2016年8月19日金曜日

女性の時代(ヨーロッパ編)

1 サッチャー イギリス首相

女性の首相としては、まず第1に「鉄の女:Iron Lady」として世界中に偉名を轟かせた、イギリス第71代首相(1979-1990)マーガレット・ヒルダ・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher:1925-2013)を挙げなければならない。

サッチャーは、オックスフォード大学で化学を学んだ『理系女』で、英国で初代の女性首相である。
1982年南大西洋でフォークランド紛争が勃発した(4/2~6/20)。フォークランド諸島は、南米のアルゼンチンに近い群島で、1860年頃から英国人が多数定住し、英国が実効支配を行っていた。
アルゼンチンは、以前からフォークランド諸島の領有権を主張しており、1982年4月2日武力制圧を試みた。アルゼンチン陸軍4,000名程が出動し、殆ど無傷でフォークランド諸島を制圧した。

サッチャー英首相は、4月3日機動艦隊の編成と発進を命じた。空母2隻を中軸とする49隻から成る英艦隊の派遣である。
イギリスの反撃は、4月25日サウス・ジョージア島奪回から開始され、以降順次フォークランド諸島の奪回作戦が追行された。6月20日に英国が一方的に停戦宣言を出し、フォークランド紛争はイギリス艦隊により鎮圧された。鉄の女の面目躍如である。
1990年2月5日アルゼンチンと英国は、外交関係を正式に回復した。

現在もアルゼンチン側は、フォークランド諸島の領有権を主張しているが、英国側は実効支配の現状で満足しており、この問題に深入りせず、意に介さないように見受けられる。

2 メイ イギリス首相

2016年6月23日に実施された『英国のEU離脱』国民投票は、51.89%で「EU離脱」を決めた。
第76代英首相 テリーザ・メアリー・メイ(Therese Mary May:1956- 61歳 )は、「EU離脱」後に最初に選ばれた首相であり、女性英国首相としてはサッチャーに続く2代目である。オックスフォード大学で地理学を専攻している。

英国は国民投票で「EU離脱」を決めたが、現在まで離脱手続きはEUに対し全く進めていない。
貿易関係の影響は最小限にとどめ、難民受け入れは拒否したい。このためには離脱手続きを曖昧にしておくのが最良の策と思われる。テリーザ英首相は、なかなかの智恵者である。

3 クレッソン フランス首相

フランス第5共和政 第12代首相(1991/5~1992/4)エディット・クレッソン(Edith Cresson:1934-82歳)は、フランス史上初めての女性首相である。人口学博士。

1975年社会党に入党。ミッテラン内閣で1981年農相、1983年通商観光相、1988年欧州問題相を歴任した。

首相在任期間は1年ほどで極めて短い。外交センスはゼロに近く、外国に対する『ヘイト・スピーチ』を乱発していた。バブル期の好景気に沸く日本に嫉妬してか、日本バッシングは特に激しかった。アングロサクソンへの嫌悪感も相当のもので、「ほとんどのイギリス男は、ホモだ。」と言ってのけた。

4 メルケル ドイツ首相

第8代ドイツ連邦共和国首相(2005-現職)アンゲラ・ドロテア・メルケル(Angela Dorothea Merkel:
1954年-62歳)は東ドイツ出身で、理論物理学で博士号を取得した才媛である。
サッカー好きで、「ドイツ代表の12番目の選手」を自任している由。
米タイム誌の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」(2015年度)に選ばれている。

1989年1月「ベルリンの壁」が壊された。この時35歳の物理学者メルケルは、『政治家としてドイツ統一を果たし、市場経済を導入する。』と固く決意した。
理論物理学者を捨てて、政治家への大変身であった。

1990年10月3日、西ドイツが東ドイツを編入する形で、ドイツ再統一が行われた。「事態の進行」は、メルケルの予想以上に早く進展していった。
一方メルケルは、CDU党(ドイツキリスト教民主同盟)に入党し、1990年12月連邦議会議員に初当選した。初当選ながら、第4次コール内閣の「女性・青少年問題担当相」に抜擢され1991年1月就任した。
第5次コール内閣では、「環境・自然保護・原発保安担当相」に就任(1994年11月)。

2005年9月の総選挙で、CDU・CSU(キリスト教社会同盟)が僅差で比較第1党となった。安定した政権運営のため、対抗馬のSPD(ドイツ社会民主党)も加えた3党連立内閣を作った。連立内閣の首相は、メルケルであった。
51歳での首相就任は、歴代最年少である。

2006年末 任期後半の目標として、連邦制改革・官僚主義の打破・科学技術振興・エネルギー政策・財政再建・少子化対策・労働対策・健康保険制度改革を挙げている。最後の「健康保険制度改革」を最重要課題とした。

メルケルは、2007年前半の「EU議長国」と6月の第33回主要国首脳会議(独・仏・伊・英・EU委員長・ロシア・米・カナダ・日本)議長を無難に務め上げた。

2009年9月の総選挙で、CDU・CSUが勝利し、SPDとの連立を解消し、FDP(自由民主党)との連立とした。第2次メルケル内閣である。

2011年3月11日の東日本大震災で、福島第一原発で炉心溶融の大事故が起こった。
これが主因となって、独首相メルケルは同年5月30日ドイツのエネルギー政策の大転換を行った。『2022年までに、国内すべての原発17基を閉鎖する。』と決定した。

ドイツのエネルギー消費は、1990年以降殆ど一定である。褐炭を豊富に産出し、電力供給は石炭火力発電が主体である。1998年以降、電力の全面自由化が行われている。
2000年から固定価格買取り制度が持ち込まれ、風力・太陽光発電等の再生可能エネルギー発電の電力は、割高の一定の高価格で買い取る制度となった。このため「ドイツの電力料金は、EU内では極めて高い国の1つ」となっている。
「固定価格買い取り制度」は、第5次コール内閣で策定されたもので、当時「環境・自然保護・原発保安担当相」であったメルケルの関与が強く推測される。

しかし反面、再生可能エネルギーの問題点もクローズアップされる。
太陽光・風力発電などの再生可能発電量が増えるにつれ、電力系統の不安定化・供給信頼度の維持困難が顕在化し始めた。恐らく今後電力の安定化のために、「石炭火力の増設」かフランスからの「電力輸入」を考慮せざるを得ないであろう。

