ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアの中央同盟軍とイギリス・フランス・ロシアの連合軍との間で戦争が始まった。
戦争のきっかけは、1914年6月28日 オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビア国サラエボ(現在のボスニア・ヘルチェゴビナの首都)で暗殺されたことによる。
オーストリアは、7月23日 2日間の猶予期限付きで10か条の最後通牒を発した。10か条の内容は、セルビア内での「反オーストリア活動の禁止・弾圧」・「犯人逮捕・尋問」「前記2者にオーストリア政府機関を参加」等である。
セルビアが司法手続きに関するオーストリアの関与を拒否したため、世界大戦の引き金が自動的に引かれてしまった。後は各国の軍事同盟の配線に従って信号が伝わり、全世界が戦争に巻きこまれていった。
日本は日英同盟により、8月23日宣戦布告し連合国側で参戦した。
中国の山東半島の付け根に青島(チンタオ)と言う都市がある。ここにドイツ軍の要塞があり、ドイツ東洋艦隊の基地となっていた。会戦とともに、主力艦は東回りで本国帰還を目指したが、アルゼンチンの近くフォークランド沖でイギリス艦隊と遭遇し壊滅した。
青島のドイツ軍要塞への攻撃は、10月31日から開始され、イギリス陸海軍との共同作戦で行われた。この時ドイツ軍は、飛行機による日本軍の偵察を行っていた。日本軍は空中戦を挑んでみたが、成果は得られなかった。
日本陸軍はドイツ軍要塞に重砲弾の雨を降らせ、ドイツの要塞砲を沈黙させ、11月7日青島要塞は陥落した。
日本海軍は、南洋諸島(現在のパラオ共和国・ミクロネシア連邦・マリアナ諸島)のドイツ軍基地の攻撃を行った。
ロシアは、1917年の二月革命でニコライ2世皇帝が退位し、共産革命の坩堝と化した。共産政府はドイツ軍と講和し、ドイツ軍は安心して西部戦線に集中できるようになった。
アメリカの参戦は、1917年4月6日である。総兵力210万人のアメリカ軍の登場で、西部戦線の均衡が崩れていった。
1918年11月11日 連合国とドイツの休戦協定が締結され、第1次世界大戦は事実上終結した。最終的な講和は、1919年6月28日のヴェルサイユ条約により完了した。
この戦争の特徴は、潜水艦・飛行機・戦車・毒ガス(塩素ガス)の登場である。
潜水艦はドイツで発明され、U-Boot と呼ばれた。Uボートにより、商船5千隻余りが撃沈されている。
飛行機は両軍ともに偵察用に使用しただけで、空中戦は成立しなかった。
キャタピラーで走る戦車はイギリスで発明され、Mark I 型戦車が実際の戦闘に参加した。投入した49基のうち、戦闘に参入できたのはわずか数基であり、大きな効果はなかった。当時戦車を『タンク』と呼んだのは、イギリスの『戦車開発プロジェクト』の秘密名称が「Tank Supply :水槽供給 委員会」であったからである。
毒ガスは、ドイツ軍が使用した。風向きがドイツ軍 ⇒ 連合軍 の時を見計らって、高所から塩素ガスを放出した。
第1次世界大戦の終了により、ドイツ領だった南洋諸島は日本の「信託統治領」となった。
2.満洲国(南は朝鮮半島に接する中国東北部)
1912年1月1日 中國大陸に孫文が中華民国を建国した。清朝12代最後の皇帝・愛新覚羅溥儀
(あいしんかくらふぎ:アイシンジュエルオ・プーイー)は、1912年2月12日退位した。
その後袁世凱が、中華民国の大統領となったが、孫文は中国国民党を作って袁世凱と対立した。孫文亡き後、蒋介石(1887~1975年)が後継し、北伐を行った。
この時南京事件(1927年3月)を起こしている。軍人・民衆の一部が反帝国主義を叫び、南京に在った日本を含む外国領事館と外国人居留地を襲い、外国人に対し暴行・略奪などの大変な残虐行為を行っている。
1931年9月18日 日本関東軍の謀略により、柳条溝事件が発生した。日本国が権益を持つ南満州鉄道の爆破事件である。場所は中国東北部の瀋陽(シャンヤン)市付近である。関東軍は中国軍の犯行と発表したが、関東軍の自作自演の爆破であった。
これを契機として、関東軍は満州事変へと戦争を拡大し、満鉄沿線の主要都市から中国軍をことごとく駆逐し、これらの都市を占領した。(1931/11~1932/02)
