2015年6月12日金曜日

戦争学概論・『日本の戦争・後編』

1.仏印進駐(1940・1941年)

1939年5月 ドイツ・イタリア軍事同盟が結ばれ、5月10日 ベルギー・オランダに対しナチスドイツの電撃作戦が』開始された。(第2次世界大戦)
オランダは14日降伏し、ベルギーは28日降伏した。
ドイツ軍がドーバー海峡に達したのは、19日である。イギリス軍はダンケルクからの総撤退作戦を行い、重装備兵器のことごとくを放棄して、34万人の兵の撤退に成功した。ドイツ軍のダンケルク制圧は6月5日である。

フランスは6月10日パリの無防備都市宣言を行い、政府をボルドーに移した。イタリアは同日イギリス・フランスに対し宣戦布告を行った。
フランスは、6月21日 ドイツ・イタリアに降伏した。

この様なヨーロッパ情勢の下で、1940年8月末に、日本・フランス間で「フランス領インドシナ」(現ベトナム・カンボジア・ラオス)に日本軍の駐留を認める協定ができた。
日本の狙いは、中国蒋介石政府への支援物資輸送ルートの遮断と南方資源(ゴム等)の獲得である。

2.日・独・伊 三国同盟

1940年9月27日 ベルリンにおいて締結された。

①日本はドイツ・イタリアのヨーロッパ新秩序建設について、指導的地位を認め尊重する。
②ドイツ・イタリアは、日本の大東亜新秩序建設について、指導的地位を認め尊重する。
③新しく敵にまわる国があれば、同盟国はあらゆる政治的・経済的・軍事的方法で相互援助する。

要するに、「ヨーロッパと東南アジアで、お互いやりたいことをやろう。アメリカが首を突っ込むのは止めさせたいね」と言っているだけである。しかしアメリカは、首を突っ込んできた。

3.アメリカの軍備増強と対日経済制裁

アメリカは1941年度会計(40/7/1 ~ 41/6/30)で軍事費支出を飛躍的に膨張させた。また9月16日には、選抜徴兵法を成立させた。
対日経済制裁は、1940年半ば以降本格化し、重要戦略物資が次々と輸出許可制品目に指定されていった。
1941年7月28日 日本軍が南部フランス領インドシナに進出して、虎の尾を踏んでしまったようである。アメリカは「在米日本資産の凍結(7/25)・石油の対日輸出全面禁止(8/1)」を行った。

ここに及んで日本は、解決しがたい難問題を抱え込んでしまった。日中戦争を勝ち抜くには、今後も膨大な戦費が必要である。戦費調達と軍事物資入手には『アメリカとの貿易が不可欠』であった。
このまま推移すればじり貧に追い込まれ、滅亡の道しか残らない。
問題はアメリカの当面保有する戦力が、太平洋・大西洋の両洋で同時に戦えるだけの戦力であるか如何かの問題に帰着する。

当時の日本政府は、第3次近衛文麿内閣(1941/7/18 ~ 10/18)であった。近衛は中国からの撤兵も視野に入れた日米首脳会談を模索したようであるが、10月2日米国は会談拒否を通告してきた。
近衛内閣の陸軍大臣であった東条英機は、閣内で「総辞職」か「開戦」を主張し、近衛内閣は10月16日総辞職した。

この後を東条英機内閣が引き受け、起死回生・乾坤一擲・一か八かの大博打 の太平洋戦争に直走った。

4.太平洋戦争(1941/12/8 ~ 1945/9/2)

太平洋戦争は、日本時間12月8日 ハワイ州オアフ島の真珠湾奇襲攻撃で開始された。
開戦当初の日本の海軍力は、アメリカの太平洋艦隊を上回っていた。陸軍はフランス領インドシナから出兵し、マレー半島に快進撃を続けていった。
戦局の転換点は、1942年6月に行われた『ミッドウェー海戦』である。この海戦で大敗し、主力空母4隻を失い、搭載航空機・ベテランパイロットが海に消えた。
以降日本軍は制空権・制海権を少しづつ失ってゆき、じり貧で後退を続けていった。
沖縄戦は1943年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月20日頃終結した。

1945年3月硫黄島(東京都小笠原村)が陥落した。その後此処から発進するB29爆撃機による絨毯爆撃(焼夷弾)により、日本中の主要都市が次々に焼け野が原にされていった。

1945年8月6日広島に原子爆弾(濃縮ウラン)が投下され、9日長崎にプルトニウム爆弾が投下された。広島・長崎合わせて約30万人の無辜(むこ)の市民が虐殺された。
日本降伏直後、アメリカ軍は広島にABCC(Atomic Bomb Casualty Commission:原爆傷害調査委員会)を作った。ここは被害者の身体被害の大きさは調べるが治療はしなかった。(治療法を知らなかった。)要するに原爆の威力を調べるだけが目的であった。

4月28日イタリア社会共和国ムッソリーニ総統がパルチザンにより処刑され、4月30日ナチスドイツのヒットラー総統は、地下壕で自殺した。5月以降は、日本だけが連合国の総攻撃を受けることとなった。

7月26日 アメリカ・イギリス・中華民国の連名で、ポツダム(ベルリン郊外)宣言が出された。ソ連は『日ソ中立条約』(1941-1946年)により、不参加。
ポツダム宣言の要旨は下記である。

①日本に降伏を勧告する
②3ヶ国は、日本が降伏するまで徹底的に戦う。
③ドイツが完璧に叩かれたのを知っているだろう。
④軍国主義者の指導を捨て、理性の道を選ぶべきだ。
⑤条件は以下に示す。譲歩・遅滞は認めない
⑥戦争犯罪者は処分する
⑦新秩序が実現するまで、日本国を占領する。
⑧カイロ宣言は履行され、日本の領土は本州・北海道・九州・四国と小諸島に限定する。
⑨日本軍は武装解除する。
⑩戦争犯罪者処罰と民主主義復活を行う。言論・宗教・思想の自由と人権の確立。
⑪日本の経済復興・生産手段の保有を認め、将来は国際貿易の復帰も認める。
⑫日本国民の自由意思による、平和政府の樹立を求める。諸条件達成後、占領軍は撤退する。
⑬即時 無条件降伏を宣言すること。それ以外は破滅するだけである。

