最終的には、松平氏に安城を領有され、水野忠政(1493-1543年)は止むを得ず松平信忠(1490-1531年)と講和した。
松平氏を継ぐ徳川家康(1543-1616年)と水野勝成(1564-1651年)は、従兄弟(いとこ)である。徳川家康の母・於代(おだい:水野忠政の娘)の方は、水野勝成の伯母である。
若年の水野勝成は気性が荒く、父の籠臣とそりが合わず激情に駆られて籠臣を切り捨て逐電(ちくでん:素早く逃げ去る)してしまった。直情径行の性(さが)であった。これが、水野勝成の流浪の旅の始りである。
父忠重は、嫡男勝成を勘当した(1584年)。その後10年余りの年月を経て、徳川家康の斡旋で勘当は解消されている(1599年)
水野勝成は、豊臣秀吉の四国征伐(1585年)に加わり秀吉から700石の知行を貰った。しかしその後、朋輩を殺害して秀吉の怒りを買い、知行地から出奔した。出奔後は秀吉の追及を逃れて九州各地を流浪し、転戦していたようである。
秀吉死去(1598年)後、石田三成の思惑どおりに五大老の一人であった上杉景勝が徳川家康と対立し、会津で戦の準備を始めた。家康はこれに乗った振りをして、会津征伐の軍を発し(1600年)、手回し良く秀吉子飼いの諸大名も引き連れ下野国小山(栃木県小山市)まで出向いた。水野勝成も、家康に従って下野国小山に出張った。
小山での家康は、進軍する意図は全くなく、「天下分け目の大会戦には味方してくれるよう」諸大名に手紙を乱発していた。
所が刈屋の水野家で、当主水野忠重が石田三成の放った刺客に襲われ殺害される変事が起こった。変事の急報は、下野国小山にいた嫡男の水野勝成に届けられ、徳川家康の知るところとなった。
家康は、水野勝成に遺領相続を命じ、家康が書いた刈屋の水野家籠臣上田清兵衛宛ての書状を持たせた。父忠重による勘当が長く、勝成と水野家家臣との馴染みの薄いのを気遣った家康の気配りである。
天下分け目の関ケ原の合戦(1600年)では、水野勝成は大垣城の抑えに回されている。
関ケ原の合戦で大勝利した徳川家康は、翌年水野勝成に「従五位下日向守」受任を命じた。明智光秀謀反後、『日向守』を受任したものがいなかったのである。
徳川家康は、征夷大将軍となり幕府を開いた(1603年)。将軍職の世襲を狙い、朝廷に対し嫡男秀忠を右近衛大将への推薦を奏上させ同年内に勅許をえた。
2年後正月、家康は江戸を発ち伏見城に入った。嫡男秀忠も東国の諸大名を引き連れた大軍団で3月伏見城に到着した。
4月家康は、「将軍職辞任」と「後任として秀忠の推挙」を朝廷に奏上した。同月内に勅許され、徳川秀忠が2代将軍となった。
1608年、水野勝成は備中高梁(たかはし:岡山県)から領国・刈屋城に妻「お登久」と嫡男「勝俊(1598-1655年)」を呼び寄せている。同年勝俊は、徳川秀忠に仕えることになった。
大阪の陣(1614年冬の陣:1615年夏の陣)で豊臣家が滅亡した。この論功行賞で、水野勝成は大和郡山(奈良県)6万石に転封された。
1619年福島正則の改易により、水野勝成は2代将軍秀忠から備後(広島県)10万石に転封を命じられた。
水野勝成は備後国神辺城を放棄し、現在の福山市に新城建設を行った。「武家諸法度」で新城建設禁止であったが、例外として認められ、福山城(空襲で焼失)は近世城郭最後の城(1622年夏ごろ完成)となった。10万石には不釣り合いの巨城であった。
カリスマ少年天草四郎を総大将とする『島原の乱』が勃発した。肥前島原(長崎県諫早市・島原市・雲仙市・南島原市)から肥後天草(熊本県天草市)一帯にかけてのキリシタンを中軸とする大内乱の一揆である。
1637年12月に一揆が始まり、1638年2月末に鎮圧された。
幕府は反乱鎮圧のため板倉重昌らを急派し、九州諸藩による討伐軍を編成したが討伐軍は敗走した。
福山藩には、1637年幕府から出動準備が伝えられていたが、1638年早々に早打ちを以て出陣命令が到来した。
手ぐすね引いて待っていた水野勝成は、鞆港(広島県福山市)より百数十艘の兵船を連ね六千三百余人を引き連れて出発した。
- 出征家老 上田玄蕃他
- 留守城代 中山将監他
- 旗奉行 上田清兵衛他
- 侍大将 今枝勘右衛門他
- 弓大将 蟹江又左衛門
- 鉄砲大将 黒川三郎左衛門他
- 足軽大将 近藤弥之介
- 長柄大将 上田武太夫
幕府は内乱の早期鎮圧のため、『最強の切り札』をタイムリーに切って来たのである。
水野勝成は江戸幕府の信頼にこたえ、勝成(当主)・勝俊(嫡男)・勝種(嫡孫)の親子孫三代ともに参戦した。
水野勝成は、家督を勝俊に譲り(1639年)、一分斎と号して隠居した。福山城内で死去(88歳:1651年)。菩提寺は賢忠寺(曹洞宗)である。
水野勝成の旗印で有名なのは『裏永楽』である。永楽銭の裏側は、文字も模様も全くない。丸い銭に口の穴が開いているだけである。
銭の旗印では、真田の六文銭も有名である。真田の軍旗として『六文銭』を定めたのは、真田幸隆である。戦死者の『三途の川の渡し賃』と考えたのであろう。
幸隆の孫が真田信繁(幸村)である。NHK大河ドラマ『真田丸』(2016年)の主役として活躍するであろう。真田の『六文銭』も、冥土で使うので『裏永楽』となっている。
以上
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返信削除水野勝成は、戦国でも非常に数奇な生い立ちをもつ武将ですね。家督を継ぐまでは、とにかく、一騎当千の無双のツワモノで、無骨かつ直情の当時でいう傾奇者。武士に生まれながらも、無頼で各地を放浪し、各大名を渡り歩いていたようです。武士ながら庶民の生活や日本各地のいろんなものも見聞きしていた。
返信削除それが、家督を継ぎ、大坂の陣を経て、福山の地で大名となった後、よくその領地を治め、農地を広げ、塩田を作りなど、たいへん民にも慕われる殿様であったようです。いまは、真田信繁が大河ドラマの主人公ですが、水野勝成のようなドラマティックな人生を送った武将をぜひ、大河ドラマで取り上げてほしいものですね。
そうなんだよね。
削除再来年用の『大河ドラマ』として、NHKに売り込みたいね。
当面手掛かりがないが、気長に伝手でも探して見るか?