この他に「にっぽん」派は、NHK・日本テレビ・ANA・日本郵便・NTT等がある。
「にほん」派は、JR東・JR西・JOC(日本オリンピック委員会)・日本航空・日本大学・日本相撲協会等である。
我が国は「日本国憲法」を持っているが、我が国が『日本国』と言う国名であることを定めた法律は、制定されていないようである。
ただし外務省が発行する旅券(パスポート)には、『日本国』と記載されている。
古事記(712年)や日本書紀(8世紀中頃)では、我が国の事を「豊葦原千五百秋瑞穂国:とよあしはらちいほあきのみずほのくに」と言っていた。しかし「日本書紀」の書名でも明らかなように、当時すでに『日本国』としての意識は、持っていたと考えてよいのではないかと推定する。
中国の文献に日本の事が最初に出てくるのは、「魏志倭人伝」である。280~297年頃西晋(せいしん)の陳寿(233~297年)が書いたものである。
「倭人在帯方東南大海之中依山嶋・・・」(倭人は、帯方の東南の大海中の山島にいる・・・)で始まる日本紹介文である。
三国時代(魏・蜀・呉:222~263年)を著述した中国の歴史書「三国志」の中の「魏書」の中に「魏志倭人伝」がある。
中国での日本の呼び名は、最初は「倭:ワ」であった。
江戸時代(1784年)筑前国那珂郡志賀島(福岡県福岡市東区志賀島)で金印が発見された。福岡藩の儒学者亀井南冥が、後漢書記載の金印であろうと同定した。
後漢書は後漢(25~220年)について書かれた歴史書で、南北朝時代(386~589年)の南宋で書かれたものである。
現在の金印の所有者は福岡市であり、金印は国宝となっている。金含有量95%程度の純金製で「漢委奴國王」と書いてある。「漢委奴」は、私には読めない字体の漢字である。福岡市博物館で保管・展示している。
現代の印は、押印した場合の朱肉部分で文字・印証を表している。しかし、この金印は凹凸が逆になっており、朱肉部分が背景となり空白部分で文字を表す方式になっている。
『日本国』をヨーロッパに初めて伝えたのは、イタリア人のマルコ・ポーロ(1254~1324年)で、「東方見聞録」として有名である。マルコ・ポーロは、ヴェネツィアから24年間の旅に出た。このうち17年間を中国に滞在したが、日本国には来ていない。当時の中国の王朝は元(げん:1271~1368年)であった。元は日本侵略を試み、2度の元寇(1274年文永の役・1281年弘安の役)を行った。
当時の中国語の発音で、『日本国』を Cipangu または Chipangu と言ったらしい。これがヨーロッパに伝わって「Japan」となってしまった。
「東方見聞録」では、『ジパングの宮殿・民家は黄金で出来ている。人々は礼儀正しいが、人肉を食べる習慣がある。』等と『日本国』の人民にとって随分迷惑な話を述べている。
宋史は元代に編纂された正史である。托克托(トクト:1314~1355年)が編纂した。宋史の完成は1345年である。この中の「列伝第二百五十 外国七」に、流求国・定安国・渤海国・日本国・党項の記載がある。定安国は、渤海人が作った国。党項(タングート)は、チベット民族である。
宋史における『日本国』の記述は、、神武天皇をはじめとする歴代天皇の系譜を述べられている。また『其國多有中國典籍』と書いてある。
14世紀頃(鎌倉末期)には、日本が中国文献を多数保有していることを、中国が知っていたことには驚かされる。
また中国は、自国を『中国』と呼称していた事もわかって面白い。
高麗(コリョ)国(こうらい国:918~1392年)は、朝鮮半島を統一した国である。「コリョ」の発音から、「朝鮮」を英語で『Korea』と言う。
高麗史によると、1223年「倭寇金州」の記載がある。金州は遼寧省大連の辺りで、遼東半島のことである。遼東半島は、朝鮮の西海岸の北西直ぐ傍にある。日本の倭寇が中国領の遼東半島まで出向いて暴れまわっていた証拠となる。これ以降倭寇の被害がしばしば記載されている。
ただし高麗史の伝では、倭人は1~2割に過ぎず、残りの件は全て本国(高麗)人であるとしている。
倭寇の被害に手を焼いた高麗は、1389年朴蔵(ぼくい:パク・ウィ)を対馬に進攻させた。現在の韓国の海軍に「朴蔵」と言う名の潜水艦がある。ついでの話をすれば「安重根」と言う名の潜水艦も保有している。安重根は伊藤博文を暗殺した犯人の名前である。
閑話休題し本題に戻る。「後漢書の金印」や「魏志倭人伝」以降14世紀末頃まで、我が国の呼び名として『倭』がついて回っていたのである。
『倭』の音読みは「ワ」であるが、訓読みは「やまと」である。伊勢神宮の倭姫命は、「やまとひめのみこと」と訓読みする。
外国からは『倭:ワ』と呼ばれ、みずからは「やまと」と言い、正式文書では『日本』と記したと理解しておきたい。
15世紀に入ると、1401年室町幕府と明国の間で勘合貿易が開始された。貿易とは言うものの、実際は朝貢の形式となっていた。
日本から朝貢船が明の首都南京(1421年以降は北京)に朝貢品を運んでゆく。朝貢品を受け取った明は、返礼に沢山の土産品を持たせて返すのである。
この時、正規の幕府の朝貢使である証明として、予め明から室町幕府い与えられていた『勘合符(割符)』を持って行ったのである。勘合貿易は16世紀半ばまで150年間続けられた。
この間密貿易も色々行われた。安土桃山時代(1572~1603年)頃までは「南無八幡大菩薩」の幟を掲げた海賊船が、極東の海を闊歩していた。本来は密貿易が目的であるが、場合によっては海賊行為も行った。「八幡船」と呼ばれ恐れられていたようである。
明の時代には、台湾はどこの所領でもなかった。日本では「高山国」の名前で知られていた。日本統一を果たした豊臣秀吉は、「朝鮮:李氏王朝1392~1897年」・「高山国:台湾」・「呂宋:ルソン:フィリピン」に『朝貢を促す使者』を派遣した。朝鮮とは話がこじれて、二度に渡る朝鮮派兵を行っている。文禄(1592・1593年)・慶長(1597・1598年)の役である。
高山国には原田孫七郎が派遣された。台湾には倭寇や明海賊の基地はあったが、使書を渡すべき『国の統一機構』は見当たらず、原田孫七郎は空しく帰国した。
1625年台湾と澎湖諸島の領有をめぐり、明・オランダの紛争が勃発した。澎湖諸島は明・台湾はオランダで決着した。
オランダは、台湾にある「倭寇の基地」に対し貿易税10%の支払いを要求してきた。これに反発して浜田弥兵衛は、オランダの長官を襲撃する事件を起こしている。
この後1627年浜田弥兵衛は、先住民若干名を引き連れて帰国し、台湾に対する日本国政府(徳川幕府)の援助を求めて、三代将軍家光に謁見を許されている。
しかし残念ながら、1639年徳川幕府は鎖国してしまった。
以上
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