日本はソ連(中立条約)を頼り、仲介を依頼したようであるが、梨の礫(つぶて)で全く無為な時間(19日間)を浪費した。

8月14日 日本国はポツダム宣言受諾を通告した。
15日正午 敗戦を告げる昭和天皇の玉音放送が行われた。
9月2日 東京湾内のアメリカ戦艦ミズーリーの甲板上で、日本政府代表と大本営代表が降伏文書に署名した。これにより日本降伏が正式に文書で固定された。

無謀な太平洋戦争の代償は、巨大であった。日本の戦闘員死者約1,700,000人・軍属死者約400,000人・国内民間人死者(原爆とその他の都市)400,000人以上と推定される。

アメリカ戦闘員死者約355,000人・イギリス人戦闘員死者約87,000人・中華民国戦闘員死者約1,500,000人・中華民国民間人死者約17,000、000人程度と推定される。

太平洋戦争敗戦から後の 70年間、日本国は戦争を放棄し平和憲法を守り続けて、世界平和に努力している。
以上

2015年6月10日水曜日

戦争学概論・『日本の戦争・中編』

1.第1次世界大戦(1914~1918年)

ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアの中央同盟軍とイギリス・フランス・ロシアの連合軍との間で戦争が始まった。
戦争のきっかけは、1914年6月28日 オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビア国サラエボ(現在のボスニア・ヘルチェゴビナの首都)で暗殺されたことによる。

オーストリアは、7月23日 2日間の猶予期限付きで10か条の最後通牒を発した。10か条の内容は、セルビア内での「反オーストリア活動の禁止・弾圧」・「犯人逮捕・尋問」「前記2者にオーストリア政府機関を参加」等である。
セルビアが司法手続きに関するオーストリアの関与を拒否したため、世界大戦の引き金が自動的に引かれてしまった。後は各国の軍事同盟の配線に従って信号が伝わり、全世界が戦争に巻きこまれていった。

日本は日英同盟により、8月23日宣戦布告し連合国側で参戦した。
中国の山東半島の付け根に青島(チンタオ)と言う都市がある。ここにドイツ軍の要塞があり、ドイツ東洋艦隊の基地となっていた。会戦とともに、主力艦は東回りで本国帰還を目指したが、アルゼンチンの近くフォークランド沖でイギリス艦隊と遭遇し壊滅した。

青島のドイツ軍要塞への攻撃は、10月31日から開始され、イギリス陸海軍との共同作戦で行われた。この時ドイツ軍は、飛行機による日本軍の偵察を行っていた。日本軍は空中戦を挑んでみたが、成果は得られなかった。
日本陸軍はドイツ軍要塞に重砲弾の雨を降らせ、ドイツの要塞砲を沈黙させ、11月7日青島要塞は陥落した。
日本海軍は、南洋諸島(現在のパラオ共和国・ミクロネシア連邦・マリアナ諸島)のドイツ軍基地の攻撃を行った。

ロシアは、1917年の二月革命でニコライ2世皇帝が退位し、共産革命の坩堝と化した。共産政府はドイツ軍と講和し、ドイツ軍は安心して西部戦線に集中できるようになった。
アメリカの参戦は、1917年4月6日である。総兵力210万人のアメリカ軍の登場で、西部戦線の均衡が崩れていった。

1918年11月11日 連合国とドイツの休戦協定が締結され、第1次世界大戦は事実上終結した。最終的な講和は、1919年6月28日のヴェルサイユ条約により完了した。
この戦争の特徴は、潜水艦・飛行機・戦車・毒ガス(塩素ガス)の登場である。
潜水艦はドイツで発明され、U-Boot と呼ばれた。Uボートにより、商船5千隻余りが撃沈されている。
飛行機は両軍ともに偵察用に使用しただけで、空中戦は成立しなかった。
キャタピラーで走る戦車はイギリスで発明され、Mark I 型戦車が実際の戦闘に参加した。投入した49基のうち、戦闘に参入できたのはわずか数基であり、大きな効果はなかった。当時戦車を『タンク』と呼んだのは、イギリスの『戦車開発プロジェクト』の秘密名称が「Tank Supply :水槽供給 委員会」であったからである。
毒ガスは、ドイツ軍が使用した。風向きがドイツ軍 ⇒ 連合軍 の時を見計らって、高所から塩素ガスを放出した。

第1次世界大戦の終了により、ドイツ領だった南洋諸島は日本の「信託統治領」となった。

2.満洲国(南は朝鮮半島に接する中国東北部)

1912年1月1日 中國大陸に孫文が中華民国を建国した。清朝12代最後の皇帝・愛新覚羅溥儀
(あいしんかくらふぎ:アイシンジュエルオ・プーイー)は、1912年2月12日退位した。
その後袁世凱が、中華民国の大統領となったが、孫文は中国国民党を作って袁世凱と対立した。孫文亡き後、蒋介石(1887~1975年)が後継し、北伐を行った。
この時南京事件(1927年3月)を起こしている。軍人・民衆の一部が反帝国主義を叫び、南京に在った日本を含む外国領事館と外国人居留地を襲い、外国人に対し暴行・略奪などの大変な残虐行為を行っている。

1931年9月18日 日本関東軍の謀略により、柳条溝事件が発生した。日本国が権益を持つ南満州鉄道の爆破事件である。場所は中国東北部の瀋陽(シャンヤン)市付近である。関東軍は中国軍の犯行と発表したが、関東軍の自作自演の爆破であった。
これを契機として、関東軍は満州事変へと戦争を拡大し、満鉄沿線の主要都市から中国軍をことごとく駆逐し、これらの都市を占領した。(1931/11~1932/02)

関東軍は、1932年3月『満洲国』建国を宣言し、清朝最後の皇帝溥儀を満洲国の執政とした。
当時の日本国の犬養内閣は、満洲国不承認の方針であったが、5・15事件で総理大臣犬養毅が海軍将校たちによって暗殺された。続く斎藤實(海軍大将)内閣では、軍の圧力や世論に押されて1932年9月 日満議定書で満洲国を承認した。

中華民国の大統領蒋介石は、柳条溝事件を国際連盟に提訴し、国際連盟からリットン調査団が派遣された。
調査団の報告書は、「①満洲は中国の一部であるが、②満洲の自治政府建設について『日・中新協定の締結』を提案」する勧告であった。

