2020年10月14日水曜日

第98話 日本国の憲法

 最初に、井上武史(九州大学大学院法学研究院準教授)氏の意見を紹介します。

巷の「憲法改正論議」には、2つの特徴がある。

1.個別の改憲項目の是非にのみ注目し、日本国憲法全体の特性が踏まえられていない。

2.日本の憲法だけを見て、他の立憲主義国の動向が踏まえられていない。


この事実から出発して、憲法改正問題を より大きな視点から捉え直すことを試みた。

(1)日本国憲法は、分量の少ない「小さい憲法」である。欧米諸国の憲法と比べると一目瞭然である。

英単語数で比較すると、

    アメリカ憲法        7762語

    ドイツ憲法         27379語

    フランス憲法      10180語

    イタリア憲法      11708語

    韓国憲法             9059語

    日本憲法             4998語

(2)語数が少ないと言う事は、適用ルールが少ないと言う事が推察できる。

この事で、2つの事が推察できる。

①諸外国の憲法に規定されていることが、日本国憲法では欠落している。

例えば『政党条項』である。

諸外国の憲法では、『政党条項』を置いて、政党の役割や任務を規定すると共に、『憲法尊守の義務を政党に課す』事が多い。


日本国では、政党助成金として「毎年300億円以上の税金」が使用されている。

それに見合った『憲法的義務』が課されるべきなのは、当然である

政党は多くの優遇処置を受けている。

しかれども、「政党に特別の憲法的義務が課されない」のは、不正常である。

政党は他の団体に比べ、優遇され過ぎている。

他の団体との関係で不公平である。

憲法に『政党条項』を置くことは、現状に照らしても「十分な理由」がある。


以上が、井上武史氏のご意見です。

これ以降は『日本国憲法』に対する、『私の意見』を申し述べます。

  • 井上武史氏は、英単語で比較されていますが、私は日本語で比較します。
  • 同氏の「日本憲法に『政党条項』を入れるべし」に大賛成です。
  • 日本国憲法は、約660字に及ぶ前文が有る。哀愁に満ちた前文を、私は好まない。日本国の「主権在民」の基本思想に異論はないが、『各国の責務』とするのは無理である。「世界各国の政治機構は」複雑で様々である。『政治道徳の法則』は決して普遍的なものではない。こじれれば、戦争にもなり得る。
  • 私は、日本国憲法の条文の多さに辟易している。第103条まである。井上武史氏によると、日本国憲法は「英語で小さい憲法」とされています。日本国憲法は、私としては「条文過多」で、『憲法の呈(テイ)』を成さないと思う。
  • 私は日本国民として、日本国憲法をもっと単純な憲法にしたい(例えば米国憲法の様な)。以下に米国憲法を示します。米国憲法は1788年に発効し、現在も機能している『世界最古の成文憲法』である。現在(2020年)までに、232年を経過している。
  • 以下に米国憲法の「標題」を列記する。
    • 前文
    • われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、われらとわれらの子孫のうえに自由をもたらす恵沢を確保する目的を持って、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する。
    • 第1条 米国議会の定義。
    • 第2条 大統領府。
    • 第3条 司法制度。
    • 第4条 州と連邦政府の関係。
    • 第5条 憲法修正手続き。
    • 第6条 憲法と、これに基づく法律と、「条約」を国内の「最高法」と定義。
    • 第7条 批准の規定。
    •          
    •         以上
  • 極めて『簡にして要を得た』、米国憲法である。『3権分立』の思想が、手際よく述べられている。
一方「日本国憲法は、1947年5月3日施行された。施行以降今年(2020年)で73年目である。
凄まじく長大な前文が付されているが、哀愁に満ちた前文を私は好まない。以下第103条まで、各条を真面目に理解しようとすると、全く「うんざり」してしまう。
『日本国憲法の条文の多さ』に辟易(へきえき)するのである。
日本国憲法は、もっと「シンプル」に出来る筈だと、私は確信している。
また『シンプルにすべきだ』との信念も、私は持ち続けている。
主権在民』の基本テーマに、103条の条文は余りに多すぎる。
現日本国憲法は、条文の多さに『憲法の呈(テイ)』をなしていない
しかも、変更が極めて難しいことになっている。

