し、中国大陸北部沿岸を次々に陥落させて首都北京に迫り、天津沖に至った。
アヘン戦争に勝ったイギリスは、『香港の割譲』と多額の賠償金を獲得した。

朝鮮半島(李氏朝鮮)の権益をめぐって、清国と大日本帝国の利害が衝突し、日清戦争(1894年7月-1895年3月)となった。
日本の思惑は、『清国の属国であった「李氏朝鮮を独立させ、「李氏朝鮮」に日本が影響力を保持すること。』である。
戦場は、朝鮮半島に止まらず大陸の遼東半島や山東半島にも及んだ。
この時、明治天皇と大本営は広島に移動した。

既に近代化を行っていた日本軍は、常に戦局を優位に進めていった。
7月23日 日本陸軍は、李氏朝鮮の王宮(漢城:現ソウル特別市:京城)を占拠し国王「高宗」を確保した。9月15日日本陸軍は平壌攻略戦を開始し、午後5時前には平壌城に白旗が掲げられた。

清国の北洋艦隊主力艦 「定遠」・「鎮遠」排水量7,400トン 305mm連装砲2基4門は、当時の戦艦としては巨艦であった。
当時の日本帝国海軍連合艦隊旗艦「松島」は、巡洋艦レベルであった。排水量4,217トン 320mm砲1門・120mm速射砲12門とうであり、かなり見劣りする。

清国海軍と日本海軍の最初の交戦は、豊島(ほうとう:現 韓国京畿道安山市)沖海戦である(1894年7月25日)。日本艦隊は吉野(旗艦)・秋津洲(あきつしま)・浪速(なにわ)の巡洋艦3隻である。
清国側は、巡洋艦2隻・砲艦1隻・商船(高陞号:コウショウゴウ)1隻であった。

午前8時前、清国巡洋艦が発砲し海戦が始まった。
敵巡洋艦1隻を擱座させ、残るもう1隻の巡洋艦は北西方向に懸命に遁走を図った。これを「吉野」・「浪速」が猛追撃した。この時有名な『高陞号事件』が起こった。

高陞号は、船籍:イギリスの商船で、清国軍の雇船(英国旗掲揚)となっていた。
この時高陞号は、朝鮮の仁川(現韓国ソウル広域市)に清兵1,100名と大砲14門の他各種武器・弾薬を輸送中だった。
遭遇した「浪速」は、停船を命じ臨検を行った。臨検時に英国人船長に、「浪速」に随行することを承諾させていた。

「浪速」船長東郷平八郎は、「錨を揚げよ。猶予は認めない。」と信号旗で連絡した。高陞号船長からは、「重要事項あり、再度端艇送れ」との信号旗が揚がった。止む無く人見大尉を再度送った。
人見大尉は、「清国士官は船長を脅迫し、命令に服従できなくしている。船内不穏の様がある。」と復命した。
東郷は、高陞号英国船員に対し「艦を見捨てよ」の信号旗を掲げた。高陞号からは「端艇送れ」の信号旗が揚がる。
この様な押し問答が2 時間余りも繰り返された後、東郷は「撃沈する」との信号旗を掲げた。
水雷発射と砲撃が開始され、13時45分「高陞号」は沈没した。
東郷は、「浪速」から急ぎ端艇を下ろし、「浪速」に向かって泳いで来る「高陞号」の船員・士官の全員を救助した。

清国北洋艦隊と帝国海軍連合艦隊との決戦は、朝鮮半島西側の黄海で行われた。
北洋艦隊は、黄海で訓練中。連合艦隊は索敵中であった。当時の索敵は、マストに登った水兵が水平線の彼方に軍艦の煙突から排出する黒煙を発見することである。当時の軍艦は石炭焚きの蒸気機関で動いていた。

黄海海戦(1894年9月17日)は、10時過ぎから開始された。
北洋艦隊は横一列で待ちかまえ、連合艦隊は縦一列で突進した。
北洋艦隊は、体当たりも辞さない接近戦を試みたが、巡洋艦の軽快なフットワークで巧妙にかわされ、、逆に猛烈な十字砲火を浴びる羽目に追い込まれた。
北洋艦隊は四分五裂に切り裂かれ、旅順に向けて「統率の無い」遁走を始めた。旅順港に逃げ帰った北洋艦隊も、陸からの攻囲戦を嫌い山東半島の「威海衛」に退避した。
しかし、威海衛でも陸上攻撃と水雷艇による海上攻撃を受け、北洋艦隊は全面降伏した。