国際連盟総会(1933年2月24日ジュネーブ)の議決結果は、賛成42国・反対1国(日本)・棄権1国(シャム:現タイ国)投票不参加1国(チリ)であった。これを不服として、日本は国際連盟を脱退した。
残された道は、太平洋戦争へと続く孤独な道を、独り寂しく歩むだけとなってしまった。

3.中華民国(1921年~)

1912年1月1日 中国の国家として設立宣言を行った。初代大統領は孫文(1866-1925年)である。その後袁世凱が大統領として、北京政府(1912-1928年)を樹立した。
これに対し孫文は1919年 中国国民党を創設し、1921年 中華民国政府を広州で立ち上げた。

孫文の後継者蒋介石は、1926年7月1日北伐宣言を発し、中華民国軍は北京政府打倒に向かった。1927年3月下旬、北伐軍は上海・南京に入城し、中華民国政府を南京で樹立した。この時民族主義を掲げ、共産主義者の弾圧・排除を行った。
1928年6月8日 蒋介石の北伐軍は北京に入城し、北京政府は瓦解した。9日北伐完了を宣布し、中国は中華民国として統一された。

その後日中戦争により日本の侵略を受け、首都を重慶(じゅうけい:チョンチン)に移し、太平洋戦争(第2次世界大戦)の終了を迎える。
その後毛沢東の率いる中国共産党軍に追われ、台湾に逃れ、台北を中華民国の首都とした。(1949年12月)

4.日中戦争(1937~1945年)

日中戦争は、盧溝橋事件がきっかけである。盧溝橋は、北京市南西15km程の所にある盧溝河(永定河)に架かる、美しい橋である。
盧溝橋東北の荒れ地で夜間演習を行っていた日本軍に対して、1937年7月7日 中国軍が発砲してきた。

日本軍が、北京郊外まで派兵している根拠は、1901年9月7日 締結された「北京議定書」である。これは日本国を含む列強諸国が、清国に対して強制した全くの不平等条約であった。
海岸から北京までの自由通行を阻害しないために、この間の各地点を列強が占領する権利を認める。と言うのがその一つである。
これに基づき、列強の軍が駐留していた。日本軍4千人・フランス軍2千人・アメリカ軍千人・イギリス軍千人程度の他、イタリア軍もいた。日本人居留民1万7千人・外国人居留民1万人程度である。

中華民国政府は、盧溝橋事件の現地決着を認めず抗日武力行使を決定し、戦線は拡大して日中全面戦争に突入した。戦線が最大に拡大したのは、1938年10月頃である。
北は満洲国を擁し、西方では天津・北京の領有はもちろん、太原・洛陽あたりまで進出しており、長江(揚子江)流域では、武漢まで進出していた。
中華民国蒋介石総統は、重慶を首都として抗日戦を続けた。

5.ノモンハン事件(1939年5月11日~31日:6月17日~8月31日)

満洲国を作った日本は、1930年代にモンゴル・ソ連と国境線をめぐる幾多の紛争に悩まされた。1939年には紛争件数200件程度にまで達した。その最大のものがノモンハン事件である。

第1次ノモンハン事件では、日本・満洲軍2千人余り、ソ連・モンゴル軍1,500人程度の戦闘であった。日本陸軍の九七式戦闘機は圧倒的に強く、ソ連機を数十機を撃墜している。
第2次ノモンハン事件では、圧倒的な物量のソ連軍の攻撃により、日本軍は「ソ連の主張する国境線」外に叩き出されてしまった。
日本軍は6万人程度出動したが、戦死・戦傷・戦病で約2万人が戦線を離脱している。九七式戦闘機に対しても、ソ連は「ドッグファイト」を避けて、『一撃遁走』戦術を採用し、日本戦闘機に損害が出てきた。
これにより、関東軍の北進政策は完全に行き詰まって、放棄せざるを得なかった。
以上

2015年5月7日木曜日

戦争学概論・『日本の戦争・前編』

最近、社会科学の分野に、「戦争学という学問がないのが不思議である。」と思うようになった。社会科学の分野で「政治学」・「法律学」・「経済学」と肩を並べて、『戦争学』と言う分野があるべきだと思うのである。
国家・民族・戦争とは何かを研究し、何故人類は「全ての時代」・「色々な地域」で戦争を重ねて来たかを、学術的に研究する学問分野を切り開かねばならない。
本文は、戦争学概論・『日本の戦争・前編』として、神功皇后の朝鮮出兵から大韓帝国合併までを記述した。

戦争学は、戦争術を研究するわけではない。しかし戦術本「孫子」は、戦争学の古典としてもきわめて示唆に富む必読の書であると思う。
「戦争は国家の一大事であり、生死・存亡の分かれ道となる。戦争を論ずるとき、道・天・地・将・法を検討しなければならない。」と説いている。

①道とは、国民全てが上下一体となって、生死を共にすると信ずることである。
②天とは、季節・気候・時間である。
③地とは、場所である。遠近・険易・・高低である。
④将とは、智・信・仁・勇・厳である。
⑤法とは、曲制・官道・主用である。

これらについての敵味方の長短を比較検討しなければならない。これは将軍であれば誰でも知っていることだが、理解が深いほうが勝ち浅いほうが負ける。

「孫子」は戦争の勝ち方を教える戦術教本であるが、決して好戦的ではない。
「百戦百勝」善の善に非ず、戦わずして敵兵を屈するのが善の善であるとしている。城攻めは下の下で、上兵は謀略で城を落とす。

我が戦争学の課題としては、勝ち方も大切であるが、負け方も同等以上に大切である。負の『道・天・地・将・法』を究めるべきである。
細かい議論は省略し、戦争学では「始まり方」と「終わり方」の研究が大切である。この観点から概論では「始まり方」と「終わり方」に注目して、日本の戦争の歴史を眺めてみることにした。

1.神功皇后の朝鮮出兵(201年)

神功皇后は、第14代仲哀天皇の后である。仲哀天皇急死(200年)後、201~269年神功皇后が日本の国事をつかさどった。

皇后は、201年朝鮮半島に出兵した。馬韓(百済)・弁韓(任那・加羅)・辰韓(新羅)は戦わずして、日本に朝貢を約した。
武威により、朝鮮半島南部の国々に『朝貢』条約を結ばせた、と考えられる。以降これらの国々は、日本の友好国となった。