私は日本国民として、もっと単純明快な憲法にしたいと強固な願望を持って居る。
とにかく何とかしたい

改憲手続きは、現憲法の第96条に定めている。『改憲』の発議条件が極めて厳しく、当面は絶望的である。

韓国は9回、憲法を改正している。米国は18回・イタリア13回・スイスは1999年全面改定後6回の改定・ドイツは63回(法律レベルの話を憲法に含めている様である)。

日本国も、何とか改憲』したい。固い決意で何としてでも頑張りましょうお願いです

以上







2020年8月29日土曜日

第97話 継体天皇 その2

 「第96話 継体天皇」の「結び」で、「有力豪族が協議し507年 第26代 継体天皇の即位となった。」と記載している。結果的にはそうなったのであるが、見逃せない大きな『問題点』が有ったと思う。

第25代 武烈天皇崩御(506年)で、第26代 継体天皇の即位となった。「武烈天皇」と「継体天皇」の共通の祖先は、第15代 応神天皇である。応神天皇の『5世の子孫:末裔の瀬戸際』が「武烈天皇」である。また応神天皇の『5世の子孫:末裔の瀬戸際』が第26代「継体天皇」でもある。

現代流の『親等』で表せば、「武烈天皇」と「継体天皇」の血族関係は9『親等』である。日本の現民法では、6『親等』内を「血族」としている。現代人の我々の感覚では、「武烈天皇」と「継体天皇」の血縁関係(9親等)は、『全くの他人』である。当時の「有力豪族」が『親等』議論を行ったとは思えないが、事態を穏便に収めるために『継体天皇の即位』を決めたものと推定します。問題は何故「越前」を統治していた『男大迹王:ヲホドノオオキミ』が、推挙されたか?である。「越前」とは、福井県越前市・福井県丹生郡(にゅうぐん)越前町・福井県南条郡南越前町辺りであろう。

「有力豪族」たちは、最初は第14代 仲哀天皇の「5世の子孫」を探したが、末裔は迎えの兵を見て、恐れおののき遁走してしまった。やむなく「有力豪族」たちは、第15代 応神天皇の「5世の子孫『男大迹王』」に目標を変更した。

第26代 継体天皇は、507年58歳で即位し第25代 武烈天皇の姉の「手白香皇女」を皇后とした。継体天皇の時に、朝鮮半島の「百済」が、たびたび「倭国」に軍事援助を求め、天皇はそれに応じている。531年 継体天皇は、第27代 安閑天皇に譲位した。

男大迹王』は、即位前に 既に多くの子を持っていたが、「継体天皇」即位後に 皇后との子 第27代 「安閑天皇」を 継嗣とした。

                                  以上






2020年8月25日火曜日

継体天皇

 継体天皇は、日本の第26代天皇である。在位は、西暦507 ~ 531年である。

日本書紀では、男大迹王(をほどのおおきみ)、古事記では 袁本杼命(をほどのみこと)と記されている。先代が武烈天皇、次代が安閑天皇である。

継体天皇の誕生は450年頃、崩御は531年である。出生地は、近江の国高嶋郷三尾野(現 滋賀県高島市)である。

『記紀:古事記・日本書紀』では、第15代 応神天皇の5世の子孫と記している。下記の何天皇に該当するのか、私には良く判らない。私は判然としなくても一向に構わないと考えています。「5世の子孫」とは、「ほぼ他人になりかけた」末裔です。「5世の子孫」、にどれ程の信憑性があるのか疑問です。古い話には、「5世の子孫」が良く出てきます。要注意です。

