2015年9月23日水曜日

推古天皇

第33代 推古天皇(在位593~628年)は、第29代 欽明天皇(在位539~571年)の皇女である。古事記では、推古天皇までが記載記述されている。
日本書紀の推古紀では、姿色端麗で挙措動作は乱れなく整い、御歳18で 第30代 敏達天皇(在位572~585年)の皇后となられている。

飛鳥時代の初期(6世紀末頃)の日本では、朝臣(あそん)・蘇我氏と大連(おおむらじ)・物部(もののべ)氏との政権をめぐる軋轢は苛酷を究めていた。蘇我氏は仏教推進派であり、物部氏は仏教排斥派であり、宗教戦争の一面も呈していた。

第32代 崇峻天皇(在位587~592年)は、蘇我馬子の推薦により即位された。物部守屋が推していた穴穂部皇子は、蘇我馬子により殺害されている。さらにその後、物部守屋も殺害され、物部氏は没落し歴史から消えてしまった。
更に更に恐ろしいことに、畏れ多くも崇峻天皇も蘇我馬子の謀略により暗殺されたのである。天皇家歴代で 唯御一人、臣下の謀略で崩御された天皇は、崇峻天皇のみである。しかも崇峻天皇の皇后は、蘇我馬子の娘であった。

絶大な権力を握った蘇我馬子と、推古天皇との血縁関係は『伯父-姪の間柄』である。
推古天皇は、蘇我馬子に推されて即位なされた。御歳39 である。崇峻天皇は、推古天皇の異母弟であった。
朝臣・蘇我馬子の専横により、日本史上で初の『女性天皇』が実現したのである。いや極東においても史上初の女帝であった。

推古天皇は、甥の聖徳太子を皇太子に定め、冠位十二階や十七条憲法などにより、天皇を中心とする中央集権の国家体制を押し進められた。
更に推古天皇は、遣隋使を5回以上も派遣され、中国との外交についても万全の気配りを行っておられる。
日本国は、この時代に 広い見識を持ち公正無私の立派な女性天皇を持つことができたのは誠に幸せであった。

推古天皇は、第2回目の遣隋使で小野妹子(男性)に持参させた国書で、『日出處天子致書日没處天子無恙云云』と書かせておられる。
『日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。つつがなきや、云云(うんぬん)』と、すこぶる意気軒高な国書であった。

これは、流石(さすが)に 隋の煬帝を激怒させてしまった。古代の中国の認識においては、この地上では「天子」と名乗れる人間は唯一人しか存在し得ない事になっていた。
されども中国の天子の執行は、誠に心床しいものである。隋の煬帝は、日本の遣隋使に沢山の珍しい土産物を持たせて帰国させた。
但し国書に対する返書の宛先は『倭国王』であった。

地上唯一人の天子・煬帝も、『日出處の天子』と啖呵を切った御当人が、まさか「極東で初めての女帝であったとは、想像もできなかったのではなかろうか。」と、勝手に想像してみたくなるのも、歴史の楽しみの一つである。

推古天皇を濫觴(らんしょう:物事の始り)として、女性天皇を下記に列記する。

① 第33代  推古天皇 在位 592~628年
② 第35代  皇極天皇     642~645
③ 第37代  斉明天皇     655~661
④ 第41代  持統天皇     686~697
⑤ 第43代  元明天皇     707~715
⑥ 第44代  元正天皇     715~724
⑦ 第46代  孝謙天皇     749~758
⑧ 第48代  称徳天皇     764~770     孝謙天皇・重祚
⑨ 第109代  明正天皇     1629~1643
⑩ 第117代 御桜町天皇    1762~1770

以上 10代・9人の女性天皇がおられた。

古い話をすれば、第14代 仲哀天皇(在位192~200年)崩御後から 第15代 応神天皇(在位270~312年)即位までは、『天皇位は、空位のまま』であった。
この空位の期間、日本国の政務をつかさどり、自ら兵を率いて朝鮮出兵まで行われたのは、仲哀天皇の皇后・『神功皇后』であった。『神功皇后』は女性天皇に準ずるお方として記憶しておきたい。

昭和22年1月16日法律第3号(1947年)で規定される、現在の『皇室典範』によれば、
第1条:『皇位は皇統に属する男系の男子』がこれを継承する。
となっている。
法律の改訂がない限り、『将来の日本国では女性天皇の即位はあり得ない』ことになってしまった。
第9条では、養子は不可となっている。
また23条では、『陛下』と敬称されるのは、『天皇皇后太皇太后皇太后』である。
その他の皇族は「殿下」と敬称されることになっている。
以上

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