メルケルは、国内に根強い抗議運動が在るにも関わらず、2015年難民100万人のドイツ移入を
許可している。
他方イギリスでは、国民投票(2016年)で『EU離脱』の選択を行った。「難民受け入れ拒否」がその主因の1つであったと推定されている。

メルケルは「首相は、3期で終える。」と明言している。任期は2017年9月末(63歳)。
誠に巨大な、偉人女性政治家である。

5 ブルントラント ノルウェー首相

ノルウェー王国の初めての女性首相がグロ・ハーレム・ブルントラント(Gro Harlem Brundtland:1939/4/20 -77歳)である。
1963年オスロ大学卒。1964年米国ハーバード大学に留学。小児科医師。
1974年環境相に就任。
1977年総選挙に立候補、初当選。
1981年2月ノルウェー首相に就任。同年10月総選挙に敗れて退任。

1984 ~ 1987年 国連の「環境と開発に関する世界委員会」の議長を務めた。
ブルントラント委員会と呼ばれている。報告書には『持続可能な開発』の概念が貫かれている。

1985年再度首相に就任。1989年総選挙に敗れて退任。
1990年10月第3次ブルントラント内閣の首相となる。1992年1月ノルウェー首相として、日本を公式訪問している。
1996年10月首相辞任。

1998年4月、世界保健機構(WHO)の事務局長に就任した。持論の喫煙批判を基に、「たばこの規制に関する世界保健機構枠組条約」の作成・締結を主導した。
2003年WHO事務局長を退任。

6 ソルベルグ ノルウェー首相

ノルウェーの2代目女性首相は、エルナ・ソルベルグ(Erna Solberg:1961/02 - 55歳)である。
1986年ベルゲン大学で社会学・政治学・統計学・経済学 修士号を取得。
1979 ~ 1983年と1987 ~ 1989年ベルゲン市会議員。
1989年国会議員に初当選。以来5回再選されている。

2001~2005年、ボンデヴィーク内閣の「地方行政・地域開発」相として入閣。亡命希望者に対する強硬姿勢や自説の主張の固持などで、メディアからは「鉄のエルナ」と呼ばれていた。
2004年から保守党の「副代表」から「代表」に昇格している。
2013年9月の総選挙で保守党が勝利し、ソルベルグは10月16日ノルウェー首相に就任した。

7 ヨハンナ・シグルザルドッテル アイスランド首相

アイスランド共和国は、北海道と四国を合わせた程度の面積(韓国と同程度)の国である。北端は北極圏に接している。
ヨハンナは首都レイキャビクで生まれ、(1942年10月 - 73歳)、大学卒業後旅客機の客室乗務員(スチュワーデス)をしていた。
労働組合で認められ、政治家を目指し、1978年に国会議員に当選する。
2007年「社会問題担当相」として入閣した。
2009年1月首相が健康上の問題で辞任し、ヨハンナの「社会民主同盟」と「緑の党」で連立内閣を作り、2月1日ヨハンナがアイスランド首相に就任した。
同年4月の総選挙で勝利し首相を継続した。
2013年4月の総選挙で敗北し政界を引退した。

アイスランドでは、同性結婚が法的に認められており、2010年6月ヨニナ・レオスドッテルとの同性結婚を届け出た。同性結婚した初の首相である。
ヨハンナには過去に男性との結婚歴があり、2人の子供がある。

8 ティモセンコ ウクライナ首相

ユーリア・ティモセンコ(1960年- 55歳)は、ウクライナ共和国第10代(2005/1/24-2005/9/8)・第13代(2007/12/18-2010/3/3)首相であった。
ウクライナは、1991年ソ連から独立した。首都はキエフである。
ウクライナは、南は黒海・アゾフ海に接し、北はベラルーシに接する。東はロシアで、西はポーランドである。

ロシアのカスピ海で産出する石油・天然ガスの欧米向け輸出港が、黒海に突き出たウクライナのクリミヤ半島周辺の港となっている。ウクライナは、国内でのエネルギー資源の産出はなく、殆どすべてロシアに依存している。

ユーリヤの父は、ユーリヤが3歳の時家庭を捨てた。母はロシア人である。母の手元に残されたこの小さな女の子が、やがて国内屈指の資産家となり、国家首相となったのである。

ユーリヤは、1979年(19歳)、ソ連の官僚であったウクライナ人のティモセンコと結婚した。1984年国立大学を卒業し、その後経済学博士号を取得している。
1984~1988年 機械製造工場勤務。1989年ビデオの「レンタルチェーン店」を設立し大成功した。
ソ連崩壊(1991年)後1995年まで、石油製品販売会社の重役を務めた。その後1995~1997年「ウクライナ統一エネルギーシステム」社長を務め、ウクライナ1の資産家となった。
但し国内的には脱税容疑を持たれ、ロシアからはガス不正取引で指名手配されていたようで、疑惑の多い女性でもあった。

1996年政治家に転身、補欠選挙で国会議員に選出された。1998年再選・2002年3選。
1999~2001年副首相(燃料エネルギー部門担当)に就任した。電力市場の近代化で、国庫収入を増やした功績は有る。
2001年に社長時代の「文書偽造」「天然ガス密輸入」容疑で逮捕された。数週間後嫌疑不十分で釈放されている。
釈放後与党を脱し、『ユーリヤ・ティモセンコ・ブロック』を結成し、代表となる。

2004年の大統領選は、「親ロシア派のヤヌコーヴィチ」と「親ヨーロッパ派のユシチェンコ」の一騎打ちであった。ティモセンコはユシチェンコを応援し、ユシチェンコが大統領に当選した。従ってティモセンコは、2005年2月4日ウクライナ首相に就任した。

しかし2010年大統領選でヤヌコーヴィチが当選し、ティモセンコは失脚した。

9 その他のヨーロッパ女性首相

①デンマーク 41代首相2011~2014:ヘレ・トーニング-シュミット(1966-49歳)
②ポーランド 第三共和政5代首相1992~1993:ハンナ・スホツカ(1946-70歳)
③ポーランド 第三共和政15代首相2014~2015:エヴァ・コパチ(1956-59歳)
④ポーランド 第三共和政16代首相2015~現職:ベアタ・シドゥウォ(1963-53歳)
⑤ポルトガル 革命以降7代首相1979~1980:マリア・デ・ルルデスピンタシルゴ(1930-2004)
⑥リトアニア 共和国初代首相1990~1991:カジミラ・プルンスキエネ(不詳)
⑦クロアチア 1967~1969:サヴカ・ダブチェヴィチ・クチャル(不詳)
⑧クロアチア 共和国9代首相2009~2011:ヤドランカ・コソル(1953-63歳)
⑨フィンランド 41代首相2010~2011:マリ・キビニエミ(1968-49歳)
⑩スロバキア 6代首相2010~2012:イヴェタ・ラジチョヴァー(1956-59歳)
⑪スロベニア 9代首相2013~2014:アレンカ・ブラトゥシェク(1970-46歳)
⑫ラトビア 13代首相2014~2016/2:ライムドータ・ストラウユマ(1951-65歳)
以上

