2020年8月29日土曜日

第97話 継体天皇 その2

 「第96話 継体天皇」の「結び」で、「有力豪族が協議し507年 第26代 継体天皇の即位となった。」と記載している。結果的にはそうなったのであるが、見逃せない大きな『問題点』が有ったと思う。

第25代 武烈天皇崩御(506年)で、第26代 継体天皇の即位となった。「武烈天皇」と「継体天皇」の共通の祖先は、第15代 応神天皇である。応神天皇の『5世の子孫:末裔の瀬戸際』が「武烈天皇」である。また応神天皇の『5世の子孫:末裔の瀬戸際』が第26代「継体天皇」でもある。

現代流の『親等』で表せば、「武烈天皇」と「継体天皇」の血族関係は9『親等』である。日本の現民法では、6『親等』内を「血族」としている。現代人の我々の感覚では、「武烈天皇」と「継体天皇」の血縁関係(9親等)は、『全くの他人』である。当時の「有力豪族」が『親等』議論を行ったとは思えないが、事態を穏便に収めるために『継体天皇の即位』を決めたものと推定します。問題は何故「越前」を統治していた『男大迹王:ヲホドノオオキミ』が、推挙されたか?である。「越前」とは、福井県越前市・福井県丹生郡(にゅうぐん)越前町・福井県南条郡南越前町辺りであろう。

「有力豪族」たちは、最初は第14代 仲哀天皇の「5世の子孫」を探したが、末裔は迎えの兵を見て、恐れおののき遁走してしまった。やむなく「有力豪族」たちは、第15代 応神天皇の「5世の子孫『男大迹王』」に目標を変更した。

第26代 継体天皇は、507年58歳で即位し第25代 武烈天皇の姉の「手白香皇女」を皇后とした。継体天皇の時に、朝鮮半島の「百済」が、たびたび「倭国」に軍事援助を求め、天皇はそれに応じている。531年 継体天皇は、第27代 安閑天皇に譲位した。

男大迹王』は、即位前に 既に多くの子を持っていたが、「継体天皇」即位後に 皇后との子 第27代 「安閑天皇」を 継嗣とした。

                                  以上






2020年8月25日火曜日

継体天皇

 継体天皇は、日本の第26代天皇である。在位は、西暦507 ~ 531年である。

日本書紀では、男大迹王(をほどのおおきみ)、古事記では 袁本杼命(をほどのみこと)と記されている。先代が武烈天皇、次代が安閑天皇である。

継体天皇の誕生は450年頃、崩御は531年である。出生地は、近江の国高嶋郷三尾野(現 滋賀県高島市)である。

『記紀:古事記・日本書紀』では、第15代 応神天皇の5世の子孫と記している。下記の何天皇に該当するのか、私には良く判らない。私は判然としなくても一向に構わないと考えています。「5世の子孫」とは、「ほぼ他人になりかけた」末裔です。「5世の子孫」、にどれ程の信憑性があるのか疑問です。古い話には、「5世の子孫」が良く出てきます。要注意です。

現代で使用される『親等』を基準にすれば、親子関係が 1『親等』です。爺婆と孫は、2『親等』です。兄弟姉妹は、2『親等』。従兄弟姉妹(いとこ)は、3『親等』です。

15代 応神天皇 ― 16代 仁徳天皇 ―  ・ ―17代 履中天皇

                   |

                  ・―18代 反正天皇

                  ・―19代  継体天皇は、日本の第26代天皇である。在位は、西暦507 ~ 531年である。


日本書紀では、男大迹王(をほどのおおきみ)、古事記では 袁本杼命(をほどのみこと)と記されている。先代が武烈天皇、次代が安閑天皇である。


継体天皇の誕生は450年頃、崩御は531年である。出生地は、近江の国高嶋郷三尾野(現 滋賀県高島市)である。

『記紀:古事記・日本書紀』では、第15代 応神天皇の5世の子孫と記している。下記の何天皇に該当するのか、私には良く判らない。私は判然としなくても一向に構わないと考えています。「5世の子孫」とは、「ほぼ他人に、なりかけた」末裔です。「5世の子孫」、にどれ程の信憑性があるのか疑問です。古い話には、「5世の子孫」が良く出てきます。要注意です。