現代で使用される『親等』を基準にすれば、親子関係が 1『親等』です。爺婆と孫は、2『親等』です。兄弟姉妹は、2『親等』。従兄弟姉妹(いとこ)は、3『親等』です。

15代 応神天皇 ― 16代 仁徳天皇 ―  ・ ―17代 履中天皇

                   |

                  ・―18代 反正天皇

                  ・―19代  継体天皇は、日本の第26代天皇である。在位は、西暦507 ~ 531年である。


日本書紀では、男大迹王(をほどのおおきみ)、古事記では 袁本杼命(をほどのみこと)と記されている。先代が武烈天皇、次代が安閑天皇である。


継体天皇の誕生は450年頃、崩御は531年である。出生地は、近江の国高嶋郷三尾野(現 滋賀県高島市)である。

『記紀:古事記・日本書紀』では、第15代 応神天皇の5世の子孫と記している。下記の何天皇に該当するのか、私には良く判らない。私は判然としなくても一向に構わないと考えています。「5世の子孫」とは、「ほぼ他人に、なりかけた」末裔です。「5世の子孫」、にどれ程の信憑性があるのか疑問です。古い話には、「5世の子孫」が良く出てきます。要注意です。

現代で使用される『親等』を基準にすれば、親子関係が 1『親等』です。爺婆と孫は、2『親等』です。兄弟姉妹は、2『親等』。従兄弟姉妹(いとこ)は、3『親等』です。

15代 応神天皇 ― 16代 仁徳天皇 ― ・ ―17代 履中天皇          

                   |

                  ・―18代 反正天皇

                  ・―19代 允恭天皇・―20代 安康天皇

                    (いんぎょう)・―21代 雄略天皇

20代 安康天皇は、『殺害されたと明確に記された最初の天皇である。』

25代 武烈天皇は、「日本書紀」には「悪逆非道」ぶりを、細かく列記しているが、「古事記」にはいっさい記載がない。武烈天皇は後継がなく崩御された。西暦506年である。

有力豪族たちが協議し、507年 第26代 継体天皇の即位となった。「旧唐書(くとうじょ)は、945年に完成している。この中に、「倭国伝」と「日本国伝」が併記されている。「旧唐書」は、倭国が国号を「日本」に改めたか、小国であった日本が「倭国」を併合したか、何れかだろうと推察している。

                                    以上



                   

2020年8月7日金曜日

第95話 『ん』 物語

『いろは歌』と言うのが有る。
色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず

西暦10世紀末 ~ 11世紀中頃に成立した様である。
『いろは歌』に関する最古の文献は、『金光明最勝王経音義:大東急記念文庫所蔵』である。

全て平仮名書きにして47文字であり、重複なくすべてを使用し『意味深遠な』内容の七五調の文章を構成している。『いろは歌』の作者は、驚嘆すべき天才的な才能の持ち主である。

古来の学問の習得は『いろは』の習得から始められた様である。
三重県明和町の斎宮跡で土器の破片が発掘された。2010年である。
土器は平安時代11世紀末 ~ 12世紀前半(大略西暦1000年頃)の物である。
土器の破片の内外には、平仮名の墨書があった。
内側に「ぬるおわか」、外側に「つねなら」である。

『斎宮歴史博物館:三重県多気郡明和町竹川:三重県立博物館』では、斎王の女官が文字の勉強のため記したと推定している。

赤穂浪士47名が、主君の仇討と吉良上野介の館に討ち入ったのは、1703年1月3日である。
その後、人形浄瑠璃や歌舞伎の演題として、『仮名手本忠臣蔵』が持て囃された。
仮名文字は、47文字である。

使用されていないのは、『』の字だけである。

』は、口を閉じたまま、鼻から発声することが出来る。
私が大学生であった頃、東北出身の友人と議論してた折、彼は「んだね~」と口を挟んだ。
私は最初は『そうだね!』と同意を得たと思ったが、真逆であった。
んだね~」は、『そうではない』と言う、宣戦布告であった。強烈なアクセントが『んだ~』の、『』に付けられていた。

