2015年12月3日木曜日

故郷 福山

私は十銭硬貨を、大切に肌身離さず持ち歩いている。十銭とは1円の十分の一であり、現在は通貨としては全く通用しない。
写真の様に、現在の50円硬貨と同様真ん中に穴が開いているので、我が家の鍵と一緒にくっ付けて、持ち歩くのには誠に都合がいい。表には右から左に「銭十」と刻印がある。裏はこれも右から左に「本日大」・「年十和昭」と刻印されている。
製造年が私と同じなので、深い絆に結ばれた気持ちで常に持ち歩いている。
何時頃からこのコインを保管する様になったかは、判然とした記憶がない。このコインと共に故郷・福山を旅立ったのは高校を卒業した18歳の時である。

福山市の基礎を造ったのは、水野勝成(1564-1651年)である。かって安芸国・備後国の領主であった福島正則が改易(1619年)され、同年水野勝成は2代将軍徳川秀忠の命を受け、大和郡山6万石から備後国10万石に転封された。
水野勝成は、蝙蝠山(こうもりやま)に福山城(別名久松城:葦陽城)を築城した。福山城は10万石にしては格式以上に立派な城郭で、5層の天守閣は蝙蝠山に天高く聳えて威容を誇っていた。

築城着手は、1620年春であるが、築城と並行して上水道工事・市街地形成工事も進めた。
これらの諸工事の完成が1622年夏ごろであるから、今考えても舌を巻くほどの突貫工事であった。
蝙蝠山の「蝠」に因んで、水野勝成はこの地を『福山』と呼んだ。

注記1:上図は、明治初年に撮影された福山城である。村上正名著『福山の歴史と文化財』福山文化財シリーズ2(福山文化財協会発行)に掲載されていた写真を引用している。村上正名先生は、中学時代の恩師である。
注記2:下図も、前記図書に掲載されていた福山城天守閣の在りし日の写真である。南南東の方向から撮影されたものである。
水野家は、勝成・勝俊・勝貞・勝種・勝岑(かつみね)の5代で断絶した。勝岑は将軍拝謁の当夜、江戸で敢え無く他界した。僅に2年に満たない命であった。

水野家断絶後、山形城主(出羽国)松平忠雅が備後国に入封した。その後松平氏に代わって阿部正邦が宇都宮から備後国に転封(1710年)されてきた。阿部氏は10代161年間、備後国を治めてきた。
阿部氏の中では、7代藩主・阿部正弘(1819-1857年)が有名である。若干25歳で老中となっている(1843年)。

ペリー提督が米国の東インド艦隊を率いて大統領フィルモアの親書を携え、浦賀に来航(1853年)した。翌年2月ペリーが再来日し、3月「日米和親条約」を締結した。この時老中首座であったのが阿部正弘である。江戸幕府200年余の鎖国を解いたのである。

最後の征夷大将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が「大政奉還」を、明治天皇に上奏(1867年10月14日)し翌日勅許された。
しかし幕府側は、薩摩藩の挑発に乗せられて鳥羽伏見の戦いが起こりこれに敗退した。大阪城にいた徳川慶喜は、京都守護職(会津藩主)・松平容保(かたもり)らと共に開陽丸で江戸に撤退した。これが戊辰戦争(ぼしんせんそう:1868-1869年)の始りである。戊辰戦争は、『江戸幕府を消滅させ明治新政府を確立』させるための戦争であった。幕府方は日の丸の旗を掲げ、明治新政府側は錦旗を掲げて戦った。

錦旗を掲げて東進する、長州藩兵は、1月9日に福山藩領内に侵入し福山城に砲撃を行った。福山藩兵も応戦し銃撃を行っている。しかしその後、家老三浦義建は長州に恭順し、誓詞を提出した。

私が小学生の頃、福山城内の西方の窓の1つから首を出してみると、窓枠の1部が欠けているのを見ることができた。長州藩砲撃跡と聞いていた。砲弾は炸裂弾ではなく、丸い鉄球だったと推測できる。

福山市の福山城は、有名である。JRの福山駅は、福山城の三の丸に作られておりしかも高架であるから、福山城は駅のホームから眼前に仰ぐことができる。
気の毒なのは、北海道の松前城である。松前城は、北海道で唯一の日本城郭であった。松前城が在る場所が福山と呼ばれており、当然そこにあった城が「福山城」と呼ばれていた。
残念ながら失火により焼失してしまった。現在は松前城資料館として再建されている。
北海道の城郭で有名なのは、むしろ函館にある洋式城郭の五稜郭であろう。幕府の函館奉行から五稜郭建設が申請され、五稜郭建設を許可したのは前述の老中・阿部正弘であった。

廃藩置県が行われたとき、備後国は『福山県』となった。このとき、全国では3府302県が出来上がった。
その後福山県は『深津県』⇒『小田県』⇒『岡山県』へと吸収合併されていった。最後に備後国は、広島県に編入(1876/4/18)され現在に至っている。

福山市は、太平洋戦争末期 B29の焼夷弾爆撃により焼け野が原にされた。広島に原爆投下され(1945/8/6)、福山空襲(8/8)・長崎原爆投下(8/9)・ポツダム宣言受諾(玉音放送:8/15)・降伏文書調印(米戦艦ミズーリー上:9/2)で終戦となった。

福山の近くには、大津野村(現在の福山市大門町)に海軍航空隊がおり、市の南東には広島連隊の陸軍歩兵部隊の駐屯地があった。市内には日本化薬や三菱電機の工場があった。
福山空襲の翌日、私は家族を親戚の家に残して、我が身独りで親戚の人たちと一緒に自宅跡に行ってみた。自宅の残骸の瓦礫が一帯に散らばり、隣家や道路の境界も定かでない焼野原の惨状だった。全身の震えが止まらない程の孤独感に襲われた。父は出征して兵隊になっており、母は足が不自由で外出時は乳母車が手放せない。自分は小学5年である。弟は1年生・妹は幼児であった。涙がにじむ目で立ち続けるだけだった。
自分のものとして残ったものは、着の身着のままの着衣と大切にしていた『十銭硬貨』だけであった。
空襲で、蝙蝠山の福山城天守閣も焼失してしまった。

福山空襲の際、不思議なことに陸軍歩兵部隊の駐屯地の兵舎は無傷で焼失を免れた。その旧兵舎を利用して、広島青年師範学校附属中学校が新設され、私は最初の1年生として入学し3年後同校を卒業した。
広島大学が発足し広島大学教育学部付属福山高等学校に入学した。高等学校も焼失を免れた旧兵舎であった。

その後福山市は、町村合併を繰り返して大きく拡大した。現在の市域は約520キロ平方、人口は46万人程度となっている。1950年頃の市域での人口は6万人程度であった。
市旗・市章は蝙蝠をかたどった山印である。福山市の蝙蝠山に由来する。

風光明美で瀬戸内航海の要衝であった鞆の浦は、古来より有名である。特産品としては備後表(畳表)・松永の下駄・府中の・鞆の保命酒が比較的古くから知られていた。新市(しんいち)の備後絣も挙げておきたい。最近はくわいの生産も有名のようである。近年は、バラ公園が整備されバラの街としても知られるようになってきた。



以上

2015年11月15日日曜日

もんじゅ 哀れ

もんじゅ は、福井県敦賀市白木2丁目1番地に建設された原子力発電所である。所有者は独立行政法人「日本原子力研究開発機構(国立研究開発法人)」である。文部科学省の所管である。


右の写真は、弊著 原子力発電 から転載したものである。 

「もんじゅ」の正式名称は、『高速増殖原型炉もんじゅ』である。

高速増殖炉とは、高速中性子によるウラン・プルトニウム混合燃料(MOX燃料)の核反応エネルギー(熱)を利用する原子炉である。原子炉内にブランケットと呼ばれる部分を作り、天然ウラン燃料を置いておくと、原子炉の運転で消費するプルトニウムよりも天然ウラン燃料から生産されるプルトニウムの方が多くなるのである。生産プルトニウムと消費プルトニウムの比率を増殖比と言い約1.2が目標である。
打出の小槌のような有難い話であるが、これが増殖炉と呼ばれる処の本当の意味である。