神功皇后は、後の応神天皇を懐妊されたまま、自ら兵を率いて朝鮮半島に出征している。日本書紀によれば、住吉大神の神託に基づく出兵である。住吉大神は海・航海の守護神であり、当時の朝鮮半島情勢の情報をたくさん持っていたと考えてよい。

2.白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)

朝鮮半島の百済王朝の頽廃を覗って、660年3月 唐が百済を侵略し、百済は滅亡した。その後  地元で「百済再興運動」が起こり、日本に救援を求めて来た。唐の百済侵略に対する日本のリターンマッチが、この戦争である。
場所は全羅北道(チョルラ・ブクト)群山(クンサン)市付近、錦江(クムガン)の河口、朝鮮半島西海岸、北緯36度付近である。

633年 唐・新羅軍18万 vs  日本・百済軍4万7千。
多勢に無勢で、日本・百済義勇軍は大敗した。この敗戦により、日本は朝鮮半島のすべての権益を失ってしまった。

3.刀伊の入寇(といのにゅうこう)

1019年 満洲の女真(じょしん)族約3,000人が、壱岐・対馬を襲い筑前に進攻してきた。壱岐・対馬で日本人約200人が虐殺され、約1,500人が拉致された。

筑前大宰府の藤原隆家に撃退され、刀伊は対馬経由で高麗に逃れた。高麗でも海賊行為を行ったが撃退され、日本人拉致被害者の内約270人が救出された。

4.元寇(1274・1281年)

元は1271~1368年 中国とモンゴル高原を支配した王朝である。元は日本に対し服属を求めてきたが、鎌倉幕府は断固拒否した。
1274年 元・高麗(こうらい:936~1392年朝鮮統一王朝)軍が、大宰府に襲来したが撃退した。(文永の役)
1281年 再度 元・高麗軍が日本攻撃を試みるが、失敗した。(弘安の役)

5.豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592・1593年,1597年)

日本統一を果たした豊臣秀吉は、呂宋(るそん:フィリピン)高山国(台湾)に朝貢を促す使者を派遣している。呂宋・高山国には朝貢できるような「国家統一機構」は存在せず使者は空しく帰国した。
朝鮮に対しては、『中国(明王朝)に出兵するので道案内せよ』と申し入れた。

当時の朝鮮は、李王朝(1392~1910年)が支配しており、朝鮮側は日本の申し出を拒絶した。李王朝は明国の属国であった。
李王朝の初代・李成桂(イ・ソンゲ)は、明の初代皇帝・洪武帝から、李王朝統治国に「新国名」をつけることを推奨された。李成桂は熟慮を重ね、「朝鮮」・「和寧」の二つを選び洪武帝に最終選択を委ねた。弱者の知恵で、巧みな外交術を用いたと言える。
かくて朝鮮の地域範囲とその名称が確定するとともに、『朝鮮』が明国の属国であることも確定した。

1589年 秀吉の命により、対馬領主・宗義智が自ら朝鮮に渡り、朝鮮の通信使の来日を要請した。1590年11月、朝鮮の通信使は京都・聚楽第で豊臣秀吉と接見した。この時秀吉は、明国への出兵を宣言し「朝鮮は道案内せよ」と命じたのである。勿論、通信使はこの命令を拒否した。豊臣秀吉は、対明侵略戦争の意思表示のために通信使の来日を要請したのである。万事において、準備・手配りに用意周到な秀吉の事である。日本の国力・戦力の充実ぶりを、朝鮮通信使に知見・浸透させるための配慮は存分に行っていたと推量する。

1591年6月、対馬領主・宗義智が自ら朝鮮に渡り、明国との国交の回復と和平の仲介を朝鮮に依頼したが、何の回答も得られなかった。通信使の報告と今回の依頼との間に隔たりが大きく、回答に窮したのである。
当時の李王朝は、かなり頽廃していたようである。戦争忌避の気分に支配されていながら、積極的な行動は何もできなかった。要するに布団をかぶって震えていただけである。いずれ明が助けに来てくれると信じていたのであろう。

しかし秀吉も、和・戦を天秤に掛けていた節がある。無理な戦争は避けるのが、秀吉の真骨頂である。朝鮮の朝貢は求めるかもしれないが、明とは対等関係での和平を考えていたに相違ない。
朝鮮通信使を通じて、日本の国力・戦力の充実ぶりを散々見せつけて置いての、和平提案である。『君子豹変す』であった。しかし不幸にも英傑の読みは当たらず、世俗は大混乱して正しい反応ができなかった。

宗義智から、「朝鮮無回答」との報告を受けて、天秤の針は大きく戦争に傾き、世界史上(当時)最大の国際戦争に突入してしまった。日本軍約16万人・明-朝鮮軍約25万人の戦争である。

1592年4月13日 日本軍は、釜山攻撃を開始した(文禄の役)。首都漢城(現在の京城:ソウル)は5月3日陥落し、7月24日 平壌(ピョンヤン)も陥落した。
当時の日本は、火縄銃50万丁程度を保有し、戦場での組織的使用に熟達していた。世界最強の火力兵器を持つ軍隊であった。
ほぼ朝鮮全土を制圧し、李朝の王子を捕縛したが、明の援軍が来るに及んで平壌の北方で戦線が膠着した。

漢城の食糧庫を焼かれて兵糧不足の心配が出て来た日本軍は、講和交渉を開始し1593年4月に下記の条件で和議を成立させた。

①日本軍は朝鮮王子を返還する。
②日本軍は釜山まで撤退する。
③明軍は開城まで撤退する。
④明から日本に使節を派遣する。

これは全くの偽りの講和であった。双方の交渉担当者の、身勝手な報告は聞くに堪えない話である。双方とも『相手が降参した』と報告している。
日本側は、交渉担当者が秀吉の了解も得ず勝手に『関白降表』と言う虚偽の降伏文書を作り、明側に渡していた。
したがって1596年9月に来日した明の使者は、日本国王の称号と金印を携えて来た。当然ながら、明の使者と謁見した秀吉は激怒した。

1597年2月 朝鮮再出撃命令が出された(慶長の役)。全羅道(ぜんらどう:チョルラド)・忠清道(ちゅうせいどう:チムチョンド)・慶尚道(けいしょうどう:キョムサンド)など朝鮮南部を占領し、築城して確保せよ、と言う命令である。
慶長の役は、秀吉の他界により全軍総撤退となり、敗退した。

6.日清戦争(1894・1895年)

