、中国には、古代より中華思想があり、自国を中国と考えその他の国を野蛮国と見下していた節がある。
自国が真ん中で『中国』であり、東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)・南蛮(なんばん)に囲まれているとした。
BC(紀元前)千年ごろに作られた、「詩経」には、「恵此中国 以綏四方」とある。「この中国に恵み有れ 四方は安らかに」である。
3千年前に、自ら『中国』と呼んでいたのは確かである。
「宋史」は、元の時代に編纂された正史である。編纂は1345年である。
宋史における日本国の記述は、歴代天皇の系譜を述べた後、更に続けて「其國多有中國典籍」と述べている。
14世紀頃(鎌倉時代末期)には、「中国」は「中国」と言う『地域名』を使用しており、「中国」の地域で作成された『典籍』を日本国が『多数所有していた』事を、中国人が知っていたのは、驚嘆すべき事実であろう。
英語名で「China」・仏語名「Chine」の語源は「秦:シン」であるらしい。
これがインド経由でヨーロッパに伝わった。
中国大陸の王朝は、『周から始まる』(BC1046-BC256年)と考えるのがすっきりする。
次が『秦』王朝(BC221-BC206年)である。
その後が『漢』である。前漢(BC206-AC8年)・後漢(25-205年)に分かれる。約4百年余り続いた安定した王朝であった。
次が魏(曹操)・呉(孫権)・蜀(劉備)の三国時代となる。
広義では、、184-280年の三国鼎立時代を言う。
揚子江以北を魏が領有し、以南を呉が領有した。中国大陸奥地、「成都の辺り」が蜀である。
中国の四大奇書は、「三国志演技」・「水滸伝」・「西遊記」・「金瓶梅」である。私見を申し述べれば、これに次ぐものとして「聊斎志異:りょうさいしい」も挙げておきたい。
「三国志演技」では、「蜀の劉備」・「呉の孫権」を善玉にして書いており、魏の曹操を悪玉に仕立てているが、読む度に曹操の武人としての苛烈・果敢な行動力がむしろ立派に見えてくる。蜀の劉備玄徳は、、事が起こると驚き慌てて軍師 諸葛亮(孔明)に相談することになっている。
265-316年 魏の領内に「西晋」が興り、「呉」を滅亡させ中国全土を統一した。
但し西晋の滅亡も速かった。西晋の最後の皇帝は奴僕にされ、屈辱を嘗め尽くした後、処刑された。
439-589年は、中国では南北朝時代と呼ばれる。中国北部は、北魏が領有した。。後に東魏・西魏に分裂(534年)。
南部は、「宋」・「斉:セイ」・「梁:リョウ」・「陳:チン」と王朝が変った。
隋が興り(581-818年)、南北朝の混乱を鎮め中国を再統一した。
しかし僅か2代にして、唐にとって代わられた。
中国大陸における王朝名は、原則『一字名』であった。隋以降を列記する。
隋(581-618年)
唐(610-907年)
5代10国(907-960年)乱立時代
宋(960-1279)
元(1271-1368年)中国・モンゴル高原。正式名(大元)
明(1368-1644年)
清(1644-1912年)(正式名 大清帝国):北東部はアムール川流域沿海州に至る。
清朝末期、イギリスとの間で『アヘン戦争:1840/6/28-1842/8/29』が勃発した。
イギリスは、紅茶・陶磁器・絹を清国から多量に輸入していた。
銀での支払いに苦慮して、インドの植民地で栽培した『麻薬アヘン:阿片』を清国に密輸出することで帳尻を合わせようとした。
清 国民を麻薬に溺れさせるイギリスの姦計に、清国は強硬に反発し戦争になった。
イギリスは軍艦16隻の他多数の輸送船を擁する東洋艦隊を編成し、中国大陸北部沿岸を次々に陥落させて首都北京に迫り、天津沖に至った。
アヘン戦争に勝ったイギリスは、『香港の割譲』と多額の賠償金を獲得した。
朝鮮半島(李氏朝鮮)の権益をめぐって、清国と大日本帝国の利害が衝突し、日清戦争(1894年7月-1895年3月)となった。
日本の思惑は、『清国の属国であった「李氏朝鮮」を独立させ、「李氏朝鮮」に日本が影響力を保持すること。』である。
戦場は、朝鮮半島に止まらず大陸の遼東半島や山東半島にも及んだ。
この時、明治天皇と大本営は広島に移動した。
既に近代化を行っていた日本軍は、常に戦局を優位に進めていった。
7月23日 日本陸軍は、李氏朝鮮の王宮(漢城:現ソウル特別市:京城)を占拠し国王「高宗」を確保した。9月15日日本陸軍は平壌攻略戦を開始し、午後5時前には平壌城に白旗が掲げられた。
清国の北洋艦隊主力艦 「定遠」・「鎮遠」排水量7,400トン 305mm連装砲2基4門は、当時の戦艦としては巨艦であった。