「原型炉」とは、初めて発電を行うテストプラントという意味である。電気出力は、28万kwである。
勿論その前に「高速増殖実験炉」と言うものが建設されており、各種の検証実験が行われていた。原研大洗に建設された「常陽」である。発電はせず、原子炉で発生した熱はそのまま大気中に放出している。

1985年10月、「もんじゅ」建設着工。
1991年5月、機器類の試運転開始。
1995年8月、発電開始。同年12月、ナトリウム漏えい事故。
2010年5月、運転再開。7月、炉心確認試験終了。
同年8月、原子炉上部にある回転プラグから、燃料中継装置が原子炉容器内に落下。

2012年11月、原子力規制委員会は保安規定に基づく機器の点検漏れ 9679個 があったと公表。
2015年11月、原子力規制委員会は『日本原子力研究開発機構(原研)に運転を任せるのは不適当だとし、これに代わる運営主体を定めるよう文部科学大臣に勧告』を決めたようである。

もんじゅ は、発電開始から今日まで僅か3か月間余りしか発電していないのである。しかも現在の状況から考察すれば、運転主体が宙に舞い上がってしまい、悲しいかな現状のまま放置される可能性が極めて高くなったと推察される。

もんじゅ は、日本国の将来のエネルギー問題解決策の夢として、国家プロジェクトとして建設されたものである。日本原子力研究開発機構が国家予算を使用し、国内の原子力メーカー各社がそれぞれ機器の分担を定めて建設が進められた。
大雑把に分担を記載すれば、東芝は原子炉上部に置かれる回転プラグ関係、日立はナトリウム冷却系、三菱は蒸気発生器関係、富士は燃料交換機関係である。
1995年12月のナトリウム漏えい事故は日立所掌分であり、2010年8月の燃料中継装置の落下事故は東芝所掌である。

ナトリウムは常温でも水と激烈な反応を行い、水素ガスを発生する。三菱所掌の蒸気発生器は驚異的な装置である。数百度の液体ナトリウムの熱で、タービン発電機を回す過熱水蒸気を造るのだから大変である。もんじゅの発電期間は僅か3か月程度しかなかったので、「ナトリウム-水」隔壁の腐食減耗は全く問題にならなかった。
富士の燃料交換系は、3か月程度の原子炉運転では全く燃料交換する段階には至っていない。

原子力規制委員会の勧告は、「有識者の非常識」の典型かもしれない。これは自戒を含めた格言である。『有識者も、専門外ではただの素人である。』の意味合いである。

もんじゅの試運転開始から今日までに25年ほどが経過している。時移り人は去り、原子力業界でのナトリウム技術者はほとんど残っていない。2010年の運転が、限界だったのかもしれない。すぐに事故を起こしてしまった。

この期に及んで、日本国中の何処をどのような探し方をすれば『新しい運営主体』が見つかるというのであろうか。
点検漏れ1万か所を放置したまま(特別に危険であると言うわけでもない)、今後も長期間にわたり もんじゅ は放置され続けるであろうと推測され、誠に哀れである。


高速増殖炉の先進国は、フランスであった。フランスは既に高速増殖炉を卒業したように見受けられる。
高速炉フェニックスは、電気出力23.3万kwであった。1968年 着工。運転開始 1974年2月。運転終了2010年2月。
高速炉スーパーフェニックスは、電気出力120万kwである。1977年 着工。運転開始1985年。運転終了1998年12月末日。
フランスは、プルトニウムを再生産する高速増殖炉は、スーパーフェニックスで完了させた。国家政策として、プルトニウムを貯め込むことをやめたのである。

ウラン資源は世界的には有り余るほどある。高性能遠心分離機が開発され、通常の原子力発電所用燃料の低濃縮ウランは簡単に製造できる。
核兵器製造の疑惑を持たれる『プルトニウム貯蔵』は、避けるのが賢明な選択である。

最近フランスで計画されている高速炉は、 ASTRID である。ASTRID の電気出力は、60万kwである。2015年から基本設計開始。2025年頃運転開始予定。
 ASTRID (Advanced Sodium Technological Reactor for Industrial Demonstration)
工業技術展示用の改良型ナトリウム冷却原子炉である。
以上

2015年9月23日水曜日

推古天皇

第33代 推古天皇(在位593~628年)は、第29代 欽明天皇(在位539~571年)の皇女である。古事記では、推古天皇までが記載記述されている。
日本書紀の推古紀では、姿色端麗で挙措動作は乱れなく整い、御歳18で 第30代 敏達天皇(在位572~585年)の皇后となられている。

飛鳥時代の初期(6世紀末頃)の日本では、朝臣(あそん)・蘇我氏と大連(おおむらじ)・物部(もののべ)氏との政権をめぐる軋轢は苛酷を究めていた。蘇我氏は仏教推進派であり、物部氏は仏教排斥派であり、宗教戦争の一面も呈していた。

第32代 崇峻天皇(在位587~592年)は、蘇我馬子の推薦により即位された。物部守屋が推していた穴穂部皇子は、蘇我馬子により殺害されている。さらにその後、物部守屋も殺害され、物部氏は没落し歴史から消えてしまった。
更に更に恐ろしいことに、畏れ多くも崇峻天皇も蘇我馬子の謀略により暗殺されたのである。天皇家歴代で 唯御一人、臣下の謀略で崩御された天皇は、崇峻天皇のみである。しかも崇峻天皇の皇后は、蘇我馬子の娘であった。

絶大な権力を握った蘇我馬子と、推古天皇との血縁関係は『伯父-姪の間柄』である。
推古天皇は、蘇我馬子に推されて即位なされた。御歳39 である。崇峻天皇は、推古天皇の異母弟であった。
朝臣・蘇我馬子の専横により、日本史上で初の『女性天皇』が実現したのである。いや極東においても史上初の女帝であった。

推古天皇は、甥の聖徳太子を皇太子に定め、冠位十二階や十七条憲法などにより、天皇を中心とする中央集権の国家体制を押し進められた。
更に推古天皇は、遣隋使を5回以上も派遣され、中国との外交についても万全の気配りを行っておられる。
日本国は、この時代に 広い見識を持ち公正無私の立派な女性天皇を持つことができたのは誠に幸せであった。

推古天皇は、第2回目の遣隋使で小野妹子(男性)に持参させた国書で、『日出處天子致書日没處天子無恙云云』と書かせておられる。
『日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。つつがなきや、云云(うんぬん)』と、すこぶる意気軒高な国書であった。

これは、流石(さすが)に 隋の煬帝を激怒させてしまった。古代の中国の認識においては、この地上では「天子」と名乗れる人間は唯一人しか存在し得ない事になっていた。
されども中国の天子の執行は、誠に心床しいものである。隋の煬帝は、日本の遣隋使に沢山の珍しい土産物を持たせて帰国させた。
但し国書に対する返書の宛先は『倭国王』であった。

地上唯一人の天子・煬帝も、『日出處の天子』と啖呵を切った御当人が、まさか「極東で初めての女帝であったとは、想像もできなかったのではなかろうか。」と、勝手に想像してみたくなるのも、歴史の楽しみの一つである。

推古天皇を濫觴(らんしょう:物事の始り)として、女性天皇を下記に列記する。

① 第33代  推古天皇 在位 592~628年
② 第35代  皇極天皇     642~645
③ 第37代  斉明天皇     655~661
④ 第41代  持統天皇     686~697
⑤ 第43代  元明天皇     707~715
⑥ 第44代  元正天皇     715~724
⑦ 第46代  孝謙天皇     749~758
⑧ 第48代  称徳天皇     764~770     孝謙天皇・重祚
⑨ 第109代  明正天皇     1629~1643
⑩ 第117代 御桜町天皇    1762~1770

以上 10代・9人の女性天皇がおられた。

古い話をすれば、第14代 仲哀天皇(在位192~200年)崩御後から 第15代 応神天皇(在位270~312年)即位までは、『天皇位は、空位のまま』であった。
この空位の期間、日本国の政務をつかさどり、自ら兵を率いて朝鮮出兵まで行われたのは、仲哀天皇の皇后・『神功皇后』であった。『神功皇后』は女性天皇に準ずるお方として記憶しておきたい。