日本国の、自動車用ナンバープレートには、『』は、慣例として『不使用』とされている。

インドネシヤ・バリ島のデンバサール国際空港の正式名称は、(I Gusthi Ngurah Rai:イ・グスティ・ングラ・ライ)である。

日本で販売されている『医薬品』の名称は、『』で終わるものが滅茶苦茶に多い。
「正露丸」を始めとし、ロキソニン・リポビタン・パブロン・オクソラレン・オパイリン・ビオヘルミン・フコイダン・ポポン・アリナミン・…。
1903年 日本の或る新聞社(萬朝報)が、従来の仮名47文字に『』を加え48文字とし、48文字だけの作品を募った。1等~20等まで賞金を出すとした。

一等賞は、埼玉県児玉郡青柳村(現 児玉郡神川町)の坂本百次郎である。

    とりなくこゑす ゆめさませ 鳥啼く声す 夢さませ
    みよあけわたる ひんかしを 見よ明け渡る 東(ひがし)を
  そらいろはれて おきつへに 空色映えて 沖つ辺に
 ほふねむれゐぬ  もやのうち 帆船群れゐぬ 靄の中

『萬朝報:よろずちょうほう』は、1892年黒岩涙香(くろいわ るいこう:1862~1920)により創刊された。
一時は東京一の発行部数を誇り、最大発行部数は30万部となった。
新聞事業の功労により、彼は1915年「勲3等」に叙せられた。
肺癌で死去。
黒岩涙香の死去後、『萬朝報』は急速に経営が悪化した。1940年廃刊。

以上


2020年7月23日木曜日

第94話 日本人の姓(同姓の人)の数のランキング

私の子供に頃(1945年頃)は、「鈴木・佐藤 馬の糞(くそ)」と言われていた。
鈴木・佐藤さんには誠に失礼な話で、御免ください。
当時(1945年頃)の道路は、殆どが舗装されてなくて、大部分が砂利道の状態であった。
自動車は殆ど見掛けず、荷物の運搬は荷馬車だけが唯一の頼りで有った。
このため砂利道には、至る処に『乾燥した馬糞』が転がっていた。
「鈴木・佐藤」姓の多さの表現の一つとして、当時は言い継がれてきた言葉である。

明治安田生命保険が、2018年に公開した「同社の契約者のデータの解析」から、日本人の姓の多さのランキングを推定している。
トップ ~ 100 を、下表に示す。
確かに、佐藤・鈴木が 大差で1位と2位を占めている。

順位  姓   占率(%)  推定人口(約)
1   佐藤   1.53    194万人
2   鈴木   1.44    182万人
3   高橋   1.14    143万人
4   田中   1.06    133万人
5   渡辺   0.94    199万人
6   伊藤   0.90    113万人
7   中村   0.85    107万人
8   小林   0.83    104万人
9   山本   0.82    103万人
10   加藤   0.71      89万人
11   吉田   0.68
12   山田   0.65
13   佐々木  0.55
14   山口   0.51
15   松本   0.50
16   斎藤   0.48
17   井上   0.48
18  木村    0.46
19  林     0.44
20  清水    0.43
21  山崎    0.39
22  中島   0.38
23  森    0.38
24  阿部   0.37
25  池田   0.36
26  橋本   0.35
27  石川   0.34
28  斉藤   0.33
29  山下   0.33
30  小川   0.33
31  石井   0.32
32  後藤   0.31
33  長谷川  0.30
34  岡田   0.30
35  前田   0.30
36  近藤   0.30
37  藤田   0.29
38  坂本   0.28
39  遠藤   0.28
40  村上   0.28
41  青木   0.27
42  藤井   0.25
43  太田   0.25
44  福田   0.25
45  金子   0.24
46  西村   0.24
47  三浦   0.24
48  中川   0.24
49  中野   0.23
50  松田   0.23
51  原田   0.23
52  岡本   0.23
53  田村   0.23
54  小野   0.23
55  竹内   0.23
56  藤原   0.22
57  中山   0.22
58  石田   0.21
59  森田   0.21
60  小島   0.21
61  和田   0.20
62  内田   0.20
63  上田   0.20
64  酒井   0.20
65  原    0.20
66  柴田   0.19
67  宮崎   0.19
68  高木   0.19
69  横山   0.19
70  安藤   0.19
71  島田   0.18
72  宮本   0.18
73  工藤   0.18
74  大野   0.18
75  杉山   0.17
76  今井   0.17
77  高田   0.17
78  村田   0.17
79  丸山   0.17
80  平野   0.17
81  大塚   0.17
82  増田   0.16
83  武田   0.16
84  上野   0.16
85  谷口   0.16
86  桜井   0.16
87  野口   0.16
88  菅原   0.16
89  新井   0.16
90  松井   0.16
91  千葉   0.16
92  河野   0.16
93  岩﨑   0.16
94  佐野   0.16
95  小山   0.16
96  野村   0.15
97  藤本   0.15
98  木下   0.15
99  松尾   0.15
100  久保   0.15