日清戦争における日本国の狙いは『朝鮮独立』、である。清の属国を止めさせる事である。
1894年8月26日『大日本・大朝鮮 両国同盟』を締結した。
朝鮮国は日本国を支援し、自らも出兵した。

平壌陥落後の日本陸軍の次の目標は、遼東半島(中国大陸)の旅順であった。1894年9月22日旅順要塞を陥落した。
続く目標は山東半島の「威海衛」である。1895年2月17日「威海衛」要塞は解放された。

日清講和条約(下関条約:1895年4月17日)により日清戦争は終了した。
  1. 朝鮮国の独立
  2. 遼東半島・台湾・澎湖諸島の日本への割譲。
  3. 賠償金を日本に支払う。(銀7,460トン)
  4. 清国は日本に、最恵国待遇を与える。
虎視眈々(こしたんたん)と極東進出を狙うロシアドイツフランス が結託して、ゴリ押しの『遼東半島』返還の勧告(三国干渉)を突き付けてきた。
日本は臥薪嘗胆(がしんしょうたん:辛い思いを金輪際忘れない固い決意)の思いで、返還を承諾せざるを得なかった。

この結果、直ちにロシアは『遼東半島の旅順・大連』を租借地とした。
ドイツは、山東半島青島(チンタオ)付近の膠州湾(こうしゅうわん)を占領。
翌年此処を租借地とした。
フランスは、1899年広州湾一帯(香港の近く)を租借地とした。

1900年清の西太后は列強に宣戦布告し、八か国連合軍(オーストリア&ハンガリー帝国・仏・独・伊・日・露・英・米)に北京を占領された。
西太后は北京を脱出し、西安に落ち延びた。
その後、『外国軍北京駐留』と『賠償金支払』を条件に、西太后の北京帰還が認められた。

南京中華民国(1912年1月1日)が設立された。孫文(1866-1925年)が臨時大統領であった。
清朝最後の皇帝(ラストエンペラー)宣統帝・溥儀(ふぎ)は、2月12日に退位し清朝は消失した。
以上



2017年6月28日水曜日

第72話 朝鮮半島の呼び名





朝鮮半島は、白頭(ペクト)山(2744m)から分流する、鴨緑(ヤールー)江・豆満(トウマン)江で大陸から区切られている、半島である。白頭山の位置は、威鏡道・平安道境界線が中国国境と接する地点が鴨緑江である。鴨緑江上流は東に向かい、そこから北上した辺りが白頭山である。

鴨緑江は西南西に流れて、黄(ホワン)海に流入する。豆満江は東北東に流れて日本海に流入する。


中国の「史記」に朝鮮と言う地名があるようなので、紀元前(BC)から朝鮮半島の何処かに「朝鮮」と言う地名があったと思われる。

高麗(コウライ)国王を駆逐し、李氏朝鮮(1392-1910年)の朝鮮王朝を樹立したのが李成桂であり、朝鮮王朝の初代である。

朝鮮国王旗は、地色が暗い赤(砥の粉:酸化鉄)色で「真ん中に 白・橙 色の二つ巴」その周囲を「八卦」で取り囲んでいる。

韓国国旗は「四卦」である。朝鮮統一が出来れば、「八卦」に改定する腹積りとも推察できる。
『朝鮮八道完全統一』の悲願が込められているのであろう。

李成桂は、朝鮮王朝初代として即位すると、直ちに明国(中国)に使節を送った。
明国の初代皇帝洪武帝は、高麗国の国名変更を推奨した。李成桂は『朝鮮』・『和寧』の二つを提示し、『選択を洪武帝に委(ゆだ)ねた』。
この様にして、『朝鮮国は明国の冊封(さくふう)体制に組み込まれて』しまった。
これ以来、朝鮮半島全体を『朝鮮』と呼ぶようになった。
朝鮮王朝の「東国輿地勝覧」では、中国人が「朝光鮮麗の地」と言ったため、と記している。とにかく朝鮮国は、中国人を名付け親にして置きたかったらしい。