明治27・28年 に行われた、李氏朝鮮の権益をめぐる戦争である。
1876年 日本は日朝修好条約を結び、平和外交を行っていた。1894年6月 朝鮮農民の内乱鎮圧のため、清国と日本は朝鮮出兵を行った。日本は、朝-露の接近を恐れ、朝鮮への影響力確保を目的とした出兵である。
同年8月 日本は清国に対し宣戦布告を行った。目的は2つである。朝鮮半島における清国の権益を排除することと、ロシアの朝鮮進出を排除することである。この目的はほぼ達成され、李氏朝鮮は清国の支配下を脱した。朝鮮の洪武帝は、国号を「大韓帝国」(1897~1910年)とした。

1897年4月講和条約を結び、日本は遼東半島(黄海と{渤海:ぼっかい}を区切る半島)と台湾・澎湖列島を領有することになった。
ロシア・ドイツ・フランスが、突如として遼東半島の返還を要求してきた(三国干渉)。日本は臥薪嘗胆(がしんしょうたん)して、返還に応じた。

7.日露戦争(1904年2月8日~1905年9月5日)

1897年 遼東半島南端の旅順港に、ロシヤ太平洋艦隊が強行入港した。翌年3月 ロシアは、清国から旅順・大連を租借し、太平洋艦隊の基地にした。
1900年清国の義和団の内乱に乗じ、ロシアが満州に出兵したまま居座ってしまった。このロシアの意図に懸念を抱いたイギリスは、日本との同盟を考え1902年1月30日 日英同盟を締結した。

横手慎二氏(慶應義塾大学法学部教授)によれば、日露戦争は『第0次世界大戦』であったとされている。近代国家における総力戦争を「一言」で言いえており、全く同感である。
この戦争を日本側から見れば、始める時期や『止める時期・止め方』まで熟慮した、考えに考え抜かれた戦争であった。日本国としての身の程を心得た、戦争であった

強大なロシア帝国が、日本との戦争を避ける理由は全くなかったが、日本帝国にとっては、シベリヤ鉄道の開通(1904年9月)前に決着を着けておきたかった。
1904年2月10日 日本帝国は、対ロシアの宣戦布告を行っている。しかしそれより2日前に朝鮮西海岸仁川(インチョン)に日本軍が上陸し、ロシアの巡洋艦と砲艦に攻撃を行っている。

1905年5月27日 日本の連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊を日本海海戦において壊滅させ、戦争をやめる好機を掴んだ。
イギリス・アメリカの斡旋により同年9月5日(日本時間)ポーツマス条約を結び、日露戦争は終結した。

8.韓国合併(1910年8月29日)

日清戦争の結果、朝鮮は念願の独立を果たし1897年10月 大韓帝国が誕生した。
ロシアは遼東半島の旅順を租借し、極東に不凍港を得て満足したようである。旅順の要塞化と旅順艦隊の維持が当面の最大の関心事となっていた。1894年3月 軍事・民事のロシア人指導者は朝鮮から全て引き上げてしまった。
これに伴って、大韓帝国に対する日本の影響力が次第に強力になっていった。
1904年8月 第1次日韓協約を締結した。この時は日露戦争中であり朝鮮は事実上日本の占領下にあった。この協約で日本の役人を大韓帝国の外交・財政の顧問にすることになった。
日露戦争終結後、1905年11月17日 第2次日韓条約が締結された。これにより大韓帝国は事実上日本国の保護国になった。洪武帝は第2次日韓条約の無効を訴える電文を配ったようであるが、諸外国は問題にしなかった。

1910年8月29日 韓国併合に関する条約により、「大日本帝国」が「大韓帝国」を併合した。これは日本国による朝鮮半島の植民地化である。
以上
 






2015年4月2日木曜日

日本の呼び名

我が国の国名は、『日本国』と言う。「にほんこく」と言うのか、「にっぽんこく」と言うのか定かではない。どちらでも間違いではないようである。日本銀行券は、『NIPPON GINKO』と印刷している。
この他に「にっぽん」派は、NHK・日本テレビ・ANA・日本郵便・NTT等がある。
「にほん」派は、JR東・JR西・JOC(日本オリンピック委員会)・日本航空・日本大学・日本相撲協会等である。

我が国は「日本国憲法」を持っているが、我が国が『日本国』と言う国名であることを定めた法律は、制定されていないようである。
ただし外務省が発行する旅券(パスポート)には、『日本国』と記載されている。

古事記(712年)や日本書紀(8世紀中頃)では、我が国の事を「豊葦原千五百秋瑞穂国:とよあしはらちいほあきのみずほのくに」と言っていた。しかし「日本書紀」の書名でも明らかなように、当時すでに『日本国』としての意識は、持っていたと考えてよいのではないかと推定する。

中国の文献に日本の事が最初に出てくるのは、「魏志倭人伝」である。280~297年頃西晋(せいしん)の陳寿(233~297年)が書いたものである。
「倭人在帯方東南大海之中依山嶋・・・」(倭人は、帯方の東南の大海中の山島にいる・・・)で始まる日本紹介文である。
三国時代(魏・蜀・呉:222~263年)を著述した中国の歴史書「三国志」の中の「魏書」の中に「魏志倭人伝」がある。
中国での日本の呼び名は、最初は「倭:ワ」であった。

江戸時代(1784年)筑前国那珂郡志賀島(福岡県福岡市東区志賀島)で金印が発見された。福岡藩の儒学者亀井南冥が、後漢書記載の金印であろうと同定した。
後漢書は後漢(25~220年)について書かれた歴史書で、南北朝時代(386~589年)の南宋で書かれたものである。
現在の金印の所有者は福岡市であり、金印は国宝となっている。金含有量95%程度の純金製で「漢委奴國王」と書いてある。「漢委奴」は、私には読めない字体の漢字である。福岡市博物館で保管・展示している。
現代の印は、押印した場合の朱肉部分で文字・印証を表している。しかし、この金印は凹凸が逆になっており、朱肉部分が背景となり空白部分で文字を表す方式になっている。

『日本国』をヨーロッパに初めて伝えたのは、イタリア人のマルコ・ポーロ(1254~1324年)で、「東方見聞録」として有名である。マルコ・ポーロは、ヴェネツィアから24年間の旅に出た。このうち17年間を中国に滞在したが、日本国には来ていない。当時の中国の王朝は元(げん:1271~1368年)であった。元は日本侵略を試み、2度の元寇(1274年文永の役・1281年弘安の役)を行った。

