2020年4月20日月曜日

第92話 永遠の歌姫

私は、クラシック音楽が好きです。
『メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲』には、忘れられない思い出があります。

私の大学の大先輩が、『無宗教の葬儀』をやって見せてくれたのです。
先輩の一大決心だと思いますが、容易に真似のできる事ではありません。
各自の家の宗教による葬儀の方が、余程無難にできます。
私には、出来る真似では無さそうです。

葬儀は、『メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲』のCDの演奏で、始まりました。
この後、主賓の挨拶となりました。
私も主賓の一人として出席していましたので、私の番になってから涙が溢れて、止まらなくなりました。
『メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲』は、私の大好きな「クラシック音楽」の一つで、CDで幾度となく聴いておりました。

大先輩も、この曲が好きだったのだ。
一緒に聴く機会を持てなかった『無念さ』に、「悔し涙」の挨拶をし終えて、やっと安堵できた気持ちが、今でも鮮明に思い出されます。
『メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲』は、私の『重たい記憶』として残っています。

私は昭和10年(1935年)生まれで、太平洋戦争は小学校5年生の時、敗戦となりました。
音楽の授業の時、音楽教師は 私ともう一人の同級生を並ばせて、唱歌を歌わせました。
下手な見本(私)と上手な見本(同級生)を聴き比べさせたのです。

私は、歌うのは下手だと小学生の頃から、強く自覚していました。
大変「当て付け」がましいことをする先生だと、私は音楽教師に 強烈な嫌悪感を抱きました。
当時の音楽教師の名前は、全く覚えていません。
今風に言えば、『パワー・ハラスメント』に相当すると思います。

『パワー・ハラスメント』以来、音楽は『聴き上手』になるのだと、私は固い決意をしました。
クラシック音楽の最高峰は、ベートーヴェンの第九交響曲だと、私は今も固く思い込んで居ます。
『第九交響曲』の合唱は、今でも極めて下手ながら「独逸語」で全部歌えます。

私は、クラシック音楽の他に、フォルクローレ(ラテンアメリカの民族音楽)も大好きです。
私が『フォルクローレ』にどっぷり浸かり始めてから、素晴らしい『歌姫』を見つけました。
クリスティーナ・アイーダ・アンプロシオ(1950  ― 1986年)」です。
彼女は南米アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに生まれ、音楽学校でその才能を伸ばした。
2歳年下の妹「グラセラ・スサーナ」と、教師などをしていた男性「マルティン・ウーゴ・ロペス」との3人組で『ロス・カウティーボス』というグループを結成した。
1967年「クリスティーナ」と「マルティン・ウーゴ・ロペス」は、結婚した。
1970年、彼らは『フォルクローレ』の登竜門『コスキン・フォルクローレ・フェスティバル』で、最優秀新人賞を受賞した。

1972年の日本のNHKでは、「世界の音楽」という番組があった
米国のジャズバンドの来日を予定ていたが、先方の都合で中止となり、NHKは大変慌てたらしい。
急遽 穴埋めを探し廻り,どうにか探し当てたのが「来日中」だった『「クリスティーナ」と「マルティン・ウーゴ・ロペス」』である。
日本では、彼ら未だ無名に近かったが、「ジャズバンド」向けの『莫大な制作費』をそのままつぎ込んで、『「クリスティーナ」と「ウーゴ』」の番組が制作された

1973年2月14日、番組が放映されると本格的な「フォルクローレ」の『大ブーム』となったようである。
日本のレコード会社が、競って『フォルクローレ:folclore』の作品を発売した。

『El  Condor Pasa(コンドルは飛んで行く)』・『灰色の瞳』・『花祭り』・『ある古い歌の伝説』・『亡びゆくインディオの哀歌』・『禁じられた遊び』などが良く知られている

私の大好きな『永遠の歌姫クリスティーナ』は、南米の『アルゼンチン共和国』の首都「ブエノスアイレス」の近郊で、1986年6月5日午後10時、彼女の乗用車がバスと正面衝突し他界した。享年36歳。

『永遠の歌姫』のご冥福を、お祈りいたします。
以上。