現代で使用される『親等』を基準にすれば、親子関係が 1『親等』です。爺婆と孫は、2『親等』です。兄弟姉妹は、2『親等』。従兄弟姉妹(いとこ)は、3『親等』です。

15代 応神天皇 ― 16代 仁徳天皇 ― ・ ―17代 履中天皇          

                   |

                  ・―18代 反正天皇

                  ・―19代 允恭天皇・―20代 安康天皇

                    (いんぎょう)・―21代 雄略天皇

20代 安康天皇は、『殺害されたと明確に記された最初の天皇である。』

25代 武烈天皇は、「日本書紀」には「悪逆非道」ぶりを、細かく列記しているが、「古事記」にはいっさい記載がない。武烈天皇は後継がなく崩御された。西暦506年である。

有力豪族たちが協議し、507年 第26代 継体天皇の即位となった。「旧唐書(くとうじょ)は、945年に完成している。この中に、「倭国伝」と「日本国伝」が併記されている。「旧唐書」は、倭国が国号を「日本」に改めたか、小国であった日本が「倭国」を併合したか、何れかだろうと推察している。

                                    以上



                   

2020年8月7日金曜日

第95話 『ん』 物語

『いろは歌』と言うのが有る。
色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず

西暦10世紀末 ~ 11世紀中頃に成立した様である。
『いろは歌』に関する最古の文献は、『金光明最勝王経音義:大東急記念文庫所蔵』である。

全て平仮名書きにして47文字であり、重複なくすべてを使用し『意味深遠な』内容の七五調の文章を構成している。『いろは歌』の作者は、驚嘆すべき天才的な才能の持ち主である。

古来の学問の習得は『いろは』の習得から始められた様である。
三重県明和町の斎宮跡で土器の破片が発掘された。2010年である。
土器は平安時代11世紀末 ~ 12世紀前半(大略西暦1000年頃)の物である。
土器の破片の内外には、平仮名の墨書があった。
内側に「ぬるおわか」、外側に「つねなら」である。

『斎宮歴史博物館:三重県多気郡明和町竹川:三重県立博物館』では、斎王の女官が文字の勉強のため記したと推定している。

赤穂浪士47名が、主君の仇討と吉良上野介の館に討ち入ったのは、1703年1月3日である。
その後、人形浄瑠璃や歌舞伎の演題として、『仮名手本忠臣蔵』が持て囃された。
仮名文字は、47文字である。

使用されていないのは、『』の字だけである。

』は、口を閉じたまま、鼻から発声することが出来る。
私が大学生であった頃、東北出身の友人と議論してた折、彼は「んだね~」と口を挟んだ。
私は最初は『そうだね!』と同意を得たと思ったが、真逆であった。
んだね~」は、『そうではない』と言う、宣戦布告であった。強烈なアクセントが『んだ~』の、『』に付けられていた。

日本国の、自動車用ナンバープレートには、『』は、慣例として『不使用』とされている。

インドネシヤ・バリ島のデンバサール国際空港の正式名称は、(I Gusthi Ngurah Rai:イ・グスティ・ングラ・ライ)である。

日本で販売されている『医薬品』の名称は、『』で終わるものが滅茶苦茶に多い。
「正露丸」を始めとし、ロキソニン・リポビタン・パブロン・オクソラレン・オパイリン・ビオヘルミン・フコイダン・ポポン・アリナミン・…。
1903年 日本の或る新聞社(萬朝報)が、従来の仮名47文字に『』を加え48文字とし、48文字だけの作品を募った。1等~20等まで賞金を出すとした。

一等賞は、埼玉県児玉郡青柳村(現 児玉郡神川町)の坂本百次郎である。

    とりなくこゑす ゆめさませ 鳥啼く声す 夢さませ
    みよあけわたる ひんかしを 見よ明け渡る 東(ひがし)を
  そらいろはれて おきつへに 空色映えて 沖つ辺に
 ほふねむれゐぬ  もやのうち 帆船群れゐぬ 靄の中

『萬朝報:よろずちょうほう』は、1892年黒岩涙香(くろいわ るいこう:1862~1920)により創刊された。
一時は東京一の発行部数を誇り、最大発行部数は30万部となった。
新聞事業の功労により、彼は1915年「勲3等」に叙せられた。
肺癌で死去。
黒岩涙香の死去後、『萬朝報』は急速に経営が悪化した。1940年廃刊。

以上