2014年12月3日水曜日

君が代と日の丸

一般的には、国家(state)は国歌(national anthem)と国旗(national flag)を持っている。日本では、相撲の千秋楽には総員起立して「君が代」を合唱することになっている。
2020年の東京オリンピックで幾つかの金メダルを獲得することができれば、「日の丸」の掲揚と「君が代」の演奏を聴き、日本人として大いに感激に浸ることができる。

しかし地球は広いもので、国家を歌えない国が幾つか存在している。スペイン・アラブ首長国連邦・カタール他若干の国である。それぞれ国歌は有るのだが、歌詞がないので唱和することができない。
スペイン国歌「マルチャ・レアル:Marcha Real:国王行進曲」は、ヨーロッパ最古の国歌の一つで、起源も作者も不明である。最初の記録は1761年に登場するようである。1770年に、国王が公式行事の際につねに演奏するように命じたので、国歌とし「国王行進曲」と言われるようになった。

「君が代」が最初に登場したのは、古今和歌集(略称:古今集)である。平安初期(912年頃)に完成した、日本最初の勅撰和歌集である。

 
  賀歌 題しらず 詠人しらず
  
  我が君は 千代にやちよに (千代にませませ) さざれ石の
                     巌となりて 苔のむすまで(苔むすまでに
 

この歌の『我が君』が、大君(天皇)とか朝廷を意味すると断定することはできない。むしろお祝いの席で、「お祝いの当事者」の長寿を願った賀歌であろうと思われる。特に女性が「大切な」男性を呼ぶときは『君』と言う。

鎌倉時代から以降(1200年頃)では、和漢朗詠集の写本等で、現在の「君が代」となっている。

  君が代は 千代に八千代に さざれ石の
                 いわおとなりて こけのむすまで

鎌倉幕府以降明治維新まで、征夷大将軍治世下の幕府の時代は、「君が代」は一般的な「長寿を願いことほぐ賀歌」とされていた。しかし時代が下がるにつれて「君が代」の解釈を「天皇の治世」と解釈する傾向が強くなっていったようである。
鎌倉・室町時代は、宴会等の際に最後のお開きの時に謳う和歌の定番になっていた。しかし幕藩体制の江戸時代の前期(17世紀中頃)において、はやくも「君が代天皇の治世の意である」と解釈する国学者が出てきたのである。
明治以降は、何はばかる事もなく「天皇の治世」と決めてしまった。

音曲の方は、林廣守(1831-1896年)が作曲し、ドイツ人エッケルトが和声をつけた。これを明治26年(1893年)8月12日「祝日大祭日歌詞並楽譜」を官報に告示した。これより以降「君が代」は事実上「国歌:national anthem」となっていた。
さらに平成11年(1999年)8月13日公布・施行された「国旗及び国歌に関する法律」により、日の丸を国旗とし君が代を国歌とすることを法律で定めた。

日本で最初の吹奏楽団が結成されたのは、1869年である。薩摩藩が藩士数十名を選抜し薩摩バンドを結成した。指導者は、イギリス人ジョン・ウイリアム・フェントンである。薩摩バンドの合宿所を、妙香寺(横浜市中区妙香寺台8)に定めた。最初は楽器もないので、調練・譜面の読み方・等の訓練をしていた様である。注文していた輸入の楽器類が、明治3年(1870年)7月に妙香寺に届き、本格的な吹奏楽の練習ができるようになった。フェントンも「君が代」の作曲を試みたが不評で不採用となった。

妙香寺に「国歌君ヶ代発祥之地」の碑がある。これを正確に説明するならば、不採用となったフェントンの「君ヶ代発祥之地」である。
ここで、光明寺の名誉のために申し添えておきたい。日本最初の吹奏楽団薩摩バンドがここで結成され、ここがその合宿所となっていたのは紛れの無い事実である。

日の丸の歴史は極めて古い。古代では天照大神(あまてらすおおみかみ)を太陽神とし、日本人は太陽神の末裔と考えていた。即ち「日の本の人」なのである。
中国の隋書に、日本から遣隋船が来たことが記録されている。隋は西暦581年中国を統一し618年に唐に滅ぼされた。
小野妹子(おののいもこ)の遣隋船が持参した口上書は、「日出處天子致書日没處天子無恙云々」とある。「日出づる処の天子、日没する処の天子に書を致す。つつがなきや、うんぬん」である。意気軒昂な挨拶ではあるが、当然相手を怒らせてしまった。「日本の天子」と名乗ったからである。隋の煬帝から小野妹子に託された返書のあて先は「倭王」宛てになっている。

日本の船に「日の丸」の旗がはためくようになったのは、室町時代の勘合貿易以降(1401~1549年)である。日本の船籍を表す旗として、日本船は「日の丸」をへんぽんと翻しつつ、極東の海を闊歩していた。
16世紀にはシャム(現在のタイ)には、アユタヤ(バンコクの北方)郊外に日本人町が出来ており、「アユタヤ」王朝には日本人の雇兵隊もいた。
アユタヤ侵略を目指して上陸してきたスペイン艦隊の陸戦隊を、日本人町の頭領山田長政は、日本義勇兵を率いて「日の丸」を掲げて迎撃し、撃退した。

鎖国を行った江戸時代は、国籍表示よりも藩籍表示が重視され藩の旗を掲げるようになっていった。ただし幕府海軍は「日の丸」を使用していた様である。1860年勝海舟が太平洋横断を行った三本マストの咸臨丸(かんりんまる)の船尾には、「日の丸」の旗が翻っていた。

幕府陸軍も「日の丸」の旗を掲げていた様である。幕軍のフランス式騎兵隊の調練の絵に、「日の丸」をかざして乗馬している人が描かれている。

戊辰(ぼしん)戦争(明治元年-明治2年:1868-1869年)では、官軍の陸軍は錦旗を掲げて進軍した。錦旗は元公卿であった岩倉具視の発案によるものである。
1862年三条実美らの進言により、孝明天皇は岩倉具視らに辞官・蟄居を求められた。皇女和宮の降嫁の際に岩倉具視も同道していたので、親幕派と見做されたようである。
錦旗は、岩倉具視が洛北の岩倉村に蟄居中に発案し、薩摩藩・長州藩に作成させた。赤地の細長い布地の上部に金色の丸い日像があり、その下に「天照皇太神」と金字で書いてある。

戊辰戦争の発端は、1868年1月26日幕府軍艦2隻が兵庫沖で薩摩藩軍艦に発砲して始まった。引き続き27日には新政府軍と幕府軍との「鳥羽・伏見の戦」へと拡大していった。「日の丸」の旗と「天照皇太神」の旗との本格的な戦争になったのである。奥羽越列藩同盟も共通の旗として「日の丸」を使用し、会津の白虎隊も「日の丸」の下で戦った。

戊辰戦争は、新政府軍の勝利に終わり、幕府は消滅した。しかし「日の丸」の旗は、新政府に引き継がれ、明治3年(1807年)1月27日制定の太政官布告により、「御国旗」と規定された。これ以降「日の丸」は日本船の船籍を示す旗として使用され、事実上の国旗として使用されていた。法律上国旗と制定したのは平成11年(1999年)8月13日である。
以上

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