2010年1月20日水曜日

イランの核開発

 イランは、NPT発足当初からNPTに加盟している。従って定期的にIAEAの査察を受けながら、着実に核開発を進めてきている。
 1980年頃(イラン-イラク戦争勃発)から、イランはウラン濃縮実験を開始した。

 2006年4月イランの最高指導者アフマディー・ネジャード師は「核燃料サイクルに適合するウランの精製に成功した」と発表した。NPTは核技術の平和利用を禁止していないが、国連安保理は異常な過剰反応を起こし、2006年7月「イランの核開発中止を求める決議案」を採択した。勿論イランは馬耳東風で、2006年11月アフマディー・ネジャード師は「イランは完全な核燃料サイクル技術を獲得した。」と発表した。

 2008年9月「遠心分離機3800基を設置し、低濃縮ウラン480Kgを製造済み。」とIAEA報告。2009年3月「核爆弾1ヶ分の製造原料となる程度の低濃縮ウラン1 ton以上を確保した。」とIAEA報告。
 2009年9月イランは、新たに2ヶ所のウラン濃縮施設を建設中であるとIAEAに連絡した。これには米国オバマ大統領が鋭く反応し、「あらゆる選択肢を排除しない。」と軍事的手段の可能性を示唆する脅しを懸けてきた。
 イランの馬耳東風はさらに続き、2009年11月イランは10ヶ所の濃縮設備の新設を発表した。アメリカに敢えて「NO」と言い続けるイランの面目は、躍如たるものがある。

 順調に進むイランの低濃縮ウランの生産に不安を感じたIAEAは、イランで生産した低濃縮ウラン約1.2 ton をロシアで追加濃縮し、フランスで原子炉燃料に加工してイランに返還する計画を提案した。計画が実施されれば、イランの核兵器開発の懸念は当面回避することが出来る。2009/12/26の毎日新聞によれば、安保理常任理事国(米・英・仏・露・中)+独とイランの間でIAEA提案が協議されたが決裂した様である。

 イランの原子力発電所は、首都 Tehran の南方 1200 Km のBushehr にある。2009/02/25 模擬燃料による試運転を開始した。
 この原子炉はロシア政府の支援で、ロシア国営原子力企業ロスアトムにより建設された。ウラン燃料を装荷した本格運転は、2009年中に開始予定と報道されていたが、2010/01/20現在「本格運転開始」のニュースは未だ聞いていない。
 何れにせよ、ブシェール原発用の燃料製作のため、当分の間はイラン手持ちの濃縮ウラン全てが使用されるので、ここ暫くイランの核兵器保有の懸念は無いと思う。

 「産油大国イランに原子炉は不要である」と考えるのは「他国の論理」である。「電力は原子力で、石油は輸出用」と割り切るのがイランの論理である。産油国も地球温暖化防止のため原子力発電をやるべきだろう。

 しかし、残念ながらイランはいずれ核兵器を持つだろうと私は予想する。勿論アメリカもそのように予想するから、オバマ大統領がイランに脅しを懸けるわけである。
 
 イランの東隣国パキスタンインドと共に核兵器を保有している。イランの西隣国イラクは、国連査察団の詳細な査察で「大量破壊兵器を保持していない。」確認を得て、米国は安心してイラクに侵攻した。これ以降イラクは悲惨な泥沼の戦乱に引き摺り込まれ、未だ平和は訪れていない。
 このような厳然たる事実を前にして、イランが核兵器を持たないまま居続けるとは考えがたい。

 イランが核武装した場合に、最も脅威を感じるのはイスラエルであると思う。イスラエルの核保有が殆ど無意味に近くなるからである。
 1981/06/07イスラエルは、イラクの原子力センターを爆撃した。イラクの核兵器保有を懸念したからであろう。
 イランが核武装し、スカッドミサイルに搭載してイスラエルに打ち込めば、小さなイスラエルは壊滅してしまう。逆にイスラエルが数発の原爆をイランに撃ち込んでも、大きいイランは壊滅しない。 

2010年1月16日土曜日

アメリカとイランの確執

  アメリカの正式名称はアメリカ合衆国 United States of America である。
 イランの正式名称はイラン・イスラム共和国 Islamic Ripublic of Iran である。

