写真の様に、現在の50円硬貨と同様真ん中に穴が開いているので、我が家の鍵と一緒にくっ付けて、持ち歩くのには誠に都合がいい。表には右から左に「銭十」と刻印がある。裏はこれも右から左に「本日大」・「年十和昭」と刻印されている。
製造年が私と同じなので、深い絆に結ばれた気持ちで常に持ち歩いている。
何時頃からこのコインを保管する様になったかは、判然とした記憶がない。このコインと共に故郷・福山を旅立ったのは高校を卒業した18歳の時である。
福山市の基礎を造ったのは、水野勝成(1564-1651年)である。かって安芸国・備後国の領主であった福島正則が改易(1619年)され、同年水野勝成は2代将軍徳川秀忠の命を受け、大和郡山6万石から備後国10万石に転封された。
水野勝成は、蝙蝠山(こうもりやま)に福山城(別名久松城:葦陽城)を築城した。福山城は10万石にしては格式以上に立派な城郭で、5層の天守閣は蝙蝠山に天高く聳えて威容を誇っていた。
築城着手は、1620年春であるが、築城と並行して上水道工事・市街地形成工事も進めた。
これらの諸工事の完成が1622年夏ごろであるから、今考えても舌を巻くほどの突貫工事であった。
蝙蝠山の「蝠」に因んで、水野勝成はこの地を『福山』と呼んだ。
注記1:上図は、明治初年に撮影された福山城である。村上正名著『福山の歴史と文化財』福山文化財シリーズ2(福山文化財協会発行)に掲載されていた写真を引用している。村上正名先生は、中学時代の恩師である。
注記2:下図も、前記図書に掲載されていた福山城天守閣の在りし日の写真である。南南東の方向から撮影されたものである。水野家は、勝成・勝俊・勝貞・勝種・勝岑(かつみね)の5代で断絶した。勝岑は将軍拝謁の当夜、江戸で敢え無く他界した。僅に2年に満たない命であった。
水野家断絶後、山形城主(出羽国)松平忠雅が備後国に入封した。その後松平氏に代わって阿部正邦が宇都宮から備後国に転封(1710年)されてきた。阿部氏は10代161年間、備後国を治めてきた。
阿部氏の中では、7代藩主・阿部正弘(1819-1857年)が有名である。若干25歳で老中となっている(1843年)。
ペリー提督が米国の東インド艦隊を率いて大統領フィルモアの親書を携え、浦賀に来航(1853年)した。翌年2月ペリーが再来日し、3月「日米和親条約」を締結した。この時老中首座であったのが阿部正弘である。江戸幕府200年余の鎖国を解いたのである。
最後の征夷大将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が「大政奉還」を、明治天皇に上奏(1867年10月14日)し翌日勅許された。
しかし幕府側は、薩摩藩の挑発に乗せられて鳥羽伏見の戦いが起こりこれに敗退した。大阪城にいた徳川慶喜は、京都守護職(会津藩主)・松平容保(かたもり)らと共に開陽丸で江戸に撤退した。これが戊辰戦争(ぼしんせんそう:1868-1869年)の始りである。戊辰戦争は、『江戸幕府を消滅させ明治新政府を確立』させるための戦争であった。幕府方は日の丸の旗を掲げ、明治新政府側は錦旗を掲げて戦った。
錦旗を掲げて東進する、長州藩兵は、1月9日に福山藩領内に侵入し福山城に砲撃を行った。福山藩兵も応戦し銃撃を行っている。しかしその後、家老三浦義建は長州に恭順し、誓詞を提出した。
私が小学生の頃、福山城内の西方の窓の1つから首を出してみると、窓枠の1部が欠けているのを見ることができた。長州藩砲撃跡と聞いていた。砲弾は炸裂弾ではなく、丸い鉄球だったと推測できる。
福山市の福山城は、有名である。JRの福山駅は、福山城の三の丸に作られておりしかも高架であるから、福山城は駅のホームから眼前に仰ぐことができる。
気の毒なのは、北海道の松前城である。松前城は、北海道で唯一の日本城郭であった。松前城が在る場所が福山と呼ばれており、当然そこにあった城が「福山城」と呼ばれていた。
残念ながら失火により焼失してしまった。現在は松前城資料館として再建されている。
北海道の城郭で有名なのは、むしろ函館にある洋式城郭の五稜郭であろう。幕府の函館奉行から五稜郭建設が申請され、五稜郭建設を許可したのは前述の老中・阿部正弘であった。