元々は、朝鮮半島には多くの国々があった。神功皇后の三韓出兵(西暦200年頃)で、新羅・高句麗・百済は、戦わずして日本国に朝貢を約束した。

神功皇后は、第14代仲哀天皇の皇后で、仲哀天皇崩御後に第15代応神天皇を身もごられたまま、自らも含めて朝鮮半島に出兵された。
「朝鮮北部」と「鴨緑江北岸の大陸の一部」を高句麗が領有し、南部の東側が新羅・西側が百済であった。

7世紀に入り大陸では唐が台頭し、第3代唐皇帝高宗(在位649-683年)は朝鮮半島に侵攻した。唐・新羅連合軍は、660年 半島南部の西側、百済を滅亡させた。
唐軍13万(主に水軍)・新羅軍5万(陸兵)。この後唐軍主力は北上し、高句麗征伐に向かった。
百済の遺民たちは、百済復活を目指し方々で蜂起し、新羅軍との間で戦闘が続き日本国にも救援を求めてきた。
斉明天皇は九州に出兵したが、661年急死された。しかし日本軍は、3派に分かれて朝鮮半島に出兵した。1派は船舶170余・兵力1万余。2派は662年2万7千人。3派は663年1万余り。
最終的には、白村江(はくすきのえ)に結集していた唐・新羅軍に対し、日本軍は地上戦・海上戦を挑んだが、大敗に終わった(663年)。日本水軍は、転戦中の陸兵や亡命の百済難民を回収しながら日本国に逃げ帰った。
朝鮮北部の高句麗は唐軍により668年 滅亡した。
朝鮮半島南東部の新羅は、唐に対し離反や降伏を繰り返す「なまくらな姿勢」であったが、最終的には唐の冊封態勢に組み込まれた。
新羅は、平安道(ピョンアンド)の清川(チョンチュン)江以西を除く、ほぼ朝鮮半島全土を領有した。

極東において、この頃 唐と敵対関係を保持した儘(まま)の国は日本だけとなってしまった。
唐は百済救済で朝鮮に派遣されていた日本軍の捕虜を667年日本国に送り返してきた。
天智天皇(在位668-672年)は、669年遣唐使を再開した。

7世紀後半には、ほぼ朝鮮全土が新羅の支配下となっていたが、大陸側に「渤海:ぼっかい」国(698-926年)が建国され、朝鮮北部の領有をめぐって、新羅・渤海の対立抗争が激しくなった。
渤海は、靺鞨(まつかつ)人の国で、ロシア沿海地方の農耕・漁労民の国である。
後の女真(ジョルチン)族で、後世に中国で金朝・清朝を建国している。
渤海国は、713年唐に朝貢し唐の冊封体制に組み込まれた。
この頃の朝鮮半島は、威鏡道が渤海国の領土の一部となり、平安道が唐の領土の一部となっていた。南の残り6道が新羅の領土であった。

732年渤海が大陸の遼東半島まで進出し、唐は新羅に渤海攻撃を要請した。
唐・渤海の和解が成立し、735年新羅の領土は南6道と確定した。

八世紀末ごろ新羅国内は混乱し、779年新羅から日本に朝貢があった。また新羅難民の日本への亡命も多数あった。
新羅の内紛はさらに激化し、898年「後高句麗⇒泰封」900年「後百済」が建国され、旧新羅領内は、新羅・泰封・後百済の鼎立(ていりつ)となった。

北の泰封は、「黄街道」・「江原道北部」・「京畿道」・「忠清道北部」を領有。
日本に面した新羅は、「江原道南部」・「慶尚道」。
後百済は「忠清道南部」・「全羅道」。

918年泰封領内で高麗(こうらい:918-1392年)が建国され、泰封滅亡。高麗は、933年唐の冊封体制に入る。新羅は高麗に帰順(935年)し、高麗領となった。後百済は高麗により滅亡(936年)。

中国大陸で元王朝(1260-1634年)が出来、朝鮮半島にもモンゴルの侵略が始まった。
最初の侵攻が1231年。第6次侵攻(1273年)まで繰り返された。
この間、モンゴル騎馬軍団の攻撃回避のため、高麗王朝は本拠を江華島(現仁川広域市 沖)に移していた。
モンゴル軍団は、縦横無尽に高麗国内を暴れまわり、高麗軍の捕虜20万余り、死者無数。亡骨 野を覆う、惨状となってしまった。遂に高麗王朝は、全面降伏した。