当時の中国語の発音で、『日本国』を Cipangu または Chipangu と言ったらしい。これがヨーロッパに伝わって「Japan」となってしまった。
「東方見聞録」では、『ジパングの宮殿・民家は黄金で出来ている。人々は礼儀正しいが、人肉を食べる習慣がある。』等と『日本国』の人民にとって随分迷惑な話を述べている。

宋史は元代に編纂された正史である。托克托(トクト:1314~1355年)が編纂した。宋史の完成は1345年である。この中の「列伝第二百五十 外国七」に、流求国・定安国・渤海国・日本国・党項の記載がある。定安国は、渤海人が作った国。党項(タングート)は、チベット民族である。

宋史における『日本国』の記述は、、神武天皇をはじめとする歴代天皇の系譜を述べられている。また『其國多有中國典籍』と書いてある。
14世紀頃(鎌倉末期)には、日本が中国文献を多数保有していることを、中国が知っていたことには驚かされる。
また中国は、自国を『中国』と呼称していた事もわかって面白い。

高麗(コリョ)国(こうらい国:918~1392年)は、朝鮮半島を統一した国である。「コリョ」の発音から、「朝鮮」を英語で『Korea』と言う。
高麗史によると、1223年「倭寇金州」の記載がある。金州は遼寧省大連の辺りで、遼東半島のことである。遼東半島は、朝鮮の西海岸の北西直ぐ傍にある。日本の倭寇が中国領の遼東半島まで出向いて暴れまわっていた証拠となる。これ以降倭寇の被害がしばしば記載されている。
ただし高麗史の伝では、倭人は1~2割に過ぎず、残りの件は全て本国(高麗)人であるとしている。

倭寇の被害に手を焼いた高麗は、1389年朴蔵(ぼくい:パク・ウィ)を対馬に進攻させた。現在の韓国の海軍に「朴蔵」と言う名の潜水艦がある。ついでの話をすれば「安重根」と言う名の潜水艦も保有している。安重根は伊藤博文を暗殺した犯人の名前である。

閑話休題し本題に戻る。「後漢書の金印」や「魏志倭人伝」以降14世紀末頃まで、我が国の呼び名として『倭』がついて回っていたのである。
『倭』の音読みは「ワ」であるが、訓読みは「やまと」である。伊勢神宮の倭姫命は、「やまとひめのみこと」と訓読みする。
外国からは『倭:ワ』と呼ばれ、みずからは「やまと」と言い、正式文書では『日本』と記したと理解しておきたい。

15世紀に入ると、1401年室町幕府と明国の間で勘合貿易が開始された。貿易とは言うものの、実際は朝貢の形式となっていた。
日本から朝貢船が明の首都南京(1421年以降は北京)に朝貢品を運んでゆく。朝貢品を受け取った明は、返礼に沢山の土産品を持たせて返すのである。
この時、正規の幕府の朝貢使である証明として、予め明から室町幕府い与えられていた『勘合符(割符)』を持って行ったのである。勘合貿易は16世紀半ばまで150年間続けられた。

この間密貿易も色々行われた。安土桃山時代(1572~1603年)頃までは「南無八幡大菩薩」の幟を掲げた海賊船が、極東の海を闊歩していた。本来は密貿易が目的であるが、場合によっては海賊行為も行った。「八幡船」と呼ばれ恐れられていたようである。

明の時代には、台湾はどこの所領でもなかった。日本では「高山国」の名前で知られていた。日本統一を果たした豊臣秀吉は、「朝鮮:李氏王朝1392~1897年」・「高山国:台湾」・「呂宋:ルソン:フィリピン」に『朝貢を促す使者』を派遣した。朝鮮とは話がこじれて、二度に渡る朝鮮派兵を行っている。文禄(1592・1593年)・慶長(1597・1598年)の役である。
高山国には原田孫七郎が派遣された。台湾には倭寇や明海賊の基地はあったが、使書を渡すべき『国の統一機構』は見当たらず、原田孫七郎は空しく帰国した。

1625年台湾と澎湖諸島の領有をめぐり、明・オランダの紛争が勃発した。澎湖諸島は明・台湾はオランダで決着した。
オランダは、台湾にある「倭寇の基地」に対し貿易税10%の支払いを要求してきた。これに反発して浜田弥兵衛は、オランダの長官を襲撃する事件を起こしている。
この後1627年浜田弥兵衛は、先住民若干名を引き連れて帰国し、台湾に対する日本国政府(徳川幕府)の援助を求めて、三代将軍家光に謁見を許されている。
しかし残念ながら、1639年徳川幕府は鎖国してしまった。
以上
 

2015年2月12日木曜日

干支(かんし:えと)の話

今年は平成27年・皇紀2674年(神武天皇即位の年から数える)・西暦2015年である。「零式戦闘機:ゼロ戦」が出現してから、74年が経過している。私は齢傘寿(数え年80)を過ぎてしまった。
今年の干支は「乙・未」(きのと・ひつじ)である。

「えと」と言えば、通常は十二支の事を言う。十二支を下記に示す。



また十干(じっかん)も下記に示す。

  60年周期の干支表を下記に示す。


今から数えて29年後、2044年は「甲・子」(きのえ・ね)となる。

甲子園球場は、大正13年(1924年)3月11日起工式が行われた。もちろん甲子(きのえ・ね)の年である。
最初の名前は「阪神電車甲子園大運動場」である。
大リーグのホームラン王ベーブルース(1895~1948年:George Herman Ruth, Jr)が来日した時、「too large」と驚嘆させた「大運動場」であった。
1924年8月「全国中等学校優勝野球大会」が開催されている。これが現在の高校野球大会につながっている。当時の中等学校は5年制であった。
高等学校は大学予科相当であり、ナンバー・スクール(1高~6高)に入学できれば、どこかの帝国大学に間違いなく入学できた。
、
毎年十二支と十干を1つずつ進めるので、次の年2045年は「乙・丑」(きのと・うし)となる。60年目は「癸・亥」(みずのと・い)となる。61年目は再び「甲・子」となり還暦である。