廃藩置県が行われたとき、備後国は『福山県』となった。このとき、全国では3府302県が出来上がった。
その後福山県は『深津県』⇒『小田県』⇒『岡山県』へと吸収合併されていった。最後に備後国は、広島県に編入(1876/4/18)され現在に至っている。
福山市は、太平洋戦争末期 B29の焼夷弾爆撃により焼け野が原にされた。広島に原爆投下され(1945/8/6)、福山空襲(8/8)・長崎原爆投下(8/9)・ポツダム宣言受諾(玉音放送:8/15)・降伏文書調印(米戦艦ミズーリー上:9/2)で終戦となった。
福山の近くには、大津野村(現在の福山市大門町)に海軍航空隊がおり、市の南東には広島連隊の陸軍歩兵部隊の駐屯地があった。市内には日本化薬や三菱電機の工場があった。
福山空襲の翌日、私は家族を親戚の家に残して、我が身独りで親戚の人たちと一緒に自宅跡に行ってみた。自宅の残骸の瓦礫が一帯に散らばり、隣家や道路の境界も定かでない焼野原の惨状だった。全身の震えが止まらない程の孤独感に襲われた。父は出征して兵隊になっており、母は足が不自由で外出時は乳母車が手放せない。自分は小学5年である。弟は1年生・妹は幼児であった。涙がにじむ目で立ち続けるだけだった。
自分のものとして残ったものは、着の身着のままの着衣と大切にしていた『十銭硬貨』だけであった。
空襲で、蝙蝠山の福山城天守閣も焼失してしまった。
福山空襲の際、不思議なことに陸軍歩兵部隊の駐屯地の兵舎は無傷で焼失を免れた。その旧兵舎を利用して、広島青年師範学校附属中学校が新設され、私は最初の1年生として入学し3年後同校を卒業した。
広島大学が発足し広島大学教育学部付属福山高等学校に入学した。高等学校も焼失を免れた旧兵舎であった。
その後福山市は、町村合併を繰り返して大きく拡大した。現在の市域は約520キロ平方、人口は46万人程度となっている。1950年頃の市域での人口は6万人程度であった。
市旗・市章は蝙蝠をかたどった山印である。福山市の蝙蝠山に由来する。
風光明美で瀬戸内航海の要衝であった鞆の浦は、古来より有名である。特産品としては備後表(畳表)・松永の下駄・府中の箏・鞆の保命酒が比較的古くから知られていた。新市(しんいち)の備後絣も挙げておきたい。最近はくわいの生産も有名のようである。近年は、バラ公園が整備されバラの街としても知られるようになってきた。
以上
福山は懐かしい風景として心に残っています。幼い頃からの記憶として、福山城や街並みや鞆の浦の仙酔島や親族の方々などなど… いい思い出ばかりです。
返信削除福山は、江戸初期の水野勝成公の築城から本格的な街づくりがはじまり、苦難の時代を経ながら先人や今の方々の御努力により、現在の福山市にいたります。
でも忘れてならないのは、中世や古代にも歴史的には重要な地域や発見のあった地域です。中世の街並みがそのまま遺跡として出現した「草戸千軒町」は、武士の時代の中世にあって町人、商人、庶民の暮らしがうかがえる素晴らしい遺跡です。福山の博物館でその様子や再現した町を見ましたが、まるで中世の町にタイムトリップしたような感覚になりました。草戸千軒町は、明王院の門前町だったといわれており、その明王院も国宝で、鎌倉~南北朝の建築を残した素晴らしいものです。子供の頃に連れられて明王院を訪問し、五重塔を見上げた記憶がまだ鮮明に残っています。さらには、鞆は、一説には、中国三国時代の物事を記した晋の時代に作られた正史「三国志」の中の通称「魏志倭人伝」で「投馬国」は、鞆あたりの地域であるとしています。ご存じのとおり、鞆は、古代から潮待ちの港として、畿内~九州や朝鮮、中国との船の行き来の中継点として、潮目の変わるのを待って、出帆する重要な地点でした。足利義昭や、幕末では、三条実美ら七卿落ち、坂本龍馬なども鞆に滞在し、いまでも江戸時代の港町の風情を多く残してますね。
このようにとりとめもなく書き進めながら、福山にまた行きたいなあ と思ってしまうたいへん魅力のある街だとつくづく思います。
万葉集に大伴旅人の詩が在ったな。
返信削除吾妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世に在れど 見し人ぞなき