計       100.0   1億2659万人

トップ ~ 100 に含まれない姓の人も、日本人の姓の多様性を示すものであり、
当然のことながら 自分の姓に矜持をもって頂きたい。

以上

2020年6月23日火曜日

第93話 囲碁の話

1.用具

 (1)碁盤 木製の盤面上に、縦と横の19本の黒線が引かれている。
        材質は榧木(かやのき)が最良である。
        北米産の「スプルス」材は、廉価品としてよく使用される。
        四方柾目(しほうまさめ)が最良である。
       4 本の脚は、「くちなし」の実の形である。『四方に口出しなし』の意。
        盤面の縦 45.5㎝ ・横 42.4㎝
       厚さは、厚いほど高価である。
 (2)碁笥(ごけ:碁石入れ)
       白石用と黒石用で一組となる。
       黒石:181   白石:180
       181 + 180 = 361    :碁盤上に石の置ける総数である。
       材質は、桜・欅(ケヤキ)・花梨(カリン)・栗などである。
 (3)碁石
         白石        黒石
   直径    21.9 ㎜      22.2 ㎜
   厚さ    6  ㎜ ~ 14 ㎜ 号数で表示。
         25号 約 7㎜   40号 約 11㎜
         昔は3分3厘(10 ㎜)が最高級とされていました。
   材質    白石 日向(九州:宮崎県)の蛤の貝殻が最高級。
         黒石 那智黒石(和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡)勝浦町:
            「新第三期中新世」の黒い粘板岩。

2.ルール 等

  現在 互先の場合、黒番が白番に6目半の「こみだし」を行う。
     置き碁の場合、黒番が白番に半目の「こみだし」を行う。

3.歴史

発祥は中国と考えられ、2千年以上前から、東アジアを中心に親しまれてきた。
日本では、平安時代(794 ~ 1192年)から親しまれ、『枕草子』・『源氏物語』にも「囲碁」の話がある。

『大宝律令』は、701年に制定された「日本の法律」である。
702年文武天皇(第42代)は、『大宝律令』を日本国内に頒布(はんぷ)した。
『大宝律令』では、スゴロク・バクチは禁止だが、「碁・琴」は禁止しないと決めている。

奈良の東大寺の『正倉院』には、第45代聖武天皇(在位期間:724~749年)の遺品の中に「碁盤3面」・「碁石2組」が保存されている。

江戸時代(1603 ~ 1868年)には、「本因坊家」・「井上家」・「安井家」・「林家」の  4 家が、碁の家元とていた。4家は幕府から扶持を与えられていた。
年1回江戸城内で、『お城碁』が行われた。
4家が各々代表数人を選んで、『お城碁』に臨んだ。

