国家・民族・戦争とは何かを研究し、何故人類は「全ての時代」・「色々な地域」で戦争を重ねて来たかを、学術的に研究する学問分野を切り開かねばならない。
本文は、戦争学概論・『日本の戦争・前編』として、神功皇后の朝鮮出兵から大韓帝国合併までを記述した。
戦争学は、戦争術を研究するわけではない。しかし戦術本「孫子」は、戦争学の古典としてもきわめて示唆に富む必読の書であると思う。
「戦争は国家の一大事であり、生死・存亡の分かれ道となる。戦争を論ずるとき、道・天・地・将・法を検討しなければならない。」と説いている。
①道とは、国民全てが上下一体となって、生死を共にすると信ずることである。
②天とは、季節・気候・時間である。
③地とは、場所である。遠近・険易・・高低である。
④将とは、智・信・仁・勇・厳である。
⑤法とは、曲制・官道・主用である。
これらについての敵味方の長短を比較検討しなければならない。これは将軍であれば誰でも知っていることだが、理解が深いほうが勝ち浅いほうが負ける。
「孫子」は戦争の勝ち方を教える戦術教本であるが、決して好戦的ではない。
「百戦百勝」善の善に非ず、戦わずして敵兵を屈するのが善の善であるとしている。城攻めは下の下で、上兵は謀略で城を落とす。
我が戦争学の課題としては、勝ち方も大切であるが、負け方も同等以上に大切である。負の『道・天・地・将・法』を究めるべきである。
細かい議論は省略し、戦争学では「始まり方」と「終わり方」の研究が大切である。この観点から概論では「始まり方」と「終わり方」に注目して、日本の戦争の歴史を眺めてみることにした。
1.神功皇后の朝鮮出兵(201年)
神功皇后は、第14代仲哀天皇の后である。仲哀天皇急死(200年)後、201~269年神功皇后が日本の国事をつかさどった。
皇后は、201年朝鮮半島に出兵した。馬韓(百済)・弁韓(任那・加羅)・辰韓(新羅)は戦わずして、日本に朝貢を約した。
武威により、朝鮮半島南部の国々に『朝貢』条約を結ばせた、と考えられる。以降これらの国々は、日本の友好国となった。
神功皇后は、後の応神天皇を懐妊されたまま、自ら兵を率いて朝鮮半島に出征している。日本書紀によれば、住吉大神の神託に基づく出兵である。住吉大神は海・航海の守護神であり、当時の朝鮮半島情勢の情報をたくさん持っていたと考えてよい。
2.白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)
朝鮮半島の百済王朝の頽廃を覗って、660年3月 唐が百済を侵略し、百済は滅亡した。その後 地元で「百済再興運動」が起こり、日本に救援を求めて来た。唐の百済侵略に対する日本のリターンマッチが、この戦争である。
場所は全羅北道(チョルラ・ブクト)群山(クンサン)市付近、錦江(クムガン)の河口、朝鮮半島西海岸、北緯36度付近である。
633年 唐・新羅軍18万 vs 日本・百済軍4万7千。
多勢に無勢で、日本・百済義勇軍は大敗した。この敗戦により、日本は朝鮮半島のすべての権益を失ってしまった。
3.刀伊の入寇(といのにゅうこう)
1019年 満洲の女真(じょしん)族約3,000人が、壱岐・対馬を襲い筑前に進攻してきた。壱岐・対馬で日本人約200人が虐殺され、約1,500人が拉致された。
筑前大宰府の藤原隆家に撃退され、刀伊は対馬経由で高麗に逃れた。高麗でも海賊行為を行ったが撃退され、日本人拉致被害者の内約270人が救出された。
4.元寇(1274・1281年)
元は1271~1368年 中国とモンゴル高原を支配した王朝である。元は日本に対し服属を求めてきたが、鎌倉幕府は断固拒否した。
1274年 元・高麗(こうらい:936~1392年朝鮮統一王朝)軍が、大宰府に襲来したが撃退した。(文永の役)
1281年 再度 元・高麗軍が日本攻撃を試みるが、失敗した。(弘安の役)