2016年5月28日土曜日

負の投票権(ふの投票権)

投票権とは、通常『選挙権』と呼ばれている権利である。「参政権」とも呼ばれる。一般的には『被選挙人:立候補者』の中から、特定の人物を選んで投票できる権利である。
衆・参の議員選挙や都道府県の首長や議員選挙は、立候補者の中から特定の人物名を選定し、投票用紙に当該人物名を記載して「投票箱」に「投票用紙」を投入することによって投票権は行使される。この投票権を、正の投票権(positive vote)と呼ぶことにする。

これと真逆に、絶対に当選させたくない人名に × 印を付ける投票権を、負の投票権(negative vote)と呼ぶことにしたい。
『正の投票権』は通常の選挙で使用されているが、『負の投票権』も極僅かな例ではあるが実際の選挙で使用されている。

衆議院議員選挙と併設して行われる、『最高裁判所判事の国民投票』である。『国民投票』と呼称し、信任させたい意図を露骨に示しながら、『負の投票権』を行使させている奇妙・奇天烈な選挙である。
従って、直接の選挙結果は無意味に近いが、統計学や人間工学において望外の示唆に富む教訓を与えてくれる事になっているのである。

2009年8月30日 衆議院議員選挙と最高裁判事の国民投票が行われ、『負の投票権』が行使された。投票の対象となった最高裁判事は9名であった。氏名の記載順は抽選の由である。投票結果の要約を以下に示す。
  • 1 票当たりの × 数は、平均「0.6 個 / 票」であった。
  • 投票者   6,700万人の大部分は、気まぐれに × を付けたと思われる。
  • 番号が若いほど× を付けられ易い。
  • 番号が1 番進むごとに0.11%ずつ罷免要求率が低下する。
  • ③涌井紀夫氏⑥那須弘平氏には、70万人程度が意図的に×を付けた。
ここで負の投票権の虚しさを言うのは、私の本意ではない。『負の投票権を生かせる正しい選挙方式』を本文で提案したいのである。

現在の投票権は、一般的には下記の方式で『正の投票権』のみが行使されている。
  • 投票者は、白紙の「投票用紙」に候補者名を1 名だけ記入する。
  • 投票者は、候補者名を記入した投票用紙を「投票箱」に入れる。
これを、『正・負の投票権を同時に行使できる方式 : Double Vote System』に改正するのである。
従来の方式では、一番信頼出来そうな人に投票することで、それなりに相応の安心感を得ていた。

改正案では、「あの人には、絶対に当選してもらいたくない」という気持ちにも積極的に対処できることになり、『精神衛生上 誠に好ましい』と思う。

また立候補者においても、「自分に対する世間の嫌悪度」を明示的に知ることができ、大切な反省材料とすることができる。

改正案の要点を下記に列記する。
  • 投票用紙には、予め全候補者名を印刷しておく。
  • 投票者は、〇の候補者と × の候補者を各1名選べる。
  • 該当者名に、〇・ × を付ける。
  • 1枚の投票用紙に、複数個の〇又は × がある場合、当該記号は無効とする。
  • 候補者の得票数は、〇を「+1」に、× を「-1」にカウントする。
  • 得票数の大きい人が当選する。
この選挙(正・負 投票権 同時行使 方式 :DVS)は、選挙が若干複雑になるのが最大の欠点である。
しかし一度この世界初の、先進的で素晴らしい選挙を行ってしまえば、各立候補者はそれぞれ『自分には〇を下さい。× は絶対に付けないで』と、有権者に選挙の仕組みを懇切丁寧に説明するのは必定である。
従って有権者も又、自ずからこの『正・負 投票権 同時行使 方式 :DVS』の良さを体感し、熟知することができ、問題点はほぼ解消されることになる。
ともかくこの世界一先進的な素晴らしい選挙制度を、日本国が世界に先駆けていち早く採用することを私は強く希望しています。

『正・負 投票権 同時行使 推進党 :DVS党』でも作って、日本国中津々浦々の ありとあらゆる選挙を、改正して行きたい気持ちでいっぱいです。賛同者大募集中!。
以上

2016年3月12日土曜日

水野勝成

水野家は、三河の国に刈屋城(愛知県刈谷市)を築き拠点としていた。そして松平氏との間で、安城(あんじょう:安祥城があった)の争奪戦を行っていた。
最終的には、松平氏に安城を領有され、水野忠政(1493-1543年)は止むを得ず松平信忠(1490-1531年)と講和した。

松平氏を継ぐ徳川家康(1543-1616年)と水野勝成(1564-1651年)は、従兄弟(いとこ)である。徳川家康の母・於代(おだい:水野忠政の娘)の方は、水野勝成の伯母である。

若年の水野勝成は気性が荒く、父の籠臣とそりが合わず激情に駆られて籠臣を切り捨て逐電(ちくでん:素早く逃げ去る)してしまった。直情径行の性(さが)であった。これが、水野勝成の流浪の旅の始りである。
父忠重は、嫡男勝成を勘当した(1584年)。その後10年余りの年月を経て、徳川家康の斡旋で勘当は解消されている(1599年)

水野勝成は、豊臣秀吉の四国征伐(1585年)に加わり秀吉から700石の知行を貰った。しかしその後、朋輩を殺害して秀吉の怒りを買い、知行地から出奔した。出奔後は秀吉の追及を逃れて九州各地を流浪し、転戦していたようである。

秀吉死去(1598年)後、石田三成の思惑どおりに五大老の一人であった上杉景勝が徳川家康と対立し、会津で戦の準備を始めた。家康はこれに乗った振りをして、会津征伐の軍を発し(1600年)、手回し良く秀吉子飼いの諸大名も引き連れ下野国小山(栃木県小山市)まで出向いた。水野勝成も、家康に従って下野国小山に出張った。
小山での家康は、進軍する意図は全くなく、「天下分け目の大会戦には味方してくれるよう」諸大名に手紙を乱発していた。