昭和22年1月16日法律第3号(1947年)で規定される、現在の『皇室典範』によれば、
第1条:『皇位は皇統に属する男系の男子』がこれを継承する。
となっている。
法律の改訂がない限り、『将来の日本国では女性天皇の即位はあり得ない』ことになってしまった。
第9条では、養子は不可となっている。
また23条では、『陛下』と敬称されるのは、『天皇皇后太皇太后皇太后』である。
その他の皇族は「殿下」と敬称されることになっている。
以上

2015年7月22日水曜日

各プロジェクトの再検討

1.新国立競技場の建設

当初予算は、1,300億円程度を予定していたようである。その後 様々な
期待や思惑が強引に詰め込まれて、ゴム風船は遂に3,000億円程度にまで膨れ上がり、パンク寸前の状態である。

プロジェクトの主体を明らかにしたい。国立競技場の運営は『独立行政法人・日本スポーツ振興センター』である。博打(toto:サッカー籤)の上りを運営費の足しにしている。
国立競技場の建設費用は、我等の血税で国が負担する。建設プロジェクトの責任者は、遠藤利明・五輪担当大臣である。
有識者の非常識と各方面の思惑の詰込で膨れ上がったゴム風船に決着をつけ、合理的なプロジェクト予算で早急に再出発させねばならない。

過去の五輪の競技場建設で最高の費用を掛けたのは、ロンドン五輪で800億円である。国立競技場の当初予算 1,300億円は全く順当な予算であった。今回はロンドン五輪の倍程度 1,500億円程度は認めてもよいであろう。

思惑の詰込にかこつけて、国立競技場の命名権の発売の発想なぞ、国辱的言語道断の発想である。

新国立競技場の建設目的に「コンサート開催」をいれてはいけない。五輪の開会式は行われるが、コンサート会場としての特別な仕組みは全く不要である。
国立競技場としての必要な設備さえ有ればいい。その範囲内で「可能なコンサート」に限定して、コンサート開催を認める運用を行えばよい。

2.日本原燃の核燃料再処理工場建設

日本原燃株式会社は、核燃料サイクルの商業化を目的に設立された国策会社である。主要株主は、東電を筆頭とする各電力会社である。六ヶ所再処理工場は、青森県上北郡六ヶ所村弥栄平地区にある。
当初計画では、建設費7,600億円で2010年本格稼働を予定していた。試運転完了は、2009年2月を目指していた。しかしながらトラブルが相次ぎ、完成予定は20回以上も延期され、建設費も3倍近く 2兆円以上にも膨れ上がった。
目下試運転中で、完成目標は2016年3月を設定している。このプロジェクトは、試運転期間が余りにも長期間続き、完成予定の変更回数が極端に多い。従って『完成目標』時期の信ぴょう性は、極めて低いものと推量する。

現状打開の当面の対策は、第三者委員会による『現状把握と今後のプロジェクト運営に対する提言』を求めることである。提言は、プロジェクトの廃止まで考慮した幅広い視点からの提言を期待する。

核燃料再処理工場稼働の最大の問題点は、プルトニウムの蓄積である。日本が核燃料再処理でプルトニウムを貯め込めば、国連安保理・常任理事国を初めとし、諸外国は苦々しく思うだけである。
「高速増殖炉や軽水炉原発で燃料としてプルトニウムを消費する」と言う説明しても、日本の夢を説明しても、更にプルトニウムを貯め込むつもりだと、他国は立腹するに違いない。

高速増殖原型炉「もんじゅ」の実情を考へ合はせてみると、強弩の余勢でプロジェクトは存続しているものの、再検討を行うべき時期に来ていると思う。

3.高速増殖原型炉「もんじゅ

福井県敦賀市白木二丁目1番地に建設された。プルトニウムを燃料とし、『プルトニウム増殖』を目的とする、高速増殖炉の実用化を目指した原型炉である。原子炉冷却材は、液体ナトリウムを使用している。電気出力28万kw。所有者:行政独立法人・日本原子力開発機構。

1985年10月着工・1991年5月機器類の試運転開始。1995年8月発電開始。
同年12月ナトリウム漏洩事故。2010年5月運転再開。同年8月原子炉容器内燃料中継装置落下事故。(弊著:原子力発電・参照)

2013年2~3月 原子力規制委員会の立ち入り検査。重要機器での点検漏れや虚偽報告が指摘された。
2013年5月 再発防止を目的とする安全管理体制の再構築ができるまで、「もんじゅ」の無期限の運転停止が命じられた。
ナトリウム取扱い経験の少ない規制委員会のメンバーと、「もんじゅ」の運転保安要員との対話で、聊かの話の齟齬(そご:食違い)が有ったのかもしれない。

何れにせよ「もんじゅ」の廃炉も含めて、本プロジェクトの全面的な再検討の好機であると考える。
国策として高速増殖炉開発を推し進めていた時代は、もはや去っている。今やメーカーには、液体ナトリウム取扱い経験者は殆ど居なくなっている。日本原子力研究開発機構でも、要員は減っているに違いない。

発電しながらプルトニウムを増殖してゆくという、『打出の小槌』のような夢は、泡沫(うたかた)と流れ去り、プルトニウムの保持自体が国際的には疑惑視されるのである。
今こそ『文殊の知恵』で、「もんじゅ」プロジェクトの廃止を考える時であろう。

4.発送電分離

発送電分離とは、電力会社の発電部門と送配電部門を切り離し、別会社とすることである。日本では 2017~2019年 頃を目途に実施が考えられている。自由化による競争の促進と電力料金の引き下げが狙いである。

発送電分離の成功例を韓国に見ることができる。
1961年朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が、3電力会社を合併し韓国電力株式会社を作らせた。1982年国有化され「韓国電力公社:KEPCO」となった。株式の51%を国が保有した。
2001年 電力自由化のため発送電分離を行い、送配電はKEPCOとし、発電部門は6子会社に分割した。

  • 韓国南部発電
  • 韓国中部発電
  • 韓国東西発電
  • 韓国西部発電
  • 韓国南東発電
  • 韓国水力原子力発電
日本の電力中央研究所の「電力料金の国際比較」を見ると、韓国・米国の電力料金の安さは際立っている。

       米国・韓国    日本  フランス  ドイツ
産業用     6        16     12     16
家庭用     10        24     19     38

日本で実施する場合も、韓国方式を参考にして『送配電の国有化』を前提にした発送電分離が望ましい。

5.電力料金の「総原価方式」の廃止
  
 日本の電力料金は、「総原価方式」で決定されている。発電原価に一定の利益率を乗じて電力料金を決定するため、発電原価が高いほど利益金の金額は増大する。

この様な仕組みでは、発電原価低減の意欲が出てくるはずがない。発電原価高騰の種探しに没頭することになる。
東日本大震災(2011年3月11日)以降、日本の原子力発電所は順次にすべて停止させられ、火力発電用の燃料輸入が急増した。

               2010年    2011年    2012年    2013年
貿易収支:億$      909.2    -202.8     -728.5    -1,090.2

日本の電力会社は、数年分の原子力発電所用の核燃料のストックを持ちながら、原子力安全委員会(2012年9月19日から原子力規制委員会)の下命に従順に対応し、全く痛痒を感じないのである。
発電原価の高騰は、会社の収益拡大に繋がり、むしろ大歓迎すべき事象となってしまう。
こんな仕組みは、早々に廃止すべき制度であろう。

もう一つの問題点は、各電力会社が地域独占の事業形態になっていることである。
地域独占と総原価方式は、表裏一体の関係となっている。地域独占であるために、電力料金の歯止めとして、総原価方式が採用されていると考えてよい。

送配電の国有化』とともに、発電の自由化実施し、電力会社の地域独占を廃止しなければならない。
これは長年に亘って築かれてきた各電力会社の存立基盤を揺るがす話で、実現は容易ではない。しかしこれを何としてでも実現しなくては、日本の電力体系の近代化は進まず、世界の趨勢から取り残されてしまう。

6.フランス電力会社(EDF:Electricite de France)

