イランの正式名称はイラン・イスラム共和国 Islamic Ripublic of Iran である。
イランは石油輸出国機構 Organization of the Petoroleum Exporting Countries (OPEC) では第2位の産油国であり、天然ガスも極めて豊富でエネルギー資源には全く事欠かない豊かな国である。
1970年頃のイランはパフラヴィー王朝の時で、「アングロ・イラニアン石油会社」が権益を持ち、米・英 国に牛耳られていた。したがって大きな確執はなかった様
である。ところが1979年のイスラム革命で折角の権益が雲消霧散し、米・英 国は
国外に叩出され、ホメイニ師によるイスラム共和国が誕生した。これにより米国とイランの間に長年にわたる抜差しならぬ確執の図式が始まった。
翌年1980年9月、米国は強力に武器援助を行っていた西隣国のイラクのサダム・フセインを扇動しイラン-イラク戦争を勃発させた。ところが米国やサダム・フセインの思惑に反し、イランは予想外に強かった。世界中を敵に回して、最後まで戦い抜いたのである。
この頃のイランは国際的には全く孤立無援であった。欧米諸国は勿論イラク支持であるが、イスラム諸国もイスラム革命の波及を恐れてこぞってイラク支持に回った。ソ連も連邦内のイスラム諸国への波及を恐れイラク支持の一方で、ドサクサに紛れて領土拡大の好機と見て、アフガニスタン侵攻を開始した。孤立無援のイランではあったが、戦死者の山を築きながらもイラクの侵略に耐えに耐え、国境線前後まで押し戻し1982年には膠着状態にまで持込んでいった。
イラクの侵略に対し、国連はほとんど何もしなかったようである。国連が実際に動いたのは、7年後の1987年である。1987年7月国連安保理は即時停戦の勧告を決議した。両国がこれを受諾し、停戦が行われたのは1988年8月である。
これで中東に平和が訪れると思いきや、何を血迷ったかサダム・フセインは1990年クウェートに侵攻し、米国の逆鱗に触れて湾岸戦争が勃発した。この時の国連の対応は素早かった。これ以来イラクは泥沼の戦乱に落ち込み、平和憲法の日本までイラク派兵させられたのであるから、気の毒でもあり迷惑でもあった。
一方平和を勝ち取ったイランは、これ以来敢えて「NO」と言う反米路線を堅持しながら、富国強兵に努めている。1960年頃3,600万人程度であった人口も、2010年には7,000万人程度と見込まれ半世紀で倍増している。ただし今後の人口増加率は小さいと見込まれる。
近年のアメリカとイランの確執は、イランの核開発である。イランの濃縮ウラン製造は順調に進んでいる様である。
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