所が刈屋の水野家で、当主水野忠重が石田三成の放った刺客に襲われ殺害される変事が起こった。変事の急報は、下野国小山にいた嫡男の水野勝成に届けられ、徳川家康の知るところとなった。
家康は、水野勝成に遺領相続を命じ、家康が書いた刈屋の水野家籠臣上田清兵衛宛ての書状を持たせた。父忠重による勘当が長く、勝成と水野家家臣との馴染みの薄いのを気遣った家康の気配りである。

天下分け目の関ケ原の合戦(1600年)では、水野勝成は大垣城の抑えに回されている。
関ケ原の合戦で大勝利した徳川家康は、翌年水野勝成に「従五位下日向守」受任を命じた。明智光秀謀反後、『日向守』を受任したものがいなかったのである。

徳川家康は、征夷大将軍となり幕府を開いた(1603年)。将軍職の世襲を狙い、朝廷に対し嫡男秀忠を右近衛大将への推薦を奏上させ同年内に勅許をえた。
2年後正月、家康は江戸を発ち伏見城に入った。嫡男秀忠も東国の諸大名を引き連れた大軍団で3月伏見城に到着した。
4月家康は、「将軍職辞任」と「後任として秀忠の推挙」を朝廷に奏上した。同月内に勅許され、徳川秀忠が2代将軍となった。

1608年、水野勝成は備中高梁(たかはし:岡山県)から領国・刈屋城に妻「お登久」と嫡男「勝俊(1598-1655年)」を呼び寄せている。同年勝俊は、徳川秀忠に仕えることになった。

大阪の陣(1614年冬の陣:1615年夏の陣)で豊臣家が滅亡した。この論功行賞で、水野勝成は大和郡山(奈良県)6万石に転封された。

1619年福島正則の改易により、水野勝成は2代将軍秀忠から備後(広島県)10万石に転封を命じられた。
水野勝成は備後国神辺城を放棄し、現在の福山市に新城建設を行った。「武家諸法度」で新城建設禁止であったが、例外として認められ、福山城(空襲で焼失)は近世城郭最後の城(1622年夏ごろ完成)となった。10万石には不釣り合いの巨城であった。

カリスマ少年天草四郎を総大将とする『島原の乱』が勃発した。肥前島原(長崎県諫早市・島原市・雲仙市・南島原市)から肥後天草(熊本県天草市)一帯にかけてのキリシタンを中軸とする大内乱の一揆である。
1637年12月に一揆が始まり、1638年2月末に鎮圧された。

幕府は反乱鎮圧のため板倉重昌らを急派し、九州諸藩による討伐軍を編成したが討伐軍は敗走した。

福山藩には、1637年幕府から出動準備が伝えられていたが、1638年早々に早打ちを以て出陣命令が到来した。
手ぐすね引いて待っていた水野勝成は、鞆港(広島県福山市)より百数十艘の兵船を連ね六千三百余人を引き連れて出発した。
  • 出征家老   上田玄蕃他
  • 留守城代   中山将監他
  • 旗奉行     上田清兵衛他
  • 侍大将     今枝勘右衛門他
  • 弓大将     蟹江又左衛門
  • 鉄砲大将    黒川三郎左衛門他
  • 足軽大将   近藤弥之介
  • 長柄大将    上田武太夫
九州以外の諸大名で「島原の乱」に参戦したのは、水野勝成だけである。『鬼日向』の武名は知れ渡っており、幕府の信頼は絶大であった。
幕府は内乱の早期鎮圧のため、『最強の切り札』をタイムリーに切って来たのである。
水野勝成は江戸幕府の信頼にこたえ、勝成(当主)・勝俊(嫡男)・勝種(嫡孫)の親子孫三代ともに参戦した。

水野勝成は、家督を勝俊に譲り(1639年)、一分斎と号して隠居した。福山城内で死去(88歳:1651年)。菩提寺は賢忠寺(曹洞宗)である。

水野勝成の旗印で有名なのは『裏永楽』である。永楽銭の裏側は、文字も模様も全くない。丸い銭に口の穴が開いているだけである。

銭の旗印では、真田の六文銭も有名である。真田の軍旗として『六文銭』を定めたのは、真田幸隆である。戦死者の『三途の川の渡し賃』と考えたのであろう。

幸隆の孫が真田信繁(幸村)である。NHK大河ドラマ『真田丸』(2016年)の主役として活躍するであろう。真田の『六文銭』も、冥土で使うので『裏永楽』となっている。

 
以上



2016年2月5日金曜日

世界の原子力発電所 3大事故

国際原子力機関(IAEA)と経済協力開発機構原子力機関(ORCDNEA)が策定した、『国際原子力事象評価尺度(INES)』がある。これは、原子力事象を0~7段階に分類したものである。

  1. 逸脱
  2. 異常事象
  3. 重大な異常事象
  4. 事業所外への大きなリスクを伴わない事故
  5. 事業所外へリスクを伴う事故
  6. 大事故
  7. 深刻な事故
0. 段階は、平穏無事な通常状態である。

『 レベル7 』の筆頭として「チェルノブイリ原発事故」を挙げることができ、次に「福島第一原発事故」を挙げなければならない。
原発事故としてその次に大きいのが、『 レベル5 』の「スリーマイル島原発事故」である。
チェルノブイリ原発4号機は、黒鉛減速・圧力管型原子炉であり、福島第一原発1・2・3号機は沸騰水型軽水炉(BWR)であった。スリーマイル島原発2号機は加圧水型軽水炉(PWR)である。
それぞれ原子炉の型式は異なっているが、これらの事故と被害の概要を取り纏めた。

米国型の原発は格納容器を持ち、原子炉本体や主要部分は格納容器内に収納しており、万一の事故が発生しても放射性物質を環境に放出しない設計思想となっている。
ソ連の原子炉は格納容器がないので、事故の際の放射性物質の環境放出は深刻な事態となってしまった。