1946年 国有会社「フランス電力公社」を設立。2004年以降 株式を公開し民間会社となった。但し過半の株は、フランス政府が保有している。
ユーロ圏内では電力の自由化が行われているが、EDFはその中では突出したシェアーを持っている。恐らく世界最大級の電力会社である。

世界国別総発電量ランキング(2012年)

①中国        4.768317       兆kwh
②アメリカ       4.047766
③インド        1.052499
④ロシア       1.012476
⑤日本        0.966426
⑥カナダ       0.616211
⑦ドイツ        0.585224
⑧ブラジル       0.573613
⑨フランス      0.533324
⑩韓国        0.499672

EDFは、0.640兆kwh程度の総発電量であり、内0.158兆kwh 程を輸出している。
EDFは、電力自由化の進んだ他国の電力会社の株式取得に熱心であり、諸外国の電力会社を傘下に置く、多国籍企業となっている。
以上

2015年6月12日金曜日

戦争学概論・『日本の戦争・後編』

1.仏印進駐(1940・1941年)

1939年5月 ドイツ・イタリア軍事同盟が結ばれ、5月10日 ベルギー・オランダに対しナチスドイツの電撃作戦が』開始された。(第2次世界大戦)
オランダは14日降伏し、ベルギーは28日降伏した。
ドイツ軍がドーバー海峡に達したのは、19日である。イギリス軍はダンケルクからの総撤退作戦を行い、重装備兵器のことごとくを放棄して、34万人の兵の撤退に成功した。ドイツ軍のダンケルク制圧は6月5日である。

フランスは6月10日パリの無防備都市宣言を行い、政府をボルドーに移した。イタリアは同日イギリス・フランスに対し宣戦布告を行った。
フランスは、6月21日 ドイツ・イタリアに降伏した。

この様なヨーロッパ情勢の下で、1940年8月末に、日本・フランス間で「フランス領インドシナ」(現ベトナム・カンボジア・ラオス)に日本軍の駐留を認める協定ができた。
日本の狙いは、中国蒋介石政府への支援物資輸送ルートの遮断と南方資源(ゴム等)の獲得である。

2.日・独・伊 三国同盟

1940年9月27日 ベルリンにおいて締結された。

①日本はドイツ・イタリアのヨーロッパ新秩序建設について、指導的地位を認め尊重する。
②ドイツ・イタリアは、日本の大東亜新秩序建設について、指導的地位を認め尊重する。
③新しく敵にまわる国があれば、同盟国はあらゆる政治的・経済的・軍事的方法で相互援助する。

要するに、「ヨーロッパと東南アジアで、お互いやりたいことをやろう。アメリカが首を突っ込むのは止めさせたいね」と言っているだけである。しかしアメリカは、首を突っ込んできた。

3.アメリカの軍備増強と対日経済制裁

アメリカは1941年度会計(40/7/1 ~ 41/6/30)で軍事費支出を飛躍的に膨張させた。また9月16日には、選抜徴兵法を成立させた。
対日経済制裁は、1940年半ば以降本格化し、重要戦略物資が次々と輸出許可制品目に指定されていった。
1941年7月28日 日本軍が南部フランス領インドシナに進出して、虎の尾を踏んでしまったようである。アメリカは「在米日本資産の凍結(7/25)・石油の対日輸出全面禁止(8/1)」を行った。

ここに及んで日本は、解決しがたい難問題を抱え込んでしまった。日中戦争を勝ち抜くには、今後も膨大な戦費が必要である。戦費調達と軍事物資入手には『アメリカとの貿易が不可欠』であった。
このまま推移すればじり貧に追い込まれ、滅亡の道しか残らない。
問題はアメリカの当面保有する戦力が、太平洋・大西洋の両洋で同時に戦えるだけの戦力であるか如何かの問題に帰着する。

当時の日本政府は、第3次近衛文麿内閣(1941/7/18 ~ 10/18)であった。近衛は中国からの撤兵も視野に入れた日米首脳会談を模索したようであるが、10月2日米国は会談拒否を通告してきた。
近衛内閣の陸軍大臣であった東条英機は、閣内で「総辞職」か「開戦」を主張し、近衛内閣は10月16日総辞職した。

この後を東条英機内閣が引き受け、起死回生・乾坤一擲・一か八かの大博打 の太平洋戦争に直走った。

4.太平洋戦争(1941/12/8 ~ 1945/9/2)

太平洋戦争は、日本時間12月8日 ハワイ州オアフ島の真珠湾奇襲攻撃で開始された。
開戦当初の日本の海軍力は、アメリカの太平洋艦隊を上回っていた。陸軍はフランス領インドシナから出兵し、マレー半島に快進撃を続けていった。
戦局の転換点は、1942年6月に行われた『ミッドウェー海戦』である。この海戦で大敗し、主力空母4隻を失い、搭載航空機・ベテランパイロットが海に消えた。
以降日本軍は制空権・制海権を少しづつ失ってゆき、じり貧で後退を続けていった。
沖縄戦は1943年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月20日頃終結した。

1945年3月硫黄島(東京都小笠原村)が陥落した。その後此処から発進するB29爆撃機による絨毯爆撃(焼夷弾)により、日本中の主要都市が次々に焼け野が原にされていった。

1945年8月6日広島に原子爆弾(濃縮ウラン)が投下され、9日長崎にプルトニウム爆弾が投下された。広島・長崎合わせて約30万人の無辜(むこ)の市民が虐殺された。
日本降伏直後、アメリカ軍は広島にABCC(Atomic Bomb Casualty Commission:原爆傷害調査委員会)を作った。ここは被害者の身体被害の大きさは調べるが治療はしなかった。(治療法を知らなかった。)要するに原爆の威力を調べるだけが目的であった。

4月28日イタリア社会共和国ムッソリーニ総統がパルチザンにより処刑され、4月30日ナチスドイツのヒットラー総統は、地下壕で自殺した。5月以降は、日本だけが連合国の総攻撃を受けることとなった。

7月26日 アメリカ・イギリス・中華民国の連名で、ポツダム(ベルリン郊外)宣言が出された。ソ連は『日ソ中立条約』(1941-1946年)により、不参加。
ポツダム宣言の要旨は下記である。

①日本に降伏を勧告する
②3ヶ国は、日本が降伏するまで徹底的に戦う。
③ドイツが完璧に叩かれたのを知っているだろう。
④軍国主義者の指導を捨て、理性の道を選ぶべきだ。
⑤条件は以下に示す。譲歩・遅滞は認めない
⑥戦争犯罪者は処分する
⑦新秩序が実現するまで、日本国を占領する。
⑧カイロ宣言は履行され、日本の領土は本州・北海道・九州・四国と小諸島に限定する。
⑨日本軍は武装解除する。
⑩戦争犯罪者処罰と民主主義復活を行う。言論・宗教・思想の自由と人権の確立。
⑪日本の経済復興・生産手段の保有を認め、将来は国際貿易の復帰も認める。
⑫日本国民の自由意思による、平和政府の樹立を求める。諸条件達成後、占領軍は撤退する。
⑬即時 無条件降伏を宣言すること。それ以外は破滅するだけである。

日本はソ連(中立条約)を頼り、仲介を依頼したようであるが、梨の礫(つぶて)で全く無為な時間(19日間)を浪費した。

8月14日 日本国はポツダム宣言受諾を通告した。
15日正午 敗戦を告げる昭和天皇の玉音放送が行われた。
9月2日 東京湾内のアメリカ戦艦ミズーリーの甲板上で、日本政府代表と大本営代表が降伏文書に署名した。これにより日本降伏が正式に文書で固定された。

無謀な太平洋戦争の代償は、巨大であった。日本の戦闘員死者約1,700,000人・軍属死者約400,000人・国内民間人死者(原爆とその他の都市)400,000人以上と推定される。

アメリカ戦闘員死者約355,000人・イギリス人戦闘員死者約87,000人・中華民国戦闘員死者約1,500,000人・中華民国民間人死者約17,000、000人程度と推定される。

太平洋戦争敗戦から後の 70年間、日本国は戦争を放棄し平和憲法を守り続けて、世界平和に努力している。
以上

2015年6月10日水曜日

戦争学概論・『日本の戦争・中編』

1.第1次世界大戦(1914~1918年)

ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアの中央同盟軍とイギリス・フランス・ロシアの連合軍との間で戦争が始まった。
戦争のきっかけは、1914年6月28日 オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビア国サラエボ(現在のボスニア・ヘルチェゴビナの首都)で暗殺されたことによる。

オーストリアは、7月23日 2日間の猶予期限付きで10か条の最後通牒を発した。10か条の内容は、セルビア内での「反オーストリア活動の禁止・弾圧」・「犯人逮捕・尋問」「前記2者にオーストリア政府機関を参加」等である。
セルビアが司法手続きに関するオーストリアの関与を拒否したため、世界大戦の引き金が自動的に引かれてしまった。後は各国の軍事同盟の配線に従って信号が伝わり、全世界が戦争に巻きこまれていった。

日本は日英同盟により、8月23日宣戦布告し連合国側で参戦した。
中国の山東半島の付け根に青島(チンタオ)と言う都市がある。ここにドイツ軍の要塞があり、ドイツ東洋艦隊の基地となっていた。会戦とともに、主力艦は東回りで本国帰還を目指したが、アルゼンチンの近くフォークランド沖でイギリス艦隊と遭遇し壊滅した。

青島のドイツ軍要塞への攻撃は、10月31日から開始され、イギリス陸海軍との共同作戦で行われた。この時ドイツ軍は、飛行機による日本軍の偵察を行っていた。日本軍は空中戦を挑んでみたが、成果は得られなかった。
日本陸軍はドイツ軍要塞に重砲弾の雨を降らせ、ドイツの要塞砲を沈黙させ、11月7日青島要塞は陥落した。
日本海軍は、南洋諸島(現在のパラオ共和国・ミクロネシア連邦・マリアナ諸島)のドイツ軍基地の攻撃を行った。

ロシアは、1917年の二月革命でニコライ2世皇帝が退位し、共産革命の坩堝と化した。共産政府はドイツ軍と講和し、ドイツ軍は安心して西部戦線に集中できるようになった。
アメリカの参戦は、1917年4月6日である。総兵力210万人のアメリカ軍の登場で、西部戦線の均衡が崩れていった。

1918年11月11日 連合国とドイツの休戦協定が締結され、第1次世界大戦は事実上終結した。最終的な講和は、1919年6月28日のヴェルサイユ条約により完了した。
この戦争の特徴は、潜水艦・飛行機・戦車・毒ガス(塩素ガス)の登場である。
潜水艦はドイツで発明され、U-Boot と呼ばれた。Uボートにより、商船5千隻余りが撃沈されている。
飛行機は両軍ともに偵察用に使用しただけで、空中戦は成立しなかった。
キャタピラーで走る戦車はイギリスで発明され、Mark I 型戦車が実際の戦闘に参加した。投入した49基のうち、戦闘に参入できたのはわずか数基であり、大きな効果はなかった。当時戦車を『タンク』と呼んだのは、イギリスの『戦車開発プロジェクト』の秘密名称が「Tank Supply :水槽供給 委員会」であったからである。
毒ガスは、ドイツ軍が使用した。風向きがドイツ軍 ⇒ 連合軍 の時を見計らって、高所から塩素ガスを放出した。

第1次世界大戦の終了により、ドイツ領だった南洋諸島は日本の「信託統治領」となった。

2.満洲国(南は朝鮮半島に接する中国東北部)

1912年1月1日 中國大陸に孫文が中華民国を建国した。清朝12代最後の皇帝・愛新覚羅溥儀
(あいしんかくらふぎ:アイシンジュエルオ・プーイー)は、1912年2月12日退位した。
その後袁世凱が、中華民国の大統領となったが、孫文は中国国民党を作って袁世凱と対立した。孫文亡き後、蒋介石(1887~1975年)が後継し、北伐を行った。
この時南京事件(1927年3月)を起こしている。軍人・民衆の一部が反帝国主義を叫び、南京に在った日本を含む外国領事館と外国人居留地を襲い、外国人に対し暴行・略奪などの大変な残虐行為を行っている。

1931年9月18日 日本関東軍の謀略により、柳条溝事件が発生した。日本国が権益を持つ南満州鉄道の爆破事件である。場所は中国東北部の瀋陽(シャンヤン)市付近である。関東軍は中国軍の犯行と発表したが、関東軍の自作自演の爆破であった。
これを契機として、関東軍は満州事変へと戦争を拡大し、満鉄沿線の主要都市から中国軍をことごとく駆逐し、これらの都市を占領した。(1931/11~1932/02)

関東軍は、1932年3月『満洲国』建国を宣言し、清朝最後の皇帝溥儀を満洲国の執政とした。
当時の日本国の犬養内閣は、満洲国不承認の方針であったが、5・15事件で総理大臣犬養毅が海軍将校たちによって暗殺された。続く斎藤實(海軍大将)内閣では、軍の圧力や世論に押されて1932年9月 日満議定書で満洲国を承認した。

中華民国の大統領蒋介石は、柳条溝事件を国際連盟に提訴し、国際連盟からリットン調査団が派遣された。
調査団の報告書は、「①満洲は中国の一部であるが、②満洲の自治政府建設について『日・中新協定の締結』を提案」する勧告であった。

国際連盟総会(1933年2月24日ジュネーブ)の議決結果は、賛成42国・反対1国(日本)・棄権1国(シャム:現タイ国)投票不参加1国(チリ)であった。これを不服として、日本は国際連盟を脱退した。
残された道は、太平洋戦争へと続く孤独な道を、独り寂しく歩むだけとなってしまった。

3.中華民国(1921年~)

1912年1月1日 中国の国家として設立宣言を行った。初代大統領は孫文(1866-1925年)である。その後袁世凱が大統領として、北京政府(1912-1928年)を樹立した。
これに対し孫文は1919年 中国国民党を創設し、1921年 中華民国政府を広州で立ち上げた。

孫文の後継者蒋介石は、1926年7月1日北伐宣言を発し、中華民国軍は北京政府打倒に向かった。1927年3月下旬、北伐軍は上海・南京に入城し、中華民国政府を南京で樹立した。この時民族主義を掲げ、共産主義者の弾圧・排除を行った。
1928年6月8日 蒋介石の北伐軍は北京に入城し、北京政府は瓦解した。9日北伐完了を宣布し、中国は中華民国として統一された。

その後日中戦争により日本の侵略を受け、首都を重慶(じゅうけい:チョンチン)に移し、太平洋戦争(第2次世界大戦)の終了を迎える。
その後毛沢東の率いる中国共産党軍に追われ、台湾に逃れ、台北を中華民国の首都とした。(1949年12月)

4.日中戦争(1937~1945年)

日中戦争は、盧溝橋事件がきっかけである。盧溝橋は、北京市南西15km程の所にある盧溝河(永定河)に架かる、美しい橋である。
盧溝橋東北の荒れ地で夜間演習を行っていた日本軍に対して、1937年7月7日 中国軍が発砲してきた。

日本軍が、北京郊外まで派兵している根拠は、1901年9月7日 締結された「北京議定書」である。これは日本国を含む列強諸国が、清国に対して強制した全くの不平等条約であった。
海岸から北京までの自由通行を阻害しないために、この間の各地点を列強が占領する権利を認める。と言うのがその一つである。
これに基づき、列強の軍が駐留していた。日本軍4千人・フランス軍2千人・アメリカ軍千人・イギリス軍千人程度の他、イタリア軍もいた。日本人居留民1万7千人・外国人居留民1万人程度である。

中華民国政府は、盧溝橋事件の現地決着を認めず抗日武力行使を決定し、戦線は拡大して日中全面戦争に突入した。戦線が最大に拡大したのは、1938年10月頃である。
北は満洲国を擁し、西方では天津・北京の領有はもちろん、太原・洛陽あたりまで進出しており、長江(揚子江)流域では、武漢まで進出していた。
中華民国蒋介石総統は、重慶を首都として抗日戦を続けた。

5.ノモンハン事件(1939年5月11日~31日:6月17日~8月31日)