『お城碁』で「19戦19勝」の無敗記録を作った人が居ます。
『本因坊秀策』(1829~1862年)です。若干32歳の若さで病死した。

1862年江戸で「コレラ」の大流行があり、本因坊家内にも患者が続出した。
周囲の制止にも拘らず本因坊秀策は、患者の看護に奔走し 残念ながら当人も感染し、他界した。

本因坊秀策は、瀬戸内海「因島:いんのしま:広島県尾道市に属する島」で生まれ、父が備後三原城主の家臣の家柄で、本因坊家相続には逡巡が有った様です。

1662年、「囲碁」・「将棋」が江戸幕府『寺社奉行』の管轄に置かれた。
1668年、幕府が『安井算知』を「碁所」に任命した。

『碁所』とは、定員1名(空席の時もある)で『50石20人扶持』。
「碁所」就任者

安井算知   1668 ~  1676年 8年
本因坊道策  1677    ~  1702年 25年  抜群に強かった。
井上道節因碩 1710 ~ 1719年 9年
本因坊道知  1721 ~ 1727年 6年
本因坊察元  1770 ~ 1788年 18年
本因坊丈和  1831 ~ 1839年 8年
                    明治元年は、1868年。

4.現在の囲碁界

公益財団法人日本棋院』と『一般財団法人関西棋院』とがある。
各々段級位の囲碁免状を発行している。
私は、「日本棋院」の「段級位認定大会」で優勝を重ね、「アマ4段の免状」を獲得した。1975年10月である。

現在(2020年6月23日)の日本棋院の、『7大タイトル』は、下記である。


  棋聖    井山裕太 (30歳) 8連覇
  名人    芝野虎丸 (20歳)
  本因坊   本因坊文裕     8連覇 井山裕太のこと。 
  王座    芝野虎丸 (20歳)
  天元    井山裕太      5連覇
  碁聖    羽根直樹 (43歳)
  十段    村川大介 (29歳)
以上

5.囲碁の『国際大会』

 (1)テレビ囲碁アジア選手権
   主催 NHK・KBS(韓国放送公社)・CCTV(中国中央電視台)
   優勝賞金 250万円
   開催地は、3社が持ち回り。
   1手30秒の30秒読み。1分単位で合計10分の考慮時間。

   日本人優勝者
   
   第1~ 4回(1989 ~ 1992年)  武宮正樹
   第5回(1993年)          依田紀基
   第6回(1994年)          大竹英雄
   第10回・11回(1998・1999年)    依田紀基
   第17回(2005年)          張栩
   第25回(2013年)          井山裕太

 (2)SENKO CUP ワールド碁女流最強戦
   主催   日本棋院
   後援   日本経済新聞社、 「囲碁・将棋チャンネル」(株)
   特別協賛 センコーグループホールディングス
   協賛   旭化成、積水ハウス、積水化学工業
   協力   日本航空
   有償賞金 1000万円
   日本(4)・中国(1)・韓国(1)・中華台北(1)・欧州代表(1)
   ()内数値は、参加人数。

   第1回(2018年)優勝   於之瑩(よしょう)6段(中国)
   於之瑩6段は、1997年生まれ 現在(2020年)23歳である。
 
 (3)応昌期杯 世界プロ囲碁選手権戦  
  •  主催   応昌期囲棋教育基金会
  •  賞金   優勝40万米ドル  準優勝10万米ドル
  •  台湾の応昌期氏が、、私財を提供して設立た。
  •  日本・韓国・中国・台湾・米国・欧州などから、主催者の招待で選抜。
  •  4年に1度、「オリンピックの年」に実施。
  •  1989年から開始。2016年の8回まで、日本人優勝者はいない。
  •  1993年大竹英雄氏が準優勝。1996年依田紀基氏が準優勝。

  • 以上
  •   

2020年4月20日月曜日

第92話 永遠の歌姫

私は、クラシック音楽が好きです。
『メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲』には、忘れられない思い出があります。