「十二支」と「十干」を毎年ひとつずつ進めると、12と10の最小公倍数60が周期となって、繰り返されることになる。

紀元前17世紀頃、中国山東省(現在の安陽市付近)に殷いん(紀元前17世紀~紀元前1046年)の首都が有った。殷は「商・商殷」とも言われている。紀元前11世紀に「周」に滅ぼされた。
殷の時代には、すでに、日付、番号、数字等を表すのに干支が使われていたようである。

十二支に動物を割り当てたのは中国であるが、なぜこのような順番に動物を割振ったのか良く分からない。
中国では、最後が豚である。台湾は日本と同じように最後は猪である。ベトナムでは、水牛(牛)と猫(兎)がいる。

干支は年を表すだけでなく、昔は時刻や方位を表すことにも使われていた。
方位を表す場合は、子が真北であり午が真南である。真東が卯で、真西が酉である。
北東は「丑・寅」の境目で、艮(うしとら)の字を当てた。南東を巽(たつみ)、南西を坤(ひつじさる)、北西を乾(いぬい)としていた。

時刻は、太陽の南中が正午であり、正午の前が午前、後が午後である。

昔は鐘を突いて時を知らせていた。
鐘を突く回数が少ないと、鐘の音に気付かぬ恐れがあるので、鐘は「四つ~九つ」突く仕組みになっていた。

  1.  子の刻;0時頃                           夜 九つ
  2.  丑の刻:2時頃                           夜 八つ
  3.  寅の刻:4時頃                           暁(あかつき) 七つ
  4.  卯の刻:6時頃                           明 六つ
  5.  辰の刻:8時頃                           朝 五つ
  6.  巳の刻:10時頃                         朝 四つ
  7.  午の刻:12時頃                         昼 九つ
  8.  未の刻:14時頃                         昼 八つ
  9.  申の刻:16時頃                         夕 七つ
  10.  酉の刻:18時頃                         暮 六つ
  11.  戌の刻:20時頃                         宵 五つ
  12.  亥の刻:22時頃                         夜 四つ
近松門左衛門(1653年~1724年)作の曽根崎心中では、遊女お初と醤油屋手代徳兵衛が心中(自害)するのであるが、『あれ数ぞふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり』とある。
暁七つだから、寅の刻(午前4時頃)の心中であった。
以上

     

2014年12月19日金曜日

最高裁判事の信任投票

衆議院総選挙の度毎に、「最高裁判事の信任投票」(国民審査)が行われる。最高裁判事は、裁判所の推挙に基づき、内閣が最高裁判事を任命する。信任投票の対象となる裁判官は下記である。
  • 任命後初めての衆議院選となる最高裁判事
  • 衆議院選後10年を経過した最高裁判事(最高裁判事は高齢で任命されるのでこれは無意味)
この信任投票制度は、「アメリカ合衆国ミズーリ州の憲法」を参考にして作られた制度と言われている。アメリカの各州には「州憲法」・「州最高裁」があり、それぞれ独自の司法システムを持っている。アメリカ合衆国全体の最高裁は、信任投票制度を持っていない。

日本の最高裁判事の信任投票については、『最高裁昭和27年2月20日(1952年)大法廷判決』(3頁)において、最高裁は最高裁に都合のいい判決を行っている。要点を下に示す。

  • 信任投票は罷免の可否を判断する。
  • 信任投票は任命の可否を判断するものではない。
  • 白票は、「罷免する積極的意思なし」とする。
  • 信任投票は、「罷免する積極的意思」の有無で決する。
  • × 印以外の記号を書けば無効票となる。
  • 審査公報では、事件名のみの記載で可。(個々の判事意見は不記載でよい)


2014年12月14日衆議院総選挙と共に「最高裁判事の信任投票」が行われた。信任投票結果を、下記に示す。

        鬼丸かおる  木内道祥   池上政幸   山本庸幸   山崎敏充
× 印              4,678,087     4,861,993      4,855,670     4,280,353     4,786,184
無記入       46,138,768   45,954,803    45,961,112   46,536,351    46,030,604
無効票                   720               779                793               871                787
投票総数   50,817,575
× 率(%)       9.206             9.568            9.555             8.423            9.418

無効票は、熊本県・福島県に特異的に多発している。
投票率とうは下記である。
  • 有権者数         103,858,444(約1億人)
  • 投票数               52,859,837
  • 棄権者数           50,998,584
  • 投票率               0.5090
  • × 総数               23,462,287
  • × /票                  0.462


興味深いのは、1票当たりの× の数 である。0.462 だから、過半数が白票を投じたらしい。「過半数が棄権」したと考えるべきである。

一般的には名前の記載番号が若いほど、× を受けやすいと思われる。しかし鬼丸・山本の両氏は、特異的に「× 率」が低い。意図的に × 印を付けなかった人が多数いたことになる。
即ち、『鬼丸・山本』両氏を積極的に信任した人たちが多数いた事が証明される。

鬼丸かおる・山本庸幸の両氏は、『現状の1票の格差』を違憲と見做した裁判官である。

この人たちを信任しているが、信任投票で〇を付ける事が出来ないので「他の人に × 」を付けて意思表示をしたのである。はなはだ回りくどく、分かりにくい仕組みにされている。

信任投票であるから、素直に「信任する人に〇印を記入するシステム」に直せば、単純明快な良い制度になるのである。
しかし日本国は『最高裁判事信任投票』を現状の劣悪な制度設計のまま長年にわたり放置し、「国民審査」と呼称して不信任者に× を与える『不信任投票』方式を堅持し続けているのである。誠に残念である。慨嘆久し。
以上

2014年12月3日水曜日

君が代と日の丸

一般的には、国家(state)は国歌(national anthem)と国旗(national flag)を持っている。日本では、相撲の千秋楽には総員起立して「君が代」を合唱することになっている。
2020年の東京オリンピックで幾つかの金メダルを獲得することができれば、「日の丸」の掲揚と「君が代」の演奏を聴き、日本人として大いに感激に浸ることができる。

しかし地球は広いもので、国家を歌えない国が幾つか存在している。スペイン・アラブ首長国連邦・カタール他若干の国である。それぞれ国歌は有るのだが、歌詞がないので唱和することができない。
スペイン国歌「マルチャ・レアル:Marcha Real:国王行進曲」は、ヨーロッパ最古の国歌の一つで、起源も作者も不明である。最初の記録は1761年に登場するようである。1770年に、国王が公式行事の際につねに演奏するように命じたので、国歌とし「国王行進曲」と言われるようになった。

