最近は、皇統の存続に万全を期すため、女性宮家の創出が議論されるようになってきた。
女性宮家もさることながら、第33代推古天皇を始めとして、過去には女性天皇が10代8人(2方が重祚)居られた。
明治の御代になって、旧皇室典範(1889年2月11日)が制定された。
第一条で『大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス』とある。
現皇室典範(1947年5月3日施行)においても、旧皇室典範を踏襲し、『男系男子』を踏襲している。
脈々と継続している日本歴史の中で、明治元年以降僅かに150年程だけが、女性天皇を頑なに拒否しているのである。私には全く納得がいかない。
英国の例を見るがいい。現英王室は、1952年に即位されたエリザベス二世女王陛下(91歳)である。
全く見事な女性首脳コンビであった。
今の日本の天皇が政治に拘れることはあり得ないし、女性首相も未だ現れていない。現在の日本では、英国流は全く実現不可能である。
万世一系の日本国の天皇家において、『極めて重大な事象が2度』起こっている。
その『最初の出来事』が、第32代崇峻天皇の暗殺(592年)である。
崇峻天皇は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の推薦により即位された。それにも拘らず、馬子の陰謀により暗殺された。
馬子は一族の繁栄を求め、物部氏との闘争を繰り返し、物部氏を滅亡に追い込んだ。
蘇我馬子と推古天皇は『叔父-姪』の親族関係である。
崇峻天皇崩御後、蘇我馬子は推古天皇に懇願し天皇即位を要請した。
推古天皇は、39歳で即位された。第33代推古天皇(在位593-628年)は、第29代欽明天皇の皇女で、姿色端麗 挙措動作は乱れなく整い18歳で第30代敏達天皇(在位572-585年)の皇后となられていた。
推古天皇は、頭脳明晰で常に公明公平に判断を行われておられた。この時代に、東洋初の公明正大で立派な女帝を持つことが出来たのは日本国の幸運であった。
『二度目の出来事』は、光格天皇のご即位である。
第119代光格天皇(在位1780/1/1-1817/5/7)は、第121代孝明天皇の祖父である。
最終的に、第119代光格天皇即位で落着した。
第118代後桃園天皇から第119代光格天皇までは、実に驚くべきことに『7親等もの大差』がある。(親子の間柄が1親等である。)
祖父母と孫は2親等であるが、従兄弟・従姉妹の関係は4親等となる。
左図の「光格天皇から、今上天皇までは6親等」である。
第118代後桃園天皇と第119代光格天皇との親族関係は7親等と極端に離れている。
この事で、光格天皇のご即位がいかに『難航したか』を十分に伺い知ることが出来る。
傍系の閑院宮家の出自であり、第118代後桃園天皇の養子と言うことで即位はされているが、実際の養子縁組は後桃園天皇没後に取り決められたものである。
江戸幕府第10代将軍徳川家治(在位1760-1786年)の御台所は、光格天皇の叔母である。従って光格天皇は、江戸幕府第10代将軍「徳川家治」の義理の甥に当たる。
江戸幕府との関係もあり収まりもよく、結果的には光格天皇は皇室・幕府共々に歓迎されたものと推察される。
以上
飛鳥時代の前に、もう1つ、武烈天皇→継体天皇も、重大な事象といえば当てはまるかもしれません。日本書記では、武烈天皇の後、後継がおらず、現在の福井にあたる地にいた第15代応神天皇の子孫と言われている継体天皇を探し出して天皇としています。なお、継体天皇は、24代仁賢天皇の皇女と結婚しております。イギリスやフランスの王朝の歴史に照らすと、例えば、チューダー朝→スティワート朝やカペー朝→ブロア朝のように王朝が変わっているとみなされるレベルです。 ある説では、福井の継体天皇が、ある意味クーデターで天皇位についたのであり、実際には、皇女との結婚による女系後継があったのでは... という大胆なものさえあります。継体という名自体が、意味深長かつ謎めいていますね。
返信削除「謎の大王、継体天皇」という書物も出ておりますので、興味があればぜひいかがでしょうか。