満洲国を作った日本は、1930年代にモンゴル・ソ連と国境線をめぐる幾多の紛争に悩まされた。1939年には紛争件数200件程度にまで達した。その最大のものがノモンハン事件である。

第1次ノモンハン事件では、日本・満洲軍2千人余り、ソ連・モンゴル軍1,500人程度の戦闘であった。日本陸軍の九七式戦闘機は圧倒的に強く、ソ連機を数十機を撃墜している。
第2次ノモンハン事件では、圧倒的な物量のソ連軍の攻撃により、日本軍は「ソ連の主張する国境線」外に叩き出されてしまった。
日本軍は6万人程度出動したが、戦死・戦傷・戦病で約2万人が戦線を離脱している。九七式戦闘機に対しても、ソ連は「ドッグファイト」を避けて、『一撃遁走』戦術を採用し、日本戦闘機に損害が出てきた。
これにより、関東軍の北進政策は完全に行き詰まって、放棄せざるを得なかった。
以上

2015年5月7日木曜日

戦争学概論・『日本の戦争・前編』

最近、社会科学の分野に、「戦争学という学問がないのが不思議である。」と思うようになった。社会科学の分野で「政治学」・「法律学」・「経済学」と肩を並べて、『戦争学』と言う分野があるべきだと思うのである。
国家民族戦争とは何かを研究し、何故人類は「全ての時代」・「色々な地域」で戦争を重ねて来たかを、学術的に研究する学問分野を切り開かねばならない。
本文は、戦争学概論・『日本の戦争・前編』として、神功皇后の朝鮮出兵から大韓帝国合併までを記述した。

戦争学は、戦争術を研究するわけではない。しかし戦術本「孫子」は、戦争学の古典としてもきわめて示唆に富む必読の書であると思う。
「戦争は国家の一大事であり、生死・存亡の分かれ道となる。戦争を論ずるとき、を検討しなければならない。」と説いている。

①道とは、国民全てが上下一体となって、生死を共にすると信ずることである。
②天とは、季節・気候・時間である。
③地とは、場所である。遠近・険易・・高低である。
④将とは、智・信・仁・勇・厳である。
⑤法とは、曲制・官道・主用である。

これらについての敵味方の長短を比較検討しなければならない。これは将軍であれば誰でも知っていることだが、理解が深いほうが勝ち浅いほうが負ける。

「孫子」は戦争の勝ち方を教える戦術教本であるが、決して好戦的ではない。
「百戦百勝」善の善に非ず、戦わずして敵兵を屈するのが善の善であるとしている。城攻めは下の下で、上兵は謀略で城を落とす。

我が戦争学の課題としては、勝ち方も大切であるが、負け方も同等以上に大切である。の『』を究めるべきである。
細かい議論は省略し、戦争学では「始まり方」と「終わり方」の研究が大切である。この観点から概論では「始まり方」と「終わり方」に注目して、日本の戦争の歴史を眺めてみることにした。

1.神功皇后の朝鮮出兵(201年)

神功皇后は、第14代仲哀天皇の后である。仲哀天皇急死(200年)後、201~269年神功皇后が日本の国事をつかさどった。

皇后は、201年朝鮮半島に出兵した。馬韓(百済)・弁韓(任那・加羅)・辰韓(新羅)は戦わずして、日本に朝貢を約した。
武威により、朝鮮半島南部の国々に『朝貢』条約を結ばせた、と考えられる。以降これらの国々は、日本の友好国となった。

神功皇后は、後の応神天皇を懐妊されたまま、自ら兵を率いて朝鮮半島に出征している。日本書紀によれば、住吉大神の神託に基づく出兵である。住吉大神は海・航海の守護神であり、当時の朝鮮半島情勢の情報をたくさん持っていたと考えてよい。

2.白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)

朝鮮半島の百済王朝の頽廃を覗って、660年3月 唐が百済を侵略し、百済は滅亡した。その後  地元で「百済再興運動」が起こり、日本に救援を求めて来た。唐の百済侵略に対する日本のリターンマッチが、この戦争である。
場所は全羅北道(チョルラ・ブクト)群山(クンサン)市付近、錦江(クムガン)の河口、朝鮮半島西海岸、北緯36度付近である。

633年 唐・新羅軍18万 vs  日本・百済軍4万7千。
多勢に無勢で、日本・百済義勇軍は大敗した。この敗戦により、日本は朝鮮半島のすべての権益を失ってしまった。

3.刀伊の入寇(といのにゅうこう)

1019年 満洲の女真(じょしん)族約3,000人が、壱岐・対馬を襲い筑前に進攻してきた。壱岐・対馬で日本人約200人が虐殺され、約1,500人が拉致された。

筑前大宰府の藤原隆家に撃退され、刀伊は対馬経由で高麗に逃れた。高麗でも海賊行為を行ったが撃退され、日本人拉致被害者の内約270人が救出された。

4.元寇(1274・1281年)

元は1271~1368年 中国とモンゴル高原を支配した王朝である。元は日本に対し服属を求めてきたが、鎌倉幕府は断固拒否した。
1274年 元・高麗(こうらい:936~1392年朝鮮統一王朝)軍が、大宰府に襲来したが撃退した。(文永の役)
1281年 再度 元・高麗軍が日本攻撃を試みるが、失敗した。(弘安の役)

5.豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592・1593年,1597年)

日本統一を果たした豊臣秀吉は、呂宋(るそん:フィリピン)高山国(台湾)に朝貢を促す使者を派遣している。呂宋・高山国には朝貢できるような「国家統一機構」は存在せず使者は空しく帰国した。
朝鮮に対しては、『中国(明王朝)に出兵するので道案内せよ』と申し入れた。

当時の朝鮮は、李王朝(1392~1910年)が支配しており、朝鮮側は日本の申し出を拒絶した。李王朝は明国の属国であった。
李王朝の初代・李成桂(イ・ソンゲ)は、明の初代皇帝・洪武帝から、李王朝統治国に「新国名」をつけることを推奨された。李成桂は熟慮を重ね、「朝鮮」・「和寧」の二つを選び洪武帝に最終選択を委ねた。弱者の知恵で、巧みな外交術を用いたと言える。
かくて朝鮮の地域範囲とその名称が確定するとともに、『朝鮮』が明国の属国であることも確定した。

1589年 秀吉の命により、対馬領主・宗義智が自ら朝鮮に渡り、朝鮮の通信使の来日を要請した。1590年11月、朝鮮の通信使は京都・聚楽第で豊臣秀吉と接見した。この時秀吉は、明国への出兵を宣言し「朝鮮は道案内せよ」と命じたのである。勿論、通信使はこの命令を拒否した。豊臣秀吉は、対明侵略戦争の意思表示のために通信使の来日を要請したのである。万事において、準備・手配りに用意周到な秀吉の事である。日本の国力・戦力の充実ぶりを、朝鮮通信使に知見・浸透させるための配慮は存分に行っていたと推量する。

1591年6月、対馬領主・宗義智が自ら朝鮮に渡り、明国との国交の回復と和平の仲介を朝鮮に依頼したが、何の回答も得られなかった。通信使の報告と今回の依頼との間に隔たりが大きく回答に窮したのである。
当時の李王朝は、かなり頽廃していたようである。戦争忌避の気分に支配されていながら、積極的な行動は何もできなかった。要するに布団をかぶって震えていただけである。いずれ明が助けに来てくれると信じていたのであろう。

しかし秀吉も、和・戦を天秤に掛けていた節がある。無理な戦争は避けるのが、秀吉の真骨頂である。朝鮮の朝貢は求めるかもしれないが、明とは対等関係での和平を考えていたに相違ない。
朝鮮通信使を通じて、日本の国力・戦力の充実ぶりを散々見せつけて置いての、和平提案である。『君子豹変す』であった。しかし不幸にも英傑の読みは当たらず、世俗は大混乱して正しい反応ができなかった。

宗義智から、「朝鮮無回答」との報告を受けて、天秤の針は大きく戦争に傾き、世界史上(当時)最大の国際戦争に突入してしまった。日本軍約16万人・明-朝鮮軍約25万人の戦争である。