1.チェルノブイリ原発事故

炉形式は、ソ連独自の黒鉛中性子減速・圧力管型軽水炉である。
ウクライナの首都キエフの北北西 ベラルーシの国境近くにチェルノブイリ原発があり、停止中の4号機が運転員の誤操作により暴走した。1986年4月26日1時23分(モスクワ時間)事故が発生した。
翌27日スウェーデン・フォルスマルク原発の環境線量モニターが、特定核種の高線量の放射性物質を検出した。東風に乗って、チェルノブイリから運ばれたものである。ソ連政府は国内外において事故を極秘にしていたが、スウェーデン政府当局の調査や近隣諸国の同様の報告もあり、4月28日チェルノブイリ原発事故の事実を認めた。
29日にはアメリカが、軍事偵察衛星の写真を公表した。チェルノブイリ原発4号機の原子炉建屋の屋根が吹き飛ばされ開口している写真である。

炉心溶融事故(メルトダウン)であり、水蒸気爆発と水素爆発(ジルカロイ・水反応による水素発生)
の2つの爆発も起こっている。更に中性子減速材の黒鉛も火災を起こしていた。史上最悪の原発事故である。

チェルノブイリ原発のごく近くに、人口5万人程のプリピャチ市が造られていた。チェルノブイリ原発の従業員居住地とし、建設当時は機密都市として地図上には記載されなかった。ソ連政府は、事故の翌日から10km圏内の近隣住民の避難を開始し、5月2日には30km圏内の住民の避難を決定している。
ウクライナ中から1200台ほどのバスが集められ、プリピャチ市民は居住地から撤退していった。現在は無人のゴーストタウンとなっているようである。

事故後多雨であったドイツでは、ビニールハウス栽培の野菜の汚染が起こった。潅水に雨水を使用したためである。牧草地も汚染され、牛の放牧も問題となったようである。
フランスにも汚染は及んだと推定されるが、国内に多数の原発を保有するフランスは、チェルノブイリ原発事故の汚染の影響を黙殺してしまった。

原発事故での直接の死者は、ソ連当局の発表では原発運転員・消防士合わせて33名である。実際には、この他にも事故処理に動員された予備兵・軍人・労働者にも多数の死者が確認されているようであるが、詳細不明である。
長期的な放射線障害の推定は百家争鳴の状態で、取り纏め記載は極めて困難で不可能に近くここでは省略する。

2.福島第一原発事故

福島第一原子力発電所の所在地は、福島県双葉郡大熊町・双葉町である。東京電力(株)所有の発電所である。
原子炉の形式は、沸騰水型軽水炉(BWR)で、1号機電気出力46万kw、2 ~4 号機76.4万kwであった。メーカーは、1号機米国GE社、2号機GE・東芝、3号機東芝、4号機日立である。

東日本大震災が、2011年3月11日14時46分過ぎに発生した。原発所在地の大熊町で、震度6 強・最大地震加速度550ガルであった。

運転中の福島第一原子力発電所1・2・3 号機は、地震動を検知し自動的に緊急停止を行った。しかし地震動と津波により、全交流電源を喪失し『原子炉余熱』の冷却が不可能となり、炉心溶融事故となってしまった。
付近には福島第二原子力発電所(東電)や女川原子力発電所(東北電)があった。
いずれも運転中であったが、緊急停止し深刻な事態には至っていない。

国内で作成された事故調査報告書は沢山あるが、主要なものを以下に列記する。

  • 政府事故調
2012年7月23日最終報告書が提出された。
閣議決定により調査委員会が設置され、東大名誉教授(機械工学)畑村洋太郎氏を委員長として活動した。
  • 国会事故調
国会の決議に基づき、調査委員会が設置された。東大名誉教授(医学)黒川清氏を委員長として活動した。
2012年7月5日事故調査報告書が提出されている。
  • 東電事故調電
東京電力(株)が自社で作成した事故調査報告書である。
2012年6月20日付で公表している。
委員長は山崎雅男氏である。
  • その他事故調
学会事故調・民間事故調・等々様々な調査報告がある。


事故の経過概要を以下に記述する。
東日本大震災発生時の、各発電所の状況。

  1.  1・2・3 号機は運転中。電気出力46万kw、78.4万kw、78.4万kw。
  2.  4号機は、分解点検中。
  3.  5・6号機は定期検査中。
運転中の各原子炉は、激しい地震動を検知し自動的に制御棒を挿入し、緊急停止した。
高電圧送電線の鉄塔1基が倒壊したため、外部からの供給電源を失った。又発電所への送電線は、地震動でショート・断線し、変電所や遮断機等の諸設備の故障が起こっていた。
唯一つの頼みは「非常用ディーゼル発電機」であったが、地震後の津波により水没した。
全交流電源喪失状態に陥り、原子炉余熱の冷却手段を失って、1・2・3 号機は炉心溶融事故にまで至ってしまった。

炉心溶融により、燃料棒被覆管の「ジルカロイ」合金と水との反応で水素が多量に発生し、水素ガス爆発により 1・3 号機の原子炉建屋・タービン建屋と周辺設備を大破した。
2号機はブロウアウトパネルが解放され、水素ガス爆発は起こっていない。分解点検中の4号機は、3号機を経由して水素ガスが供給されガス爆発を起こしている。

弊著「原子力発電」から引用。事故以前の福島第一原子力発電所(東京電力提供)。

手前から4・3・2・1 号機。
若干離れて5・6 号機。

震災の翌日(3月12日)1号機の格納容器内圧の上昇で設計圧力を超える恐れが生じ、格納容器のベント弁を開き多量の放射性物質を周辺環境に放出せざるを得なかった。

Mark-I 型格納容器は、構造が複雑で内容積が小さかった。

左図は『Mark-I 型格納容器』である。
最下部が、ドーナツ形の「サプレッション・チェンバー」で、上部がフラスコ形の本体である。
この2つが、たこ足配管で接続されていて、全体として格納容器を構成している。

地震動によるものか炉心溶融の結果によるものか定かではないが、事故後格納容器は破損しており、高濃度の汚染水が海水中に放出されていた。





地震・津波による原子力発電所内の死者は、4名であるが、発電所事故に基づく直接の死者はいない。
政府の住民に対する避難指示は、日数の経過に伴って次々と拡大していった。

  •  3月11日(事故当日):半径3km圏内は避難・10km圏内は屋内退避。
  • 10km圏内避難(当日)
  • 20km圏内避難(翌日)
  • 20~30km圏内屋内退避。(3月15日)
現在も双葉町・大熊町・富岡町・浪江町等の大部分は帰還困難区域・避難指示解除準備区域に指定され、各地に避難した町民たちは未だに見通しのつかない避難生活を強いられている。