私の大学の大先輩が、『無宗教の葬儀』をやって見せてくれたのです。
先輩の一大決心だと思いますが、容易に真似のできる事ではありません。
各自の家の宗教による葬儀の方が、余程無難にできます。
私には、出来る真似では無さそうです。

葬儀は、『メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲』のCDの演奏で、始まりました。
この後、主賓の挨拶となりました。
私も主賓の一人として出席していましたので、私の番になってから涙が溢れて、止まらなくなりました。
『メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲』は、私の大好きな「クラシック音楽」の一つで、CDで幾度となく聴いておりました。

大先輩も、この曲が好きだったのだ。
一緒に聴く機会を持てなかった『無念さ』に、「悔し涙」の挨拶をし終えて、やっと安堵できた気持ちが、今でも鮮明に思い出されます。
『メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲』は、私の『重たい記憶』として残っています。

私は昭和10年(1935年)生まれで、太平洋戦争は小学校5年生の時、敗戦となりました。
音楽の授業の時、音楽教師は 私ともう一人の同級生を並ばせて、唱歌を歌わせました。
下手な見本(私)と上手な見本(同級生)を聴き比べさせたのです。

私は、歌うのは下手だと小学生の頃から、強く自覚していました。
大変「当て付け」がましいことをする先生だと、私は音楽教師に 強烈な嫌悪感を抱きました。
当時の音楽教師の名前は、全く覚えていません。
今風に言えば、『パワー・ハラスメント』に相当すると思います。

『パワー・ハラスメント』以来、音楽は『聴き上手』になるのだと、私は固い決意をしました。
クラシック音楽の最高峰は、ベートーヴェンの第九交響曲だと、私は今も固く思い込んで居ます。
『第九交響曲』の合唱は、今でも極めて下手ながら「独逸語」で全部歌えます。

私は、クラシック音楽の他に、フォルクローレ(ラテンアメリカの民族音楽)も大好きです。
私が『フォルクローレ』にどっぷり浸かり始めてから、素晴らしい『歌姫』を見つけました。
クリスティーナ・アイーダ・アンプロシオ(1950  ― 1986年)」です。
彼女は南米アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに生まれ、音楽学校でその才能を伸ばした。
2歳年下の妹「グラセラ・スサーナ」と、教師などをしていた男性「マルティン・ウーゴ・ロペス」との3人組で『ロス・カウティーボス』というグループを結成した。
1967年「クリスティーナ」と「マルティン・ウーゴ・ロペス」は、結婚した。
1970年、彼らは『フォルクローレ』の登竜門『コスキン・フォルクローレ・フェスティバル』で、最優秀新人賞を受賞した。

1972年の日本のNHKでは、「世界の音楽」という番組があった
米国のジャズバンドの来日を予定ていたが、先方の都合で中止となり、NHKは大変慌てたらしい。
急遽 穴埋めを探し廻り,どうにか探し当てたのが「来日中」だった『「クリスティーナ」と「マルティン・ウーゴ・ロペス」』である。
日本では、彼ら未だ無名に近かったが、「ジャズバンド」向けの『莫大な制作費』をそのままつぎ込んで、『「クリスティーナ」と「ウーゴ』」の番組が制作された

1973年2月14日、番組が放映されると本格的な「フォルクローレ」の『大ブーム』となったようである。
日本のレコード会社が、競って『フォルクローレ:folclore』の作品を発売した。

『El  Condor Pasa(コンドルは飛んで行く)』・『灰色の瞳』・『花祭り』・『ある古い歌の伝説』・『亡びゆくインディオの哀歌』・『禁じられた遊び』などが良く知られている

私の大好きな『永遠の歌姫クリスティーナ』は、南米の『アルゼンチン共和国』の首都「ブエノスアイレス」の近郊で、1986年6月5日午後10時、彼女の乗用車がバスと正面衝突し他界した。享年36歳。

『永遠の歌姫』のご冥福を、お祈りいたします。
以上。