1592年4月13日 日本軍は、釜山攻撃を開始した(文禄の役)。首都漢城(現在の京城:ソウル)は5月3日陥落し、7月24日 平壌(ピョンヤン)も陥落した。
当時の日本は、火縄銃50万丁程度を保有し、戦場での組織的使用に熟達していた。世界最強の火力兵器を持つ軍隊であった。
ほぼ朝鮮全土を制圧し、李朝の王子を捕縛したが、明の援軍が来るに及んで平壌の北方で戦線が膠着した。

漢城の食糧庫を焼かれて兵糧不足の心配が出て来た日本軍は、講和交渉を開始し1593年4月に下記の条件で和議を成立させた。

①日本軍は朝鮮王子を返還する。
②日本軍は釜山まで撤退する。
③明軍は開城まで撤退する。
④明から日本に使節を派遣する。

これは全くの偽りの講和であった。双方の交渉担当者の、身勝手な報告は聞くに堪えない話である。双方とも『相手が降参した』と報告している。
日本側は、交渉担当者が秀吉の了解も得ず勝手に『関白降表』と言う虚偽の降伏文書を作り、明側に渡していた。
したがって1596年9月に来日した明の使者は、日本国王の称号と金印を携えて来た。当然ながら、明の使者と謁見した秀吉は激怒した。

1597年2月 朝鮮再出撃命令が出された(慶長の役)。全羅道(ぜんらどう:チョルラド)・忠清道(ちゅうせいどう:チムチョンド)・慶尚道(けいしょうどう:キョムサンド)など朝鮮南部を占領し、築城して確保せよ、と言う命令である。
慶長の役は、秀吉の他界により全軍総撤退となり、敗退した。

6.日清戦争(1894・1895年)

明治27・28年 に行われた、李氏朝鮮の権益をめぐる戦争である。
1876年 日本は日朝修好条約を結び、平和外交を行っていた。1894年6月 朝鮮農民の内乱鎮圧のため、清国と日本は朝鮮出兵を行った。日本は、朝-露の接近を恐れ、朝鮮への影響力確保を目的とした出兵である。
同年8月 日本は清国に対し宣戦布告を行った。目的は2つである。朝鮮半島における清国の権益を排除することと、ロシアの朝鮮進出を排除することである。この目的はほぼ達成され、李氏朝鮮は清国の支配下を脱した。朝鮮の洪武帝は、国号を「大韓帝国」(1897~1910年)とした。

1897年4月講和条約を結び、日本は遼東半島(黄海と{渤海:ぼっかい}を区切る半島)と台湾・澎湖列島を領有することになった。
ロシア・ドイツ・フランスが、突如として遼東半島の返還を要求してきた(三国干渉)。日本は臥薪嘗胆(がしんしょうたん)して、返還に応じた。

7.日露戦争(1904年2月8日~1905年9月5日)

1897年 遼東半島南端の旅順港に、ロシヤ太平洋艦隊が強行入港した。翌年3月 ロシアは、清国から旅順・大連を租借し、太平洋艦隊の基地にした。
1900年清国の義和団の内乱に乗じ、ロシアが満州に出兵したまま居座ってしまった。このロシアの意図に懸念を抱いたイギリスは、日本との同盟を考え1902年1月30日 日英同盟を締結した。

横手慎二氏(慶應義塾大学法学部教授)によれば、日露戦争は『第0次世界大戦』であったとされている。近代国家における総力戦争を「一言」で言いえており、全く同感である。
この戦争を日本側から見れば、始める時期や『止める時期・止め方』まで熟慮した、考えに考え抜かれた戦争であった。日本国としての身の程を心得た戦争であった

強大なロシア帝国が、日本との戦争を避ける理由は全くなかったが、日本帝国にとっては、シベリヤ鉄道の開通(1904年9月)前に決着を着けておきたかった。
1904年2月10日 日本帝国は、対ロシアの宣戦布告を行っている。しかしそれより2日前に朝鮮西海岸仁川(インチョン)に日本軍が上陸し、ロシアの巡洋艦と砲艦に攻撃を行っている。

1905年5月27日 日本の連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊を日本海海戦において壊滅させ、戦争をやめる好機を掴んだ。
イギリス・アメリカの斡旋により同年9月5日(日本時間)ポーツマス条約を結び、日露戦争は終結した。

8.韓国合併(1910年8月29日)

日清戦争の結果、朝鮮は念願の独立を果たし1897年10月 大韓帝国が誕生した。
ロシアは遼東半島の旅順を租借し、極東に不凍港を得て満足したようである。旅順の要塞化と旅順艦隊の維持が当面の最大の関心事となっていた。1894年3月 軍事・民事のロシア人指導者は朝鮮から全て引き上げてしまった。
これに伴って、大韓帝国に対する日本の影響力が次第に強力になっていった。
1904年8月 第1次日韓協約を締結した。この時は日露戦争中であり朝鮮は事実上日本の占領下にあった。この協約で日本の役人を大韓帝国の外交・財政の顧問にすることになった。
日露戦争終結後、1905年11月17日 第2次日韓条約が締結された。これにより大韓帝国は事実上日本国の保護国になった。洪武帝は第2次日韓条約の無効を訴える電文を配ったようであるが、諸外国は問題にしなかった。

1910年8月29日 韓国併合に関する条約により、「大日本帝国大韓帝国を併合した。これは日本国による朝鮮半島の植民地化である。
以上
 






2015年4月2日木曜日

日本の呼び名

我が国の国名は、『日本国』と言う。「にほんこく」と言うのか、「にっぽんこく」と言うのか定かではない。どちらでも間違いではないようである。日本銀行券は、『NIPPON GINKO』と印刷している。
この他に「にっぽん」派は、NHK・日本テレビ・ANA・日本郵便・NTT等がある。
にほん」派は、JR東・JR西・JOC(日本オリンピック委員会)・日本航空・日本大学・日本相撲協会等である。

我が国は「日本国憲法」を持っているが、我が国が『日本国』と言う国名であることを定めた法律は、制定されていないようである。
ただし外務省が発行する旅券(パスポート)には、『日本国』と記載されている。

古事記(712年)や日本書紀(8世紀中頃)では、我が国の事を「豊葦原千五百秋瑞穂国:とよあしはらちいほあきのみずほのくに」と言っていた。しかし「日本書紀」の書名でも明らかなように、当時すでに『日本国』としての意識は、持っていたと考えてよいのではないかと推定する。

中国の文献に日本の事が最初に出てくるのは、「魏志倭人伝」である。280~297年頃西晋(せいしん)の陳寿(233~297年)が書いたものである。
「倭人在帯方東南大海之中依山嶋・・・」(倭人は、帯方の東南の大海中の山島にいる・・・)で始まる日本紹介文である。
三国時代(魏・蜀・呉:222~263年)を著述した中国の歴史書「三国志」の中の「魏書」の中に「魏志倭人伝」がある。
中国での日本の呼び名は、最初は「:ワ」であった。

江戸時代(1784年)筑前国那珂郡志賀島(福岡県福岡市東区志賀島)で金印が発見された。福岡藩の儒学者亀井南冥が、後漢書記載の金印であろうと同定した。
後漢書は後漢(25~220年)について書かれた歴史書で、南北朝時代(386~589年)の南宋で書かれたものである。
現在の金印の所有者は福岡市であり、金印は国宝となっている。金含有量95%程度の純金製で「漢委奴國王」と書いてある。「漢委奴」は、私には読めない字体の漢字である。福岡市博物館で保管・展示している。
現代の印は、押印した場合の朱肉部分で文字・印証を表している。しかし、この金印は凹凸が逆になっており、朱肉部分が背景となり空白部分で文字を表す方式になっている。

『日本国』をヨーロッパに初めて伝えたのは、イタリア人のマルコ・ポーロ(1254~1324年)で、「東方見聞録」として有名である。マルコ・ポーロは、ヴェネツィアから24年間の旅に出た。このうち17年間を中国に滞在したが、日本国には来ていない。当時の中国の王朝は(げん:1271~1368年)であった。元は日本侵略を試み、2度の元寇(1274年文永の役・1281年弘安の役)を行った。