元は、日本侵攻を計画し、高麗国内に直轄の『征東行省』を置いた。高麗国王は、その次官とされている。兵員・人員・装備などの調達や諸準備は、高麗国にとっては大変な負担となっていた。
文永の役(1274年11月)と弘安の役(1281年6月-8月)の2度にわたる日本侵攻であった。文永・弘安の役の元軍総数は夫々16万人。
高麗国は文永の役で、兵8千水夫6.7千人。弘安の役で、兵1万水夫1.7万人。
何れも日本軍が勝利し、元・高麗軍は敗退した。
以上


2017年6月15日木曜日

第71話 光格天皇




最近は、皇統の存続に万全を期すため、女性宮家の創出が議論されるようになってきた。
女性宮家もさることながら、第33代推古天皇を始めとして、過去には女性天皇が10代8人(2方が重祚)居られた。

明治の御代になって、旧皇室典範(1889年2月11日)が制定された。
第一条で『大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス』とある。
現皇室典範(1947年5月3日施行)においても、旧皇室典範を踏襲し、『男系男子』を踏襲している。

脈々と継続している日本歴史の中で、明治元年以降僅かに150年程だけが、女性天皇を頑なに拒否しているのである。私には全く納得がいかない。

英国の例を見るがいい。現英王室は、1952年に即位されたエリザベス二世女王陛下(91歳)である。
フォークランド紛争(1982年3月19日-6月14日)の際、鉄の女 第71代マーガレット・サッチャー首相(1979-1990年在任期間)は、英国艦隊を急遽アルゼンチン沖まで派遣し、フォークランド諸島を奪還した。
全く見事な女性首脳コンビであった。
今の日本の天皇が政治に拘れることはあり得ないし、女性首相も未だ現れていない。現在の日本では、英国流は全く実現不可能である。

万世一系の日本国の天皇家において、『極めて重大な事象が2度』起こっている。

その『最初の出来事』が、第32代崇峻天皇の暗殺(592年)である。

崇峻天皇は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の推薦により即位された。それにも拘らず、馬子の陰謀により暗殺された。
馬子は一族の繁栄を求め、物部氏との闘争を繰り返し、物部氏を滅亡に追い込んだ。
蘇我馬子と推古天皇は『叔父-姪』の親族関係である。
崇峻天皇崩御後、蘇我馬子は推古天皇に懇願し天皇即位を要請した。
推古天皇は、39歳で即位された。第33代推古天皇(在位593-628年)は、第29代欽明天皇の皇女で、姿色端麗 挙措動作は乱れなく整い18歳で第30代敏達天皇(在位572-585年)の皇后となられていた。

推古天皇は、頭脳明晰で常に公明公平に判断を行われておられた。この時代に、東洋初の公明正大で立派な女帝を持つことが出来たのは日本国の幸運であった。

二度目の出来事』は、光格天皇のご即位である。

第119代光格天皇(在位1780/1/1-1817/5/7)は、第121代孝明天皇の祖父である。

第118代後桃園天皇(在位1770/5/23-1779/12/16)が急逝され、『後継の準備が手間取った』ため、「後桃園天皇の在位期間は後桃園天皇没後も引き伸ばされて」しまった。

最終的に、第119代光格天皇即位で落着した。
第118代後桃園天皇から「4親等上に遡って」第113代東山天皇に至り、そこから3親等降った光格天皇が即位されたのである。
第118代後桃園天皇から第119代光格天皇までは、実に驚くべきことに『7親等もの大差』がある。(親子の間柄が1親等である。)

祖父母と孫は2親等であるが、従兄弟・従姉妹の関係は4親等となる。
左図の「光格天皇から、今上天皇までは6親等」である。
第118代後桃園天皇と第119代光格天皇との親族関係は7親等と極端に離れている

この事で、光格天皇のご即位がいかに『難航したか』を十分に伺い知ることが出来る。

傍系の閑院宮家の出自であり、第118代後桃園天皇の養子と言うことで即位はされているが、実際の養子縁組は後桃園天皇没後に取り決められたものである。

江戸幕府第10代将軍徳川家治(在位1760-1786年)の御台所は、光格天皇の叔母である。従って光格天皇は、江戸幕府第10代将軍「徳川家治」の義理の甥に当たる。
江戸幕府との関係もあり収まりもよく、結果的には光格天皇は皇室・幕府共々に歓迎されたものと推察される。
以上