5.豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592・1593年,1597年)
日本統一を果たした豊臣秀吉は、呂宋(るそん:フィリピン)高山国(台湾)に朝貢を促す使者を派遣している。呂宋・高山国には朝貢できるような「国家統一機構」は存在せず使者は空しく帰国した。
朝鮮に対しては、『中国(明王朝)に出兵するので道案内せよ』と申し入れた。
当時の朝鮮は、李王朝(1392~1910年)が支配しており、朝鮮側は日本の申し出を拒絶した。李王朝は明国の属国であった。
李王朝の初代・李成桂(イ・ソンゲ)は、明の初代皇帝・洪武帝から、李王朝統治国に「新国名」をつけることを推奨された。李成桂は熟慮を重ね、「朝鮮」・「和寧」の二つを選び洪武帝に最終選択を委ねた。弱者の知恵で、巧みな外交術を用いたと言える。
かくて朝鮮の地域範囲とその名称が確定するとともに、『朝鮮』が明国の属国であることも確定した。
1589年 秀吉の命により、対馬領主・宗義智が自ら朝鮮に渡り、朝鮮の通信使の来日を要請した。1590年11月、朝鮮の通信使は京都・聚楽第で豊臣秀吉と接見した。この時秀吉は、明国への出兵を宣言し「朝鮮は道案内せよ」と命じたのである。勿論、通信使はこの命令を拒否した。豊臣秀吉は、対明侵略戦争の意思表示のために通信使の来日を要請したのである。万事において、準備・手配りに用意周到な秀吉の事である。日本の国力・戦力の充実ぶりを、朝鮮通信使に知見・浸透させるための配慮は存分に行っていたと推量する。
1591年6月、対馬領主・宗義智が自ら朝鮮に渡り、明国との国交の回復と和平の仲介を朝鮮に依頼したが、何の回答も得られなかった。通信使の報告と今回の依頼との間に隔たりが大きく、回答に窮したのである。
当時の李王朝は、かなり頽廃していたようである。戦争忌避の気分に支配されていながら、積極的な行動は何もできなかった。要するに布団をかぶって震えていただけである。いずれ明が助けに来てくれると信じていたのであろう。
しかし秀吉も、和・戦を天秤に掛けていた節がある。無理な戦争は避けるのが、秀吉の真骨頂である。朝鮮の朝貢は求めるかもしれないが、明とは対等関係での和平を考えていたに相違ない。
朝鮮通信使を通じて、日本の国力・戦力の充実ぶりを散々見せつけて置いての、和平提案である。『君子豹変す』であった。しかし不幸にも英傑の読みは当たらず、世俗は大混乱して正しい反応ができなかった。
宗義智から、「朝鮮無回答」との報告を受けて、天秤の針は大きく戦争に傾き、世界史上(当時)最大の国際戦争に突入してしまった。日本軍約16万人・明-朝鮮軍約25万人の戦争である。
1592年4月13日 日本軍は、釜山攻撃を開始した(文禄の役)。首都漢城(現在の京城:ソウル)は5月3日陥落し、7月24日 平壌(ピョンヤン)も陥落した。
当時の日本は、火縄銃50万丁程度を保有し、戦場での組織的使用に熟達していた。世界最強の火力兵器を持つ軍隊であった。
ほぼ朝鮮全土を制圧し、李朝の王子を捕縛したが、明の援軍が来るに及んで平壌の北方で戦線が膠着した。
漢城の食糧庫を焼かれて兵糧不足の心配が出て来た日本軍は、講和交渉を開始し1593年4月に下記の条件で和議を成立させた。
①日本軍は朝鮮王子を返還する。
②日本軍は釜山まで撤退する。
③明軍は開城まで撤退する。
④明から日本に使節を派遣する。
これは全くの偽りの講和であった。双方の交渉担当者の、身勝手な報告は聞くに堪えない話である。双方とも『相手が降参した』と報告している。
日本側は、交渉担当者が秀吉の了解も得ず勝手に『関白降表』と言う虚偽の降伏文書を作り、明側に渡していた。
したがって1596年9月に来日した明の使者は、日本国王の称号と金印を携えて来た。当然ながら、明の使者と謁見した秀吉は激怒した。
1597年2月 朝鮮再出撃命令が出された(慶長の役)。全羅道(ぜんらどう:チョルラド)・忠清道(ちゅうせいどう:チムチョンド)・慶尚道(けいしょうどう:キョムサンド)など朝鮮南部を占領し、築城して確保せよ、と言う命令である。