3.スリーマイル島原発事故(USA東北部:ペンシルベニア州)

州都ハリスバーグ郊外のサスケハナ川の中州・スリーマイル島に2つの原子力発電所があった。いずれも加圧水型軽水炉(PWR)である。

現在の所有者は、エクセロン社で、1号機電気出力83.7万kw・2号機95.9万kwであった。事故を起こしたのは、「バブコック&ウイルコック社」設計の2号機で、定格出力の97%で営業運転中であった。TMI事故と呼ばれている。事故を起こした2号機は現在廃炉となっている。

国際原子力事象評価尺度(INES)では、レベル5「事業所外へリスクを伴う事故」に相当する『原子炉冷却材喪失事故』であった。

事故は、1979年3月28日4時37分(東部標準時)から始まった。
2次系脱塩塔イオン交換樹脂の移送作業がうまくゆかず、樹脂移送用水が計装用空気系に混入したことが始まりである。
最終的には2次給水ポンプが停止し、蒸気発生器が機能を失った。従って原子炉1次系の圧力が上昇し、加圧器の安全弁が開いた。
所が『安全弁は開いたまま固着』してしまい、原子炉冷却水は水蒸気として失われていった。原子炉は自動的に緊急停止し、非常用炉心冷却装置が作動したが、1次系の圧力が下がり過ぎており、減圧沸騰による気泡で加圧器の水位計が正常に作動しなかった。

2号機の原子炉運転制御室は、『パニック状態』に陥った。100個以上の赤色警告灯が点滅し、警報音は断続しながら果てしなく鳴り響いていた。
まさに『クリスマス・ツリー』の状態になっており、この状態が運転員の正常な思考や判断の大きな妨げとなってしまった。
最終的には、部分的な炉心溶融事故となっている。

事故による、直接の死傷者は0人である。
米国原子力学会は、「発電所から10マイル(16.1km)以内に住む住民の平均被曝量は8ミリレム(胸部X線検査相当)であり、個人単位でも100ミリレムを超えるものはいない」としている。
 
以上

2015年12月3日木曜日

故郷 福山

私は十銭硬貨を、大切に肌身離さず持ち歩いている。十銭とは1円の十分の一であり、現在は通貨としては全く通用しない。
写真の様に、現在の50円硬貨と同様真ん中に穴が開いているので、我が家の鍵と一緒にくっ付けて、持ち歩くのには誠に都合がいい。表には右から左に「銭十」と刻印がある。裏はこれも右から左に「本日大」・「年十和昭」と刻印されている。
製造年が私と同じなので、深い絆に結ばれた気持ちで常に持ち歩いている。
何時頃からこのコインを保管する様になったかは、判然とした記憶がない。このコインと共に故郷・福山を旅立ったのは高校を卒業した18歳の時である。

福山市の基礎を造ったのは、水野勝成(1564-1651年)である。かって安芸国・備後国の領主であった福島正則が改易(1619年)され、同年水野勝成は2代将軍徳川秀忠の命を受け、大和郡山6万石から備後国10万石に転封された。
水野勝成は、蝙蝠山(こうもりやま)に福山城(別名久松城:葦陽城)を築城した。福山城は10万石にしては格式以上に立派な城郭で、5層の天守閣は蝙蝠山に天高く聳えて威容を誇っていた。

築城着手は、1620年春であるが、築城と並行して上水道工事・市街地形成工事も進めた。
これらの諸工事の完成が1622年夏ごろであるから、今考えても舌を巻くほどの突貫工事であった。
蝙蝠山の「蝠」に因んで、水野勝成はこの地を『福山』と呼んだ。

注記1:上図は、明治初年に撮影された福山城である。村上正名著『福山の歴史と文化財』福山文化財シリーズ2(福山文化財協会発行)に掲載されていた写真を引用している。村上正名先生は、中学時代の恩師である。
注記2:下図も、前記図書に掲載されていた福山城天守閣の在りし日の写真である。南南東の方向から撮影されたものである。
水野家は、勝成・勝俊・勝貞・勝種・勝岑(かつみね)の5代で断絶した。勝岑は将軍拝謁の当夜、江戸で敢え無く他界した。僅に2年に満たない命であった。

水野家断絶後、山形城主(出羽国)松平忠雅が備後国に入封した。その後松平氏に代わって阿部正邦が宇都宮から備後国に転封(1710年)されてきた。阿部氏は10代161年間、備後国を治めてきた。
阿部氏の中では、7代藩主・阿部正弘(1819-1857年)が有名である。若干25歳で老中となっている(1843年)。

ペリー提督が米国の東インド艦隊を率いて大統領フィルモアの親書を携え、浦賀に来航(1853年)した。翌年2月ペリーが再来日し、3月「日米和親条約」を締結した。この時老中首座であったのが阿部正弘である。江戸幕府200年余の鎖国を解いたのである。

最後の征夷大将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が「大政奉還」を、明治天皇に上奏(1867年10月14日)し翌日勅許された。
しかし幕府側は、薩摩藩の挑発に乗せられて鳥羽伏見の戦いが起こりこれに敗退した。大阪城にいた徳川慶喜は、京都守護職(会津藩主)・松平容保(かたもり)らと共に開陽丸で江戸に撤退した。これが戊辰戦争(ぼしんせんそう:1868-1869年)の始りである。戊辰戦争は、『江戸幕府を消滅させ明治新政府を確立』させるための戦争であった。幕府方は日の丸の旗を掲げ、明治新政府側は錦旗を掲げて戦った。

錦旗を掲げて東進する、長州藩兵は、1月9日に福山藩領内に侵入し福山城に砲撃を行った。福山藩兵も応戦し銃撃を行っている。しかしその後、家老三浦義建は長州に恭順し、誓詞を提出した。

私が小学生の頃、福山城内の西方の窓の1つから首を出してみると、窓枠の1部が欠けているのを見ることができた。長州藩砲撃跡と聞いていた。砲弾は炸裂弾ではなく、丸い鉄球だったと推測できる。