関東軍は、1932年3月『満洲国』建国を宣言し、清朝最後の皇帝溥儀を満洲国の執政とした。
当時の日本国の犬養内閣は、満洲国不承認の方針であったが、5・15事件で総理大臣犬養毅が海軍将校たちによって暗殺された。続く斎藤實(海軍大将)内閣では、軍の圧力や世論に押されて1932年9月 日満議定書で満洲国を承認した。
中華民国の大統領蒋介石は、柳条溝事件を国際連盟に提訴し、国際連盟からリットン調査団が派遣された。
調査団の報告書は、「①満洲は中国の一部であるが、②満洲の自治政府建設について『日・中新協定の締結』を提案」する勧告であった。
国際連盟総会(1933年2月24日ジュネーブ)の議決結果は、賛成42国・反対1国(日本)・棄権1国(シャム:現タイ国)投票不参加1国(チリ)であった。これを不服として、日本は国際連盟を脱退した。
残された道は、太平洋戦争へと続く孤独な道を、独り寂しく歩むだけとなってしまった。
3.中華民国(1921年~)
1912年1月1日 中国の国家として設立宣言を行った。初代大統領は孫文(1866-1925年)である。その後袁世凱が大統領として、北京政府(1912-1928年)を樹立した。
これに対し孫文は1919年 中国国民党を創設し、1921年 中華民国政府を広州で立ち上げた。
孫文の後継者蒋介石は、1926年7月1日北伐宣言を発し、中華民国軍は北京政府打倒に向かった。1927年3月下旬、北伐軍は上海・南京に入城し、中華民国政府を南京で樹立した。この時民族主義を掲げ、共産主義者の弾圧・排除を行った。
1928年6月8日 蒋介石の北伐軍は北京に入城し、北京政府は瓦解した。9日北伐完了を宣布し、中国は中華民国として統一された。
その後日中戦争により日本の侵略を受け、首都を重慶(じゅうけい:チョンチン)に移し、太平洋戦争(第2次世界大戦)の終了を迎える。
その後毛沢東の率いる中国共産党軍に追われ、台湾に逃れ、台北を中華民国の首都とした。(1949年12月)
4.日中戦争(1937~1945年)
日中戦争は、盧溝橋事件がきっかけである。盧溝橋は、北京市南西15km程の所にある盧溝河(永定河)に架かる、美しい橋である。
盧溝橋東北の荒れ地で夜間演習を行っていた日本軍に対して、1937年7月7日 中国軍が発砲してきた。
日本軍が、北京郊外まで派兵している根拠は、1901年9月7日 締結された「北京議定書」である。これは日本国を含む列強諸国が、清国に対して強制した全くの不平等条約であった。
海岸から北京までの自由通行を阻害しないために、この間の各地点を列強が占領する権利を認める。と言うのがその一つである。
これに基づき、列強の軍が駐留していた。日本軍4千人・フランス軍2千人・アメリカ軍千人・イギリス軍千人程度の他、イタリア軍もいた。日本人居留民1万7千人・外国人居留民1万人程度である。
中華民国政府は、盧溝橋事件の現地決着を認めず抗日武力行使を決定し、戦線は拡大して日中全面戦争に突入した。戦線が最大に拡大したのは、1938年10月頃である。
北は満洲国を擁し、西方では天津・北京の領有はもちろん、太原・洛陽あたりまで進出しており、長江(揚子江)流域では、武漢まで進出していた。
中華民国蒋介石総統は、重慶を首都として抗日戦を続けた。
5.ノモンハン事件(1939年5月11日~31日:6月17日~8月31日)
満洲国を作った日本は、1930年代にモンゴル・ソ連と国境線をめぐる幾多の紛争に悩まされた。1939年には紛争件数200件程度にまで達した。その最大のものがノモンハン事件である。
第1次ノモンハン事件では、日本・満洲軍2千人余り、ソ連・モンゴル軍1,500人程度の戦闘であった。日本陸軍の九七式戦闘機は圧倒的に強く、ソ連機を数十機を撃墜している。
第2次ノモンハン事件では、圧倒的な物量のソ連軍の攻撃により、日本軍は「ソ連の主張する国境線」外に叩き出されてしまった。
日本軍は6万人程度出動したが、戦死・戦傷・戦病で約2万人が戦線を離脱している。九七式戦闘機に対しても、ソ連は「ドッグファイト」を避けて、『一撃遁走』戦術を採用し、日本戦闘機に損害が出てきた。
これにより、関東軍の北進政策は完全に行き詰まって、放棄せざるを得なかった。
以上
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