慶長の役は、秀吉の他界により全軍総撤退となり、敗退した。
6.日清戦争(1894・1895年)
明治27・28年 に行われた、李氏朝鮮の権益をめぐる戦争である。
1876年 日本は日朝修好条約を結び、平和外交を行っていた。1894年6月 朝鮮農民の内乱鎮圧のため、清国と日本は朝鮮出兵を行った。日本は、朝-露の接近を恐れ、朝鮮への影響力確保を目的とした出兵である。
同年8月 日本は清国に対し宣戦布告を行った。目的は2つである。朝鮮半島における清国の権益を排除することと、ロシアの朝鮮進出を排除することである。この目的はほぼ達成され、李氏朝鮮は清国の支配下を脱した。朝鮮の洪武帝は、国号を「大韓帝国」(1897~1910年)とした。
1897年4月講和条約を結び、日本は遼東半島(黄海と{渤海:ぼっかい}を区切る半島)と台湾・澎湖列島を領有することになった。
ロシア・ドイツ・フランスが、突如として遼東半島の返還を要求してきた(三国干渉)。日本は臥薪嘗胆(がしんしょうたん)して、返還に応じた。
7.日露戦争(1904年2月8日~1905年9月5日)
1897年 遼東半島南端の旅順港に、ロシヤ太平洋艦隊が強行入港した。翌年3月 ロシアは、清国から旅順・大連を租借し、太平洋艦隊の基地にした。
1900年清国の義和団の内乱に乗じ、ロシアが満州に出兵したまま居座ってしまった。このロシアの意図に懸念を抱いたイギリスは、日本との同盟を考え1902年1月30日 日英同盟を締結した。
横手慎二氏(慶應義塾大学法学部教授)によれば、日露戦争は『第0次世界大戦』であったとされている。近代国家における総力戦争を「一言」で言いえており、全く同感である。
この戦争を日本側から見れば、始める時期や『止める時期・止め方』まで熟慮した、考えに考え抜かれた戦争であった。日本国としての身の程を心得た、戦争であった
強大なロシア帝国が、日本との戦争を避ける理由は全くなかったが、日本帝国にとっては、シベリヤ鉄道の開通(1904年9月)前に決着を着けておきたかった。
1904年2月10日 日本帝国は、対ロシアの宣戦布告を行っている。しかしそれより2日前に朝鮮西海岸仁川(インチョン)に日本軍が上陸し、ロシアの巡洋艦と砲艦に攻撃を行っている。
1905年5月27日 日本の連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊を日本海海戦において壊滅させ、戦争をやめる好機を掴んだ。
イギリス・アメリカの斡旋により同年9月5日(日本時間)ポーツマス条約を結び、日露戦争は終結した。
8.韓国合併(1910年8月29日)
日清戦争の結果、朝鮮は念願の独立を果たし1897年10月 大韓帝国が誕生した。
ロシアは遼東半島の旅順を租借し、極東に不凍港を得て満足したようである。旅順の要塞化と旅順艦隊の維持が当面の最大の関心事となっていた。1894年3月 軍事・民事のロシア人指導者は朝鮮から全て引き上げてしまった。
これに伴って、大韓帝国に対する日本の影響力が次第に強力になっていった。
1904年8月 第1次日韓協約を締結した。この時は日露戦争中であり朝鮮は事実上日本の占領下にあった。この協約で日本の役人を大韓帝国の外交・財政の顧問にすることになった。
日露戦争終結後、1905年11月17日 第2次日韓条約が締結された。これにより大韓帝国は事実上日本国の保護国になった。洪武帝は第2次日韓条約の無効を訴える電文を配ったようであるが、諸外国は問題にしなかった。
1910年8月29日 韓国併合に関する条約により、「大日本帝国」が「大韓帝国」を併合した。これは日本国による朝鮮半島の植民地化である。
以上
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