彼は私達と同様の「見果てぬ夢」を追い求めて働き続け生涯を終えた、かけがえのない古くからの仕事仲間であった。
高速増殖炉という、極めて特殊な原子炉がある。「常陽:茨城県」と「もんじゅ:福井県」が、この特殊な原子炉である。
原子炉内にブランケットと云う装置を設けて、天然ウランを置いておくと、原子炉の運転に従って、天然ウランから少しずつプルトニウムが生成されてゆく。
この原子炉の燃料は、プルトニウムを使用する。プルトニウムの核分裂により、原子炉で熱を発生させるが、燃料で消費するプルトニウムよりもブランケットで生成されるプルトニウムの方が多いのである。運転すればするほど燃料が増産されると云う、打ち出の小槌のような「夢の原子炉」である。これは一般の人にとっては「眉唾の話」のように聞こえるかもしれないが、原子力関係者にとっては当然の「常識の話」である。
「夢の原子炉」を「悪夢」と考える人も居るかも知れない。人だけの話ではなく、高速増殖炉を嫌悪する国もある。国連安保理常任理事国(米・英・仏・露・中)等が該当する。これらの国は核兵器を独占しており、常任理事国以外の国が濃縮ウランやプルトニウムを増産する事に対しては、極めて抑圧的に反応する。
常任理事国以外の国で、高速増殖炉を建設しているのは、日本だけである。また世界中で高速増殖炉に興味を持っているのは日本以外ではインドだけであると思う。
高速増殖実験炉「常陽」の設計開始は、1960年頃であった。私も国家プロジェクトの1員として設計・建設に加わった。原子炉容器上部の「回転プラグ」や「原子炉2次冷却系」が、前記畑中(仮名)君を含め我々仕事仲間の担当する部分であった。
高速増殖炉は、原子炉の冷却に液体金属ナトリウムを使用する。金属ナトリウムは常温では固体であり、水とは激しく反応する。水素を発生し苛性ソーダになる。空気中では燃焼し、酸化ナトリウムになる。金属ナトリウムの融点は97.7℃である。
高速増殖炉では、600℃程度の液体ナトリウムを原子炉に循環させて、原子炉から熱を取り出す。原子炉容器や配管は600℃に維持され、真っ赤な灼熱状態であるが、保温材に覆われていて肉眼で見ることはできない。
常陽は、実験炉であるから発電はしない。熱は大気中に捨てているだけである。
2007年燃料交換機構と実験試料計測線の干渉事故があり、現在運転停止中である。この事故でステンレス製のピン数本が原子炉容器内に脱落したようであるが、ピンの回収は困難と思われる。2016年度の運転再開を目指して、復旧作業が行われている。
高速増殖原型炉「もんじゅ」は、1968年頃から国家プロジェクトとして概念設計が開始され、私達もこれに参加した。
1980年安全審査開始・1985年着工・1994年初臨界・1995年発電開始と、プロジェクトは順調に進展していった。しかし同年末に至り、残念ながら1次系ナトリウムの漏洩事故が発生してしまった。温度検出器を装着するウエルの欠損事故である。
右の写真は、自著「原子力発電」から引用した「高速増殖原型炉もんじゅ」の外観写真である。
2010年5月、長期間を要した事故対策も終わり、運転を再開した。しかし「もんじゅ」は、どんな不幸な星の下で生まれたのか、何故かトラブルが多い。同年8月、原子炉容器上部に装着された「燃料の炉内中継装置」が、原子炉容器内に落下し当面吊り上げ回収は困難と判断された。このため、またまた不幸にも長期運転停止となってしまった。
2012年6月14日、原子力規制委員会が「もんじゅ」の初めての立入検査を実施した。機器の点検漏れが1万ヶ所程度あったと公表されている。
現在は誠に残念ではあるが、「もんじゅ」は規制委員会から「無期限の運転停止」を命じられている。
私が液体金属で冷却する原子炉の存在を知ったのは、大学院1回生の時(1958年)である。当時の京大の機械工学科の『蒸気研究室』に、よくもこのような文献があったものである。こんな蒸気機関が地球上に存在するとは、当時の私にとっては晴天の霹靂(ヘキレキ)であった。
それは、米国の原子力潜水艦シーウルフ(USS Seawolf SSN-575)に関する文献だった。
後世の別途の資料から、シーウルフの概要を次に示す。
- 起工 1953年9月(ジェネラル・ダイナミックス)
- 就役 1957年3月
- 除籍 1987年7月
- 改装 1958~1960年(液体金属冷却原子炉⇒加圧水型原子炉:PWR)
私が三菱原子力に入社後、研究所で「ナトリウム技術開発」の担当を命じられた時(1968年頃)から、私のもっとも幸せな人生が始まったと思う。「見果てぬ夢」が一つ一つ実現してゆく、恐ろしいほどの躍動感が実感できた時代であった。
人生万事「塞翁が馬」である。好事魔多しとも言う。1973年社命で原子力発電所の設計部門に転勤を命じられたのである。加圧水型原子力発電所の設計である。国内の原子力発電所が次々と建設され始めた時代で、会社は人手不足であった。「見果てぬ夢」への未練で、2か月ほどは社命に頑強に抵抗を試みたが、万策尽きて諦める他なかった。
やむを得ない話であると自分自身を納得させ、半ば諦めの心境で転勤した。高速増殖炉は又も「見果てぬ夢」となり、うつつは加圧水型原子力発電所の設計で俸給を戴く生活となってしまった。
定年直前、研究所に戻され副所長を拝命したが、高速増殖炉開発は「見果てぬ夢」で終わってしまった。「見果てぬ夢」は、生易しいものではなかったようである。
高速増殖実験炉常陽は、2016年度の運転再開を目標に復旧作業中。
高速増殖原型炉もんじゅは、無期限の運転停止。
我々の時代は終わった。強弩の余勢も終焉を迎えている。
ただひたすらに長嘆息を繰り返すだけである。「見果てぬ夢」は、私の人生だけでは短すぎた。何世代かに渡るバトンリレーが必要だったのである。
張九齢
宿昔青雲の志 蹉跎(サタ)たり白髪の年
誰か知らん明鏡の裏(ウチ) 形影自ら相い憐れむを
人の世に 見果てぬ夢を 残しけり
雲行
以上
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