当時の中国語の発音で、『日本国』を Cipangu または Chipangu と言ったらしい。これがヨーロッパに伝わって「Japan」となってしまった。
「東方見聞録」では、『ジパングの宮殿・民家は黄金で出来ている。人々は礼儀正しいが、人肉を食べる習慣がある。』等と『日本国』の人民にとって随分迷惑な話を述べている。

宋史は元代に編纂された正史である。托克托(トクト:1314~1355年)が編纂した。宋史の完成は1345年である。この中の「列伝第二百五十 外国七」に、流求国・定安国・渤海国・日本国・党項の記載がある。定安国は、渤海人が作った国。党項(タングート)は、チベット民族である。

宋史における『日本国』の記述は、、神武天皇をはじめとする歴代天皇の系譜を述べられている。また『其國多有中國典籍』と書いてある。
14世紀頃(鎌倉末期)には、日本が中国文献を多数保有していることを、中国が知っていたことには驚かされる。
また中国は、自国を『中国』と呼称していた事もわかって面白い。

高麗(コリョ)国(こうらい国:918~1392年)は、朝鮮半島を統一した国である。「コリョ」の発音から、「朝鮮」を英語で『Korea』と言う。
高麗史によると、1223年「倭寇金州」の記載がある。金州は遼寧省大連の辺りで、遼東半島のことである。遼東半島は、朝鮮の西海岸の北西直ぐ傍にある。日本の倭寇が中国領の遼東半島まで出向いて暴れまわっていた証拠となる。これ以降倭寇の被害がしばしば記載されている。
ただし高麗史の伝では、倭人は1~2割に過ぎず、残りの件は全て本国(高麗)人であるとしている。

倭寇の被害に手を焼いた高麗は、1389年朴蔵(ぼくい:パク・ウィ)を対馬に進攻させた。現在の韓国の海軍に「朴蔵」と言う名の潜水艦がある。ついでの話をすれば「安重根」と言う名の潜水艦も保有している。安重根は伊藤博文を暗殺した犯人の名前である。

閑話休題し本題に戻る。「後漢書の金印」や「魏志倭人伝」以降14世紀末頃まで、我が国の呼び名として『倭』がついて回っていたのである。
『倭』の音読みは「ワ」であるが、訓読みは「やまと」である。伊勢神宮の倭姫命は、「やまとひめのみこと」と訓読みする。
外国からは『』と呼ばれ、みずからは「やまと」と言い、正式文書では『日本』と記したと理解しておきたい。

15世紀に入ると、1401年室町幕府と明国の間で勘合貿易が開始された。貿易とは言うものの、実際は朝貢の形式となっていた。
日本から朝貢船が明の首都南京(1421年以降は北京)に朝貢品を運んでゆく。朝貢品を受け取った明は、返礼に沢山の土産品を持たせて返すのである。
この時、正規の幕府の朝貢使である証明として、予め明から室町幕府い与えられていた『勘合符(割符)』を持って行ったのである。勘合貿易は16世紀半ばまで150年間続けられた。

この間密貿易も色々行われた。安土桃山時代(1572~1603年)頃までは「南無八幡大菩薩」の幟を掲げた海賊船が、極東の海を闊歩していた。本来は密貿易が目的であるが、場合によっては海賊行為も行った。「八幡船」と呼ばれ恐れられていたようである。

明の時代には、台湾はどこの所領でもなかった。日本では「高山国」の名前で知られていた。日本統一を果たした豊臣秀吉は、「朝鮮:李氏王朝1392~1897年」・「高山国:台湾」・「呂宋:ルソン:フィリピン」に『朝貢を促す使者』を派遣した。朝鮮とは話がこじれて、二度に渡る朝鮮派兵を行っている。文禄(1592・1593年)・慶長(1597・1598年)の役である。
高山国には原田孫七郎が派遣された。台湾には倭寇や明海賊の基地はあったが、使書を渡すべき『国の統一機構』は見当たらず、原田孫七郎は空しく帰国した。

1625年台湾と澎湖諸島の領有をめぐり、明・オランダの紛争が勃発した。澎湖諸島は明・台湾はオランダで決着した。
オランダは、台湾にある「倭寇の基地」に対し貿易税10%の支払いを要求してきた。これに反発して浜田弥兵衛は、オランダの長官を襲撃する事件を起こしている。
この後1627年浜田弥兵衛は、先住民若干名を引き連れて帰国し、台湾に対する日本国政府(徳川幕府)の援助を求めて、三代将軍家光に謁見を許されている。
しかし残念ながら、1639年徳川幕府は鎖国してしまった。
以上
 

2015年2月12日木曜日

干支(かんし:えと)の話

今年は平成27年・皇紀2674年(神武天皇即位の年から数える)・西暦2015年である。「零式戦闘機:ゼロ戦」が出現してから、74年が経過している。私は齢傘寿(数え年80)を過ぎてしまった。
今年の干支は「乙・未」(きのと・ひつじ)である。

「えと」と言えば、通常は十二支の事を言う。十二支を下記に示す。



また十干(じっかん)も下記に示す。

  60年周期の干支表を下記に示す。


今から数えて29年後、2044年は「甲・子」(きのえ・ね)となる。

甲子園球場は、大正13年(1924年)3月11日起工式が行われた。もちろん甲子(きのえ・ね)の年である。
最初の名前は「阪神電車甲子園大運動場」である。
大リーグのホームラン王ベーブルース(1895~1948年:George Herman Ruth, Jr)が来日した時、「too large」と驚嘆させた「大運動場」であった。
1924年8月「全国中等学校優勝野球大会」が開催されている。これが現在の高校野球大会につながっている。当時の中等学校は5年制であった。
高等学校は大学予科相当であり、ナンバー・スクール(1高~6高)に入学できれば、どこかの帝国大学に間違いなく入学できた。

毎年十二支と十干を1つずつ進めるので、次の年2045年は「乙・丑」(きのと・うし)となる。60年目は「癸・亥」(みずのと・い)となる。61年目は再び「甲・子」となり還暦である。

「十二支」と「十干」を毎年ひとつずつ進めると、12と10の最小公倍数60が周期となって、繰り返されることになる。

紀元前17世紀頃、中国山東省(現在の安陽市付近)に殷いん(紀元前17世紀~紀元前1046年)の首都が有った。殷は「商・商殷」とも言われている。紀元前11世紀に「周」に滅ぼされた。
殷の時代には、すでに、日付、番号、数字等を表すのに干支が使われていたようである。

十二支に動物を割り当てたのは中国であるが、なぜこのような順番に動物を割振ったのか良く分からない。
中国では、最後が豚である。台湾は日本と同じように最後は猪である。ベトナムでは、水牛(牛)と猫(兎)がいる。

干支は年を表すだけでなく、昔は時刻や方位を表すことにも使われていた。
方位を表す場合は、が真北でありが真南である。真東がで、真西がである。
北東は「丑・寅」の境目で、うしとら)の字を当てた。南東をたつみ)、南西をひつじさる)、北西をいぬい)としていた。

時刻は、太陽の南中が正午であり、正午の前が午前、後が午後である。

昔は鐘を突いて時を知らせていた。
鐘を突く回数が少ないと、鐘の音に気付かぬ恐れがあるので、鐘は「四つ~九つ」突く仕組みになっていた。

  1.  子の刻;0時頃                           夜 
  2.  丑の刻:2時頃                           夜 八つ
  3.  寅の刻:4時頃                           暁(あかつき) 七つ
  4.  卯の刻:6時頃                           明 六つ
  5.  辰の刻:8時頃                           朝 五つ
  6.  巳の刻:10時頃                         朝 四つ
  7.  午の刻:12時頃                         昼 
  8.  未の刻:14時頃                         昼 八つ
  9.  申の刻:16時頃                         夕 七つ
  10.  酉の刻:18時頃                         暮 六つ
  11.  戌の刻:20時頃                         宵 五つ
  12.  亥の刻:22時頃                         夜 四つ
近松門左衛門(1653年~1724年)作の曽根崎心中では、遊女お初と醤油屋手代徳兵衛が心中(自害)するのであるが、『あれ数ぞふればの、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり』とある。
暁七つだから、寅の刻(午前4時頃)の心中であった。
以上