当時の日本帝国海軍連合艦隊旗艦「松島」は、巡洋艦レベルであった。排水量4,217トン 320mm砲1門・120mm速射砲12門とうであり、かなり見劣りする。
清国海軍と日本海軍の最初の交戦は、豊島(ほうとう:現 韓国京畿道安山市)沖海戦である(1894年7月25日)。日本艦隊は吉野(旗艦)・秋津洲(あきつしま)・浪速(なにわ)の巡洋艦3隻である。
清国側は、巡洋艦2隻・砲艦1隻・商船(高陞号:コウショウゴウ)1隻であった。
午前8時前、清国巡洋艦が発砲し海戦が始まった。
敵巡洋艦1隻を擱座させ、残るもう1隻の巡洋艦は北西方向に懸命に遁走を図った。これを「吉野」・「浪速」が猛追撃した。この時有名な『高陞号事件』が起こった。
高陞号は、船籍:イギリスの商船で、清国軍の雇船(英国旗掲揚)となっていた。
この時高陞号は、朝鮮の仁川(現韓国ソウル広域市)に清兵1,100名と大砲14門の他各種武器・弾薬を輸送中だった。
遭遇した「浪速」は、停船を命じ臨検を行った。臨検時に英国人船長に、「浪速」に随行することを承諾させていた。
「浪速」船長東郷平八郎は、「錨を揚げよ。猶予は認めない。」と信号旗で連絡した。高陞号船長からは、「重要事項あり、再度端艇送れ」との信号旗が揚がった。止む無く人見大尉を再度送った。
人見大尉は、「清国士官は船長を脅迫し、命令に服従できなくしている。船内不穏の様がある。」と復命した。
東郷は、高陞号英国船員に対し「艦を見捨てよ」の信号旗を掲げた。高陞号からは「端艇送れ」の信号旗が揚がる。
この様な押し問答が2 時間余りも繰り返された後、東郷は「撃沈する」との信号旗を掲げた。
水雷発射と砲撃が開始され、13時45分「高陞号」は沈没した。
東郷は、「浪速」から急ぎ端艇を下ろし、「浪速」に向かって泳いで来る「高陞号」の船員・士官の全員を救助した。
清国北洋艦隊と帝国海軍連合艦隊との決戦は、朝鮮半島西側の黄海で行われた。
北洋艦隊は、黄海で訓練中。連合艦隊は索敵中であった。当時の索敵は、マストに登った水兵が水平線の彼方に軍艦の煙突から排出する黒煙を発見することである。当時の軍艦は石炭焚きの蒸気機関で動いていた。
黄海海戦(1894年9月17日)は、10時過ぎから開始された。
北洋艦隊は横一列で待ちかまえ、連合艦隊は縦一列で突進した。
北洋艦隊は、体当たりも辞さない接近戦を試みたが、巡洋艦の軽快なフットワークで巧妙にかわされ、、逆に猛烈な十字砲火を浴びる羽目に追い込まれた。
北洋艦隊は四分五裂に切り裂かれ、旅順に向けて「統率の無い」遁走を始めた。旅順港に逃げ帰った北洋艦隊も、陸からの攻囲戦を嫌い山東半島の「威海衛」に退避した。
しかし、威海衛でも陸上攻撃と水雷艇による海上攻撃を受け、北洋艦隊は全面降伏した。
日清戦争における日本国の狙いは『朝鮮独立』、である。清の属国を止めさせる事である。
1894年8月26日『大日本・大朝鮮 両国同盟』を締結した。
朝鮮国は日本国を支援し、自らも出兵した。
平壌陥落後の日本陸軍の次の目標は、遼東半島(中国大陸)の旅順であった。1894年9月22日旅順要塞を陥落した。
続く目標は山東半島の「威海衛」である。1895年2月17日「威海衛」要塞は解放された。
日清講和条約(下関条約:1895年4月17日)により日清戦争は終了した。
朝鮮国の独立。
遼東半島・台湾・澎湖諸島の日本への割譲。
賠償金を日本に支払う。(銀7,460トン)
清国は日本に、最恵国待遇を与える。
虎視眈々(こしたんたん)と極東進出を狙うロシア・ドイツ・フランス が結託して、ゴリ押しの『遼東半島』返還の勧告(三国干渉)を突き付けてきた。
日本は臥薪嘗胆(がしんしょうたん:辛い思いを金輪際忘れない固い決意)の思いで、返還を承諾せざるを得なかった。
この結果、直ちにロシアは『遼東半島の旅順・大連』を租借地とした。
ドイツは、山東半島青島(チンタオ)付近の膠州湾(こうしゅうわん)を占領。
翌年此処を租借地とした。
フランスは、1899年広州湾一帯(香港の近く)を租借地とした。
1900年清の西太后は列強に宣戦布告し、八か国連合軍(オーストリア&ハンガリー帝国・仏・独・伊・日・露・英・米)に北京を占領された。
西太后は北京を脱出し、西安に落ち延びた。
その後、『外国軍北京駐留』と『賠償金支払』を条件に、西太后の北京帰還が認められた。
南京で中華民国(1912年1月1日)が設立された。孫文(1866-1925年)が臨時大統領であった。
清朝最後の皇帝(ラストエンペラー)宣統帝・溥儀(ふぎ)は、2月12日に退位し清朝は消失した。
以上