福山市の福山城は、有名である。JRの福山駅は、福山城の三の丸に作られておりしかも高架であるから、福山城は駅のホームから眼前に仰ぐことができる。
気の毒なのは、北海道の松前城である。松前城は、北海道で唯一の日本城郭であった。松前城が在る場所が福山と呼ばれており、当然そこにあった城が「福山城」と呼ばれていた。
残念ながら失火により焼失してしまった。現在は松前城資料館として再建されている。
北海道の城郭で有名なのは、むしろ函館にある洋式城郭の五稜郭であろう。幕府の函館奉行から五稜郭建設が申請され、五稜郭建設を許可したのは前述の老中・阿部正弘であった。

廃藩置県が行われたとき、備後国は『福山県』となった。このとき、全国では3府302県が出来上がった。
その後福山県は『深津県』⇒『小田県』⇒『岡山県』へと吸収合併されていった。最後に備後国は、広島県に編入(1876/4/18)され現在に至っている。

福山市は、太平洋戦争末期 B29の焼夷弾爆撃により焼け野が原にされた。広島に原爆投下され(1945/8/6)、福山空襲(8/8)・長崎原爆投下(8/9)・ポツダム宣言受諾(玉音放送:8/15)・降伏文書調印(米戦艦ミズーリー上:9/2)で終戦となった。

福山の近くには、大津野村(現在の福山市大門町)に海軍航空隊がおり、市の南東には広島連隊の陸軍歩兵部隊の駐屯地があった。市内には日本化薬や三菱電機の工場があった。
福山空襲の翌日、私は家族を親戚の家に残して、我が身独りで親戚の人たちと一緒に自宅跡に行ってみた。自宅の残骸の瓦礫が一帯に散らばり、隣家や道路の境界も定かでない焼野原の惨状だった。全身の震えが止まらない程の孤独感に襲われた。父は出征して兵隊になっており、母は足が不自由で外出時は乳母車が手放せない。自分は小学5年である。弟は1年生・妹は幼児であった。涙がにじむ目で立ち続けるだけだった。
自分のものとして残ったものは、着の身着のままの着衣と大切にしていた『十銭硬貨』だけであった。
空襲で、蝙蝠山の福山城天守閣も焼失してしまった。

福山空襲の際、不思議なことに陸軍歩兵部隊の駐屯地の兵舎は無傷で焼失を免れた。その旧兵舎を利用して、広島青年師範学校附属中学校が新設され、私は最初の1年生として入学し3年後同校を卒業した。
広島大学が発足し広島大学教育学部付属福山高等学校に入学した。高等学校も焼失を免れた旧兵舎であった。

その後福山市は、町村合併を繰り返して大きく拡大した。現在の市域は約520キロ平方、人口は46万人程度となっている。1950年頃の市域での人口は6万人程度であった。
市旗・市章は蝙蝠をかたどった山印である。福山市の蝙蝠山に由来する。

風光明美で瀬戸内航海の要衝であった鞆の浦は、古来より有名である。特産品としては備後表(畳表)・松永の下駄・府中の箏・鞆の保命酒が比較的古くから知られていた。新市(しんいち)の備後絣も挙げておきたい。最近はくわいの生産も有名のようである。近年は、バラ公園が整備されバラの街としても知られるようになってきた。



以上

2015年11月15日日曜日

もんじゅ 哀れ

もんじゅ は、福井県敦賀市白木2丁目1番地に建設された原子力発電所である。所有者は独立行政法人「日本原子力研究開発機構(国立研究開発法人)」である。文部科学省の所管である。


右の写真は、弊著 原子力発電 から転載したものである。 

「もんじゅ」の正式名称は、『高速増殖原型炉もんじゅ』である。

高速増殖炉とは、高速中性子によるウラン・プルトニウム混合燃料(MOX燃料)の核反応エネルギー(熱)を利用する原子炉である。原子炉内にブランケットと呼ばれる部分を作り、天然ウラン燃料を置いておくと、原子炉の運転で消費するプルトニウムよりも天然ウラン燃料から生産されるプルトニウムの方が多くなるのである。生産プルトニウムと消費プルトニウムの比率を増殖比と言い約1.2が目標である。
打出の小槌のような有難い話であるが、これが増殖炉と呼ばれる処の本当の意味である。

「原型炉」とは、初めて発電を行うテストプラントという意味である。電気出力は、28万kwである。
勿論その前に「高速増殖実験炉」と言うものが建設されており、各種の検証実験が行われていた。原研大洗に建設された「常陽」である。発電はせず、原子炉で発生した熱はそのまま大気中に放出している。

1985年10月、「もんじゅ」建設着工。
1991年5月、機器類の試運転開始。
1995年8月、発電開始。同年12月、ナトリウム漏えい事故。
2010年5月、運転再開。7月、炉心確認試験終了。
同年8月、原子炉上部にある回転プラグから、燃料中継装置が原子炉容器内に落下。

2012年11月、原子力規制委員会は保安規定に基づく機器の点検漏れ 9679個 があったと公表。
2015年11月、原子力規制委員会は『日本原子力研究開発機構(原研)に運転を任せるのは不適当だとし、これに代わる運営主体を定めるよう文部科学大臣に勧告』を決めたようである。

もんじゅ は、発電開始から今日まで僅か3か月間余りしか発電していないのである。しかも現在の状況から考察すれば、運転主体が宙に舞い上がってしまい、悲しいかな現状のまま放置される可能性が極めて高くなったと推察される。

もんじゅ は、日本国の将来のエネルギー問題解決策の夢として、国家プロジェクトとして建設されたものである。日本原子力研究開発機構が国家予算を使用し、国内の原子力メーカー各社がそれぞれ機器の分担を定めて建設が進められた。
大雑把に分担を記載すれば、東芝は原子炉上部に置かれる回転プラグ関係、日立はナトリウム冷却系、三菱は蒸気発生器関係、富士は燃料交換機関係である。
1995年12月のナトリウム漏えい事故は日立所掌分であり、2010年8月の燃料中継装置の落下事故は東芝所掌である。

ナトリウムは常温でも水と激烈な反応を行い、水素ガスを発生する。三菱所掌の蒸気発生器は驚異的な装置である。数百度の液体ナトリウムの熱で、タービン発電機を回す過熱水蒸気を造るのだから大変である。もんじゅの発電期間は僅か3か月程度しかなかったので、「ナトリウム-水」隔壁の腐食減耗は全く問題にならなかった。
富士の燃料交換系は、3か月程度の原子炉運転では全く燃料交換する段階には至っていない。