 イランは石油輸出国機構 Organization of the Petoroleum Exporting Countries (OPEC) では第2位の産油国であり、天然ガスも極めて豊富でエネルギー資源には全く事欠かない豊かな国である。

 1970年頃のイランはパフラヴィー王朝の時で、「アングロ・イラニアン石油会社」が権益を持ち、米・英 国に牛耳られていた。したがって大きな確執はなかった様
である。ところが1979年のイスラム革命で折角の権益が雲消霧散し、米・英 国は
国外に叩出され、ホメイニ師によるイスラム共和国が誕生した。これにより米国とイランの間に長年にわたる抜差しならぬ確執の図式が始まった。
 翌年1980年9月、米国は強力に武器援助を行っていた西隣国のイラクのサダム・フセインを扇動しイラン-イラク戦争を勃発させた。ところが米国やサダム・フセインの思惑に反し、イランは予想外に強かった。世界中を敵に回して、最後まで戦い抜いたのである。
 この頃のイランは国際的には全く孤立無援であった。欧米諸国は勿論イラク支持であるが、イスラム諸国もイスラム革命の波及を恐れてこぞってイラク支持に回った。ソ連も連邦内のイスラム諸国への波及を恐れイラク支持の一方で、ドサクサに紛れて領土拡大の好機と見て、アフガニスタン侵攻を開始した。孤立無援のイランではあったが、戦死者の山を築きながらもイラクの侵略に耐えに耐え、国境線前後まで押し戻し1982年には膠着状態にまで持込んでいった。
 イラクの侵略に対し、国連はほとんど何もしなかったようである。国連が実際に動いたのは、7年後の1987年である。1987年7月国連安保理は即時停戦の勧告を決議した。両国がこれを受諾し、停戦が行われたのは1988年8月である。
 これで中東に平和が訪れると思いきや、何を血迷ったかサダム・フセインは1990年クウェートに侵攻し、米国の逆鱗に触れて湾岸戦争が勃発した。この時の国連の対応は素早かった。これ以来イラクは泥沼の戦乱に落ち込み、平和憲法の日本までイラク派兵させられたのであるから、気の毒でもあり迷惑でもあった。
 一方平和を勝ち取ったイランは、これ以来敢えて「NO」と言う反米路線を堅持しながら、富国強兵に努めている。1960年頃3,600万人程度であった人口も、2010年には7,000万人程度と見込まれ半世紀で倍増している。ただし今後の人口増加率は小さいと見込まれる。
 近年のアメリカとイランの確執は、イランの核開発である。イランの濃縮ウラン製造は順調に進んでいる様である。







2010年1月13日水曜日

核問題における NPT と IAEA

 核の問題を議論する場合、核拡散防止条約 Nuclear Non-Proliferation Treaty (NPT) と国際原子力機関 International Atomic Energy Agency (IAEA) を正しく理解して置く必要がある。

 NPT は、米・露・英・仏・中(国連安保理 常任理事国)を核兵器国、それ以外の国を非核兵器国としている。そして、非核兵器国は未来永劫非核兵器国であり続ける義務を負う不平等条約である。要するに 日・独 等高度の核技術力の国々が新規に核兵器国になるのを阻止する目的の条約である。
 この条約で、非核兵器国は核兵器の製造・取得を禁止され、IAEA による査察・保障措置が義務付けられている。
 核兵器国は「核軍縮交渉を行う義務」を負っており、交渉は確かに行われた。しかし核兵器配備数は幾許か減少したかも知れないが、保有数は減っていない。
 NPT は、1970年3月に発効し2008年12月での締結国は190ヶ国である。核兵器を保有しているインド・パキスタンは未加盟であり、保有を推定されるイスラエルも未加盟である。
 北朝鮮IAEAの査察を拒否し、1993年3月NPTからの脱退を宣言した。

 IAEA は、各国の原子力施設の査察を目的とした国際機関である。NPT加盟の非核兵器国は、IAEAの査察を受ける。
 2007年現在で加盟国は144ヶ国である。日本IAEA創立当初から指定理事国(13ヶ国)になっている。2009年12月モハメド・エルバラダイ事務局長の退任により、天野之弥氏が事務局長に選任された。