2017年5月28日日曜日

第70話 矛盾な話

矛盾』は、韓非子(BC.二百数十年頃)の例え話から始まる。

楚人に盾と矛とを鬻(ひさ)ぐ者あり。これを誉めて曰(いわ)く、「吾が盾の堅きこと、能(よ)く陥(とほ)すものなきなり。」と。またその矛を誉めて曰く、「吾が矛の利(と)きこと、物において陥(とほ)さざるものなきなり。」と。
ある人曰く、「子の矛を以って、子の盾を陥(とほ)さば如何」と。

当然ながら、答えられない話になってしまう。
『矛盾な話』は、全面的に不合理な話であり、「問題点のある話」のレベルを遥かに超えた『非合理的な話』なのである。

中国共産党の基礎を作った、毛沢東の「矛盾論」は有名である。

日本国においては、「国家の矛盾」という本が出版されている。自民党衆議院議員高村正彦・国際政治学者三浦瑠璃の対談を纏めたものである。
「安保の矛盾」・「外交の矛盾」・「政治の矛盾」の三章にわたる対談である。矛盾対策についての様々な情勢分析や智恵・配慮などが語られた苦労話である。
苦労の功績は多大であって、大した矛盾は存在しなくなっている。

日本国の最大の矛盾は日本国憲法にある。
日本国憲法は もちろん日本語で書いてあるが、憲法では「日本語を公用語とする。」とは規定していない。
裁判所法第74条で、『裁判所では、日本語を用いる。』と規定している。

日本国憲法(1946年11月3日制定)の最大の特徴は、憲法前文と第9条であると私は確信している。

前文の矛盾

・・・・ いづれの国家も、自国のことのみに専念して、他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務である・・・・

と いつまでも信じ込む訳にはいかない。現今の国際情勢が決してこれを許さないのである。

日本国憲法は、敗戦直後の年に作られたものであり、敗戦国の悲哀と強い平和願望に基づき憲法前文が作られている。
しかし国際政治の現実は、そんな生易しいものではない。

自由主義国家の雄である米国トランプ大統領は、『アメリカ グレイト・アメリカ ファースト』を連呼し続けている。
独裁主義国家の雄である北朝鮮金正恩(キム・ジョンウン)大統領は、自国のことのみに専念して、他国と対等関係に立とうなどとは全く考えてもいない。

憲法第九条の矛盾

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

自衛隊法87条
  自衛隊は、その任務に必要な武器を保有することが出来る。
自衛隊法88条
  ・・・・・・わが国を防衛するため、必要な武力を行使することが出来る。

ここでは、完璧な言葉遊びが行われている。

国権の発動たる戦争を『有事』と呼称し、日本国軍を『自衛隊』と言う。
従って『有事』の際は、『自衛隊』が出動し、戦力にはならない『戦車』・『自衛艦』・『戦闘機』による『武力行使』を行うのである。
憲法九条と自衛隊法は全く矛盾するので、言葉のすり替えが行われている。これしか方法がないのである。

日本国憲法は極めて変更し難い仕組みになっている。敗戦直後に作られた日本国憲法は、現在に至るまで70年以上改定されていない。「現存する改定されていない憲法」としては、日本国憲法が最古参ではないかと、私は推定している。
「憲法第96条:この憲法の改正は、各議院の総議員数の三分の二以上の賛成で、国会がこれを発議し・・・・」とあり、「憲法改正の発議」は決して容易な業ではない。

多数決の矛盾

文明国では、立法・行政・司法の三権分立が一般的である。
三権内でも殆どの重要事項は、間違いなく『多数決』で決定している。

日本国憲法においても第56条2で、『両院の議事は、この憲法に特別な定のある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し』と規定している。

問題は「多数決」の正当性の根拠である。文明国の大多数が「多数決」を是認し採用しているのは何故かという疑問である。
其れしか方法が無いのか、そう決めるまでに人類はどれ程の検討を重ねてきたのか、ぜひとも知りたいと思う。

首長・議員の選挙でも各会議の議案でも、各投票者の賛否については、グレードがある筈である。0~100%の間で各投票者の意見は散らばっている。白と黒ではなく、各人各様のグレイ(灰色)さで分布している。白さ50%以上を数えて、決定するのが『多数決』方式である。

