「第96話 継体天皇」の「結び」で、「有力豪族が協議し507年 第26代 継体天皇の即位となった。」と記載している。結果的にはそうなったのであるが、見逃せない大きな『問題点』が有ったと思う。
第25代 武烈天皇崩御(506年)で、第26代 継体天皇の即位となった。「武烈天皇」と「継体天皇」の共通の祖先は、第15代 応神天皇である。応神天皇の『5世の子孫:末裔の瀬戸際』が「武烈天皇」である。また応神天皇の『5世の子孫:末裔の瀬戸際』が第26代「継体天皇」でもある。
現代流の『親等』で表せば、「武烈天皇」と「継体天皇」の血族関係は9『親等』である。日本の現民法では、6『親等』内を「血族」としている。現代人の我々の感覚では、「武烈天皇」と「継体天皇」の血縁関係(9親等)は、『全くの他人』である。当時の「有力豪族」が『親等』議論を行ったとは思えないが、事態を穏便に収めるために『継体天皇の即位』を決めたものと推定します。問題は何故「越前」を統治していた『男大迹王:ヲホドノオオキミ』が、推挙されたか?である。「越前」とは、福井県越前市・福井県丹生郡(にゅうぐん)越前町・福井県南条郡南越前町辺りであろう。
「有力豪族」たちは、最初は第14代 仲哀天皇の「5世の子孫」を探したが、末裔は迎えの兵を見て、恐れおののき遁走してしまった。やむなく「有力豪族」たちは、第15代 応神天皇の「5世の子孫『男大迹王』」に目標を変更した。
第26代 継体天皇は、507年58歳で即位し第25代 武烈天皇の姉の「手白香皇女」を皇后とした。継体天皇の時に、朝鮮半島の「百済」が、たびたび「倭国」に軍事援助を求め、天皇はそれに応じている。531年 継体天皇は、第27代 安閑天皇に譲位した。
『男大迹王』は、即位前に 既に多くの子を持っていたが、「継体天皇」即位後に 皇后との子 第27代 「安閑天皇」を 継嗣とした。
以上