原子力規制委員会の勧告は、「有識者の非常識」の典型かもしれない。これは自戒を含めた格言である。『有識者も、専門外ではただの素人である。』の意味合いである。

もんじゅの試運転開始から今日までに25年ほどが経過している。時移り人は去り、原子力業界でのナトリウム技術者はほとんど残っていない。2010年の運転が、限界だったのかもしれない。すぐに事故を起こしてしまった。

この期に及んで、日本国中の何処をどのような探し方をすれば『新しい運営主体』が見つかるというのであろうか。
点検漏れ1万か所を放置したまま(特別に危険であると言うわけでもない)、今後も長期間にわたり もんじゅ は放置され続けるであろうと推測され、誠に哀れである。


高速増殖炉の先進国は、フランスであった。フランスは既に高速増殖炉を卒業したように見受けられる。
高速炉フェニックスは、電気出力23.3万kwであった。1968年 着工。運転開始 1974年2月。運転終了2010年2月。
高速炉スーパーフェニックスは、電気出力120万kwである。1977年 着工。運転開始1985年。運転終了1998年12月末日。
フランスは、プルトニウムを再生産する高速増殖炉は、スーパーフェニックスで完了させた。国家政策として、プルトニウムを貯め込むことをやめたのである。

ウラン資源は世界的には有り余るほどある。高性能遠心分離機が開発され、通常の原子力発電所用燃料の低濃縮ウランは簡単に製造できる。
核兵器製造の疑惑を持たれる『プルトニウム貯蔵』は、避けるのが賢明な選択である。

最近フランスで計画されている高速炉は、 ASTRID である。ASTRID の電気出力は、60万kwである。2015年から基本設計開始。2025年頃運転開始予定。
 ASTRID (Advanced Sodium Technological Reactor for Industrial Demonstration)
工業技術展示用の改良型ナトリウム冷却原子炉である。
以上

2015年9月23日水曜日

推古天皇

第33代 推古天皇(在位593~628年)は、第29代 欽明天皇(在位539~571年)の皇女である。古事記では、推古天皇までが記載記述されている。
日本書紀の推古紀では、姿色端麗で挙措動作は乱れなく整い、御歳18で 第30代 敏達天皇(在位572~585年)の皇后となられている。

飛鳥時代の初期(6世紀末頃)の日本では、朝臣(あそん)・蘇我氏と大連(おおむらじ)・物部(もののべ)氏との政権をめぐる軋轢は苛酷を究めていた。蘇我氏は仏教推進派であり、物部氏は仏教排斥派であり、宗教戦争の一面も呈していた。

第32代 崇峻天皇(在位587~592年)は、蘇我馬子の推薦により即位された。物部守屋が推していた穴穂部皇子は、蘇我馬子により殺害されている。さらにその後、物部守屋も殺害され、物部氏は没落し歴史から消えてしまった。
更に更に恐ろしいことに、畏れ多くも崇峻天皇も蘇我馬子の謀略により暗殺されたのである。天皇家歴代で 唯御一人、臣下の謀略で崩御された天皇は、崇峻天皇のみである。しかも崇峻天皇の皇后は、蘇我馬子の娘であった。

絶大な権力を握った蘇我馬子と、推古天皇との血縁関係は『伯父-姪の間柄』である。
推古天皇は、蘇我馬子に推されて即位なされた。御歳39 である。崇峻天皇は、推古天皇の異母弟であった。
朝臣・蘇我馬子の専横により、日本史上で初の『女性天皇』が実現したのである。いや極東においても史上初の女帝であった。

推古天皇は、甥の聖徳太子を皇太子に定め、冠位十二階や十七条憲法などにより、天皇を中心とする中央集権の国家体制を押し進められた。
更に推古天皇は、遣隋使を5回以上も派遣され、中国との外交についても万全の気配りを行っておられる。
日本国は、この時代に 広い見識を持ち公正無私の立派な女性天皇を持つことができたのは誠に幸せであった。

推古天皇は、第2回目の遣隋使で小野妹子(男性)に持参させた国書で、『日出處天子致書日没處天子無恙云云』と書かせておられる。
『日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。つつがなきや、云云(うんぬん)』と、すこぶる意気軒高な国書であった。

これは、流石(さすが)に 隋の煬帝を激怒させてしまった。古代の中国の認識においては、この地上では「天子」と名乗れる人間は唯一人しか存在し得ない事になっていた。
されども中国の天子の執行は、誠に心床しいものである。隋の煬帝は、日本の遣隋使に沢山の珍しい土産物を持たせて帰国させた。
但し国書に対する返書の宛先は『倭国王』であった。

地上唯一人の天子・煬帝も、『日出處の天子』と啖呵を切った御当人が、まさか「極東で初めての女帝であったとは、想像もできなかったのではなかろうか。」と、勝手に想像してみたくなるのも、歴史の楽しみの一つである。

推古天皇を濫觴(らんしょう:物事の始り)として、女性天皇を下記に列記する。

① 第33代  推古天皇 在位 592~628年
② 第35代  皇極天皇     642~645
③ 第37代  斉明天皇     655~661
④ 第41代  持統天皇     686~697
⑤ 第43代  元明天皇     707~715
⑥ 第44代  元正天皇     715~724
⑦ 第46代  孝謙天皇     749~758
⑧ 第48代  称徳天皇     764~770     孝謙天皇・重祚
⑨ 第109代  明正天皇     1629~1643
⑩ 第117代 御桜町天皇    1762~1770

以上 10代・9人の女性天皇がおられた。

古い話をすれば、第14代 仲哀天皇(在位192~200年)崩御後から 第15代 応神天皇(在位270~312年)即位までは、『天皇位は、空位のまま』であった。
この空位の期間、日本国の政務をつかさどり、自ら兵を率いて朝鮮出兵まで行われたのは、仲哀天皇の皇后・『神功皇后』であった。『神功皇后』は女性天皇に準ずるお方として記憶しておきたい。

昭和22年1月16日法律第3号(1947年)で規定される、現在の『皇室典範』によれば、
第1条:『皇位は皇統に属する男系の男子』がこれを継承する。
となっている。
法律の改訂がない限り、『将来の日本国では女性天皇の即位はあり得ない』ことになってしまった。
第9条では、養子は不可となっている。
また23条では、『陛下』と敬称されるのは、『天皇・皇后・太皇太后・皇太后』である。
その他の皇族は「殿下」と敬称されることになっている。
以上