多数決が多用されている根拠について、以下の様な思考実験を試みてみた。

少数の人間を、短期間騙すのは極めて容易なことである。巷に横行する「オレオレ詐欺」の例を看れば簡単に理解できる。NHKも「私は騙されない」と詐欺防止に多大の努力を払ってくれている。
多数の人間を、短期間騙すのもさほど困難ではなさそうだ。新聞・雑誌等に怪しげな宣伝広告などを掲載すれば不可能ではない。

しかし多数の人間を、長期間にわたり騙し続ける事は、至難の業となる。
第2次世界大戦に突っ走しって行った過去の「大日本帝国」のように、国家権力により国民を騙し続ける以外には、方法がない。

要するに多数決の正当性は、『多数の人間を長期間にわたり騙し続ける事は、至難の業』という、否定的な根拠に拠るしか方法がない様なのである。
世界中の文明国の大部分が、『騙しの困難さ』を根拠にして「多数決」を採用していると推定されるのである。
もしかして人類の矛盾の一つかもしれない。
以上

2017年2月22日水曜日

バベルの塔

バベルの塔の物語は、旧約聖書の「創世記」11章に現れる。聖書の記述は下記である。

世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、「シンアル」の地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話しあった。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることの無いようにしよう」と言った。
主は降ってきて、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。
「彼らは一つの民で、みな一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こうゆうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

神は、随分と意地悪なことをなされたものである。バベルの町や塔は、未完のまま放擲され、人類は言葉が混乱したまま全世界に散らばってしまった。
「シンアルの地」とは「シュメール」の事であり、現在のイラクのチグリス川・ユーフラテス川流域の平野である。古代都市バビロンのあったメソポタミア辺りと想定される。

吾ら日本人は極東の果てまで散らかされてしまった。言語は混乱(バラル)の果て日本語を使用している。日本人は日本語で書かれた現「日本国憲法」を守って、70年間平和に暮らしてきた。
現憲法は、現存する世界各国の『改定されていない憲法』としては世界最古の憲法の栄誉を担っている。
日本の憲法では、日本語を公用語とするとは規定していない。裁判所法第74条で『裁判所では日本語を用いる。』と定めているだけである。

その日本人達が、本州の北の果てあたりで『バベルの塔』を造り始めたのである。
その地は、青森県上北郡六ヶ所村である。現代のバベルの塔の正式名称は『六ヶ所村・核燃料再処理工場』と言う。
1993年着工し、当初の計画では2009年2月完成予定であった。『以降二十数回の完成予定日の変更』を繰り返してきた。現在は2018年度完成予定としているが、全く信用できない。
当初予算は8千億円程度だったが、既に2兆2千億円を投資してしまった。
私は、核燃料再処理工場は即刻『中止すべきプロジェクト』だと確信している。
国会議員の中で強力に中止を提言する人は少なく、極めて残念である。

再処理による『プルトニウムの抽出・貯蔵』は最悪の行為である。
諸外国は『プルトニウムの抽出・貯蔵』を『核兵器製造』の第1歩と看做してしまう。
極めて危険で、全く無意味な国費の浪費である。

原子力発電所用核燃料の低濃縮ウランは、高性能遠心分離機で十分安価に簡単に製造できる。敢て再処理までして、燃え残りの濃縮ウランを掻き集める必要性は存在しない。

核燃料再処理工場の所有者は、日本原燃株式会社(JFNL)である。JFNLは日本の国策会社で、主要株主は国内の電力会社である。
JNFLの費用は、我々が支払う電力料金の1部から賄われている。

JFNLの主要事業は、下記である。
  1. ウラン濃縮事業。遠心分離法。
  2. 各原子力発電所から出る「低レベル放射性廃棄物」の埋設処理。
  3. 高レベル放射性廃棄物の中間貯蔵。
  4. 使用済み核燃料・再処理事業(核燃料再処理工場)
  5. ウラン・プルトニウム混合核燃料の製造事業
「核燃料再処理工場」を廃止しても、六ヶ所村には下記のような事業は存続しており、当地での雇用は当面確保される。大きな問題は回避できると推察する。

  • 低レベル放射性廃棄物埋設センター(JFNL)
  • 高レベル放射性廃棄物(ガラス固化体)中間貯蔵(JFNL)
  • ウラン濃縮(JFNL)
  • 国際核融合エネルギー研究センター
  • 原子力安全技術センター・防災技術センター
  • むつ小川原ウインドファーム
  • 六ヶ所村風力発電所
  • 二又風力発電所
  • むつ小川原国家石油備蓄基地
以上