「君が代」が最初に登場したのは、古今和歌集(略称:古今集)である。平安初期(912年頃)に完成した、日本最初の勅撰和歌集である。

 
  賀歌 題しらず 詠人しらず
  
  我が君は 千代にやちよに (千代にませませ) さざれ石の
                     巌となりて 苔のむすまで(苔むすまでに)
 

この歌の『我が君』が、大君(天皇)とか朝廷を意味すると断定することはできない。むしろお祝いの席で、「お祝いの当事者」の長寿を願った賀歌であろうと思われる。特に女性が「大切な」男性を呼ぶときは『君』と言う。

鎌倉時代から以降(1200年頃)では、和漢朗詠集の写本等で、現在の「君が代」となっている。

  君が代は 千代に八千代に さざれ石の
                 いわおとなりて こけのむすまで

鎌倉幕府以降明治維新まで、征夷大将軍治世下の幕府の時代は、「君が代」は一般的な「長寿を願いことほぐ賀歌」とされていた。しかし時代が下がるにつれて「君が代」の解釈を「天皇の治世」と解釈する傾向が強くなっていったようである。
鎌倉・室町時代は、宴会等の際に最後のお開きの時に謳う和歌の定番になっていた。しかし幕藩体制の江戸時代の前期(17世紀中頃)において、はやくも「君が代は天皇の治世の意である」と解釈する国学者が出てきたのである。
明治以降は、何はばかる事もなく「天皇の治世」と決めてしまった。

音曲の方は、林廣守(1831-1896年)が作曲し、ドイツ人エッケルトが和声をつけた。これを明治26年(1893年)8月12日「祝日大祭日歌詞並楽譜」を官報に告示した。これより以降「君が代」は事実上「国歌:national anthem」となっていた。
さらに平成11年(1999年)8月13日公布・施行された「国旗及び国歌に関する法律」により、日の丸を国旗とし君が代を国歌とすることを法律で定めた。

日本で最初の吹奏楽団が結成されたのは、1869年である。薩摩藩が藩士数十名を選抜し薩摩バンドを結成した。指導者は、イギリス人ジョン・ウイリアム・フェントンである。薩摩バンドの合宿所を、妙香寺(横浜市中区妙香寺台8)に定めた。最初は楽器もないので、調練・譜面の読み方・等の訓練をしていた様である。注文していた輸入の楽器類が、明治3年(1870年)7月に妙香寺に届き、本格的な吹奏楽の練習ができるようになった。フェントンも「君が代」の作曲を試みたが不評で不採用となった。

妙香寺に「国歌君ヶ代発祥之地」の碑がある。これを正確に説明するならば、不採用となったフェントンの「君ヶ代発祥之地」である。
ここで、光明寺の名誉のために申し添えておきたい。日本最初の吹奏楽団薩摩バンドがここで結成され、ここがその合宿所となっていたのは紛れの無い事実である。

日の丸の歴史は極めて古い。古代では天照大神(あまてらすおおみかみ)を太陽神とし、日本人は太陽神の末裔と考えていた。即ち「日の本の人」なのである。
中国の隋書に、日本から遣隋船が来たことが記録されている。隋は西暦581年中国を統一し618年に唐に滅ぼされた。
小野妹子(おののいもこ)の遣隋船が持参した口上書は、「日出處天子致書日没處天子無恙云々」とある。「日出づる処の天子、日没する処の天子に書を致す。つつがなきや、うんぬん」である。意気軒昂な挨拶ではあるが、当然相手を怒らせてしまった。「日本の天子」と名乗ったからである。隋の煬帝から小野妹子に託された返書のあて先は「倭王」宛てになっている。

日本の船に「日の丸」の旗がはためくようになったのは、室町時代の勘合貿易以降(1401~1549年)である。日本の船籍を表す旗として、日本船は「日の丸」をへんぽんと翻しつつ、極東の海を闊歩していた。
16世紀にはシャム(現在のタイ)には、アユタヤ(バンコクの北方)郊外に日本人町が出来ており、「アユタヤ」王朝には日本人の雇兵隊もいた。
アユタヤ侵略を目指して上陸してきたスペイン艦隊の陸戦隊を、日本人町の頭領山田長政は、日本義勇兵を率いて「日の丸」を掲げて迎撃し、撃退した。

鎖国を行った江戸時代は、国籍表示よりも藩籍表示が重視され藩の旗を掲げるようになっていった。ただし幕府海軍は「日の丸」を使用していた様である。1860年勝海舟が太平洋横断を行った三本マストの咸臨丸(かんりんまる)の船尾には、「日の丸」の旗が翻っていた。

幕府陸軍も「日の丸」の旗を掲げていた様である。幕軍のフランス式騎兵隊の調練の絵に、「日の丸」をかざして乗馬している人が描かれている。

戊辰(ぼしん)戦争(明治元年-明治2年:1868-1869年)では、官軍の陸軍は錦旗を掲げて進軍した。錦旗は元公卿であった岩倉具視の発案によるものである。
1862年三条実美らの進言により、孝明天皇は岩倉具視らに辞官・蟄居を求められた。皇女和宮の降嫁の際に岩倉具視も同道していたので、親幕派と見做されたようである。
錦旗は、岩倉具視が洛北の岩倉村に蟄居中に発案し、薩摩藩・長州藩に作成させた。赤地の細長い布地の上部に金色の丸い日像があり、その下に「天照皇太神」と金字で書いてある。

戊辰戦争の発端は、1868年1月26日幕府軍艦2隻が兵庫沖で薩摩藩軍艦に発砲して始まった。引き続き27日には新政府軍と幕府軍との「鳥羽・伏見の戦」へと拡大していった。「日の丸」の旗と「天照皇太神」の旗との本格的な戦争になったのである。奥羽越列藩同盟も共通の旗として「日の丸」を使用し、会津の白虎隊も「日の丸」の下で戦った。

戊辰戦争は、新政府軍の勝利に終わり、幕府は消滅した。しかし「日の丸」の旗は、新政府に引き継がれ、明治3年(1807年)1月27日制定の太政官布告により、「御国旗」と規定された。これ以降「日の丸」は日本船の船籍を示す旗として使用され、事実上の国旗として使用されていた。法律上国旗と制定したのは平成11年(1999年)8月13日である。
以上