1939年5月 ドイツ・イタリア軍事同盟が結ばれ、5月10日 ベルギー・オランダに対しナチスドイツの電撃作戦が』開始された。(第2次世界大戦)
オランダは14日降伏し、ベルギーは28日降伏した。
ドイツ軍がドーバー海峡に達したのは、19日である。イギリス軍はダンケルクからの総撤退作戦を行い、重装備兵器のことごとくを放棄して、34万人の兵の撤退に成功した。ドイツ軍のダンケルク制圧は6月5日である。
フランスは6月10日パリの無防備都市宣言を行い、政府をボルドーに移した。イタリアは同日イギリス・フランスに対し宣戦布告を行った。
フランスは、6月21日 ドイツ・イタリアに降伏した。
この様なヨーロッパ情勢の下で、1940年8月末に、日本・フランス間で「フランス領インドシナ」(現ベトナム・カンボジア・ラオス)に日本軍の駐留を認める協定ができた。
日本の狙いは、中国蒋介石政府への支援物資輸送ルートの遮断と南方資源(ゴム等)の獲得である。
2.日・独・伊 三国同盟
1940年9月27日 ベルリンにおいて締結された。
①日本はドイツ・イタリアのヨーロッパ新秩序建設について、指導的地位を認め尊重する。
②ドイツ・イタリアは、日本の大東亜新秩序建設について、指導的地位を認め尊重する。
③新しく敵にまわる国があれば、同盟国はあらゆる政治的・経済的・軍事的方法で相互援助する。
要するに、「ヨーロッパと東南アジアで、お互いやりたいことをやろう。アメリカが首を突っ込むのは止めさせたいね」と言っているだけである。しかしアメリカは、首を突っ込んできた。
3.アメリカの軍備増強と対日経済制裁
アメリカは1941年度会計(40/7/1 ~ 41/6/30)で軍事費支出を飛躍的に膨張させた。また9月16日には、選抜徴兵法を成立させた。
対日経済制裁は、1940年半ば以降本格化し、重要戦略物資が次々と輸出許可制品目に指定されていった。
1941年7月28日 日本軍が南部フランス領インドシナに進出して、虎の尾を踏んでしまったようである。アメリカは「在米日本資産の凍結(7/25)・石油の対日輸出全面禁止(8/1)」を行った。
ここに及んで日本は、解決しがたい難問題を抱え込んでしまった。日中戦争を勝ち抜くには、今後も膨大な戦費が必要である。戦費調達と軍事物資入手には『アメリカとの貿易が不可欠』であった。
このまま推移すればじり貧に追い込まれ、滅亡の道しか残らない。
問題はアメリカの当面保有する戦力が、太平洋・大西洋の両洋で同時に戦えるだけの戦力であるか如何かの問題に帰着する。
当時の日本政府は、第3次近衛文麿内閣(1941/7/18 ~ 10/18)であった。近衛は中国からの撤兵も視野に入れた日米首脳会談を模索したようであるが、10月2日米国は会談拒否を通告してきた。
近衛内閣の陸軍大臣であった東条英機は、閣内で「総辞職」か「開戦」を主張し、近衛内閣は10月16日総辞職した。
この後を東条英機内閣が引き受け、起死回生・乾坤一擲・一か八かの大博打 の太平洋戦争に直走った。
4.太平洋戦争(1941/12/8 ~ 1945/9/2)
太平洋戦争は、日本時間12月8日 ハワイ州オアフ島の真珠湾奇襲攻撃で開始された。
開戦当初の日本の海軍力は、アメリカの太平洋艦隊を上回っていた。陸軍はフランス領インドシナから出兵し、マレー半島に快進撃を続けていった。
戦局の転換点は、1942年6月に行われた『ミッドウェー海戦』である。この海戦で大敗し、主力空母4隻を失い、搭載航空機・ベテランパイロットが海に消えた。
以降日本軍は制空権・制海権を少しづつ失ってゆき、じり貧で後退を続けていった。
沖縄戦は1943年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月20日頃終結した。
1945年3月硫黄島(東京都小笠原村)が陥落した。その後此処から発進するB29爆撃機による絨毯爆撃(焼夷弾)により、日本中の主要都市が次々に焼け野が原にされていった。
1945年8月6日広島に原子爆弾(濃縮ウラン)が投下され、9日長崎にプルトニウム爆弾が投下された。広島・長崎合わせて約30万人の無辜(むこ)の市民が虐殺された。
日本降伏直後、アメリカ軍は広島にABCC(Atomic Bomb Casualty Commission:原爆傷害調査委員会)を作った。ここは被害者の身体被害の大きさは調べるが治療はしなかった。(治療法を知らなかった。)要するに原爆の威力を調べるだけが目的であった。
4月28日イタリア社会共和国ムッソリーニ総統がパルチザンにより処刑され、4月30日ナチスドイツのヒットラー総統は、地下壕で自殺した。5月以降は、日本だけが連合国の総攻撃を受けることとなった。
7月26日 アメリカ・イギリス・中華民国の連名で、ポツダム(ベルリン郊外)宣言が出された。ソ連は『日ソ中立条約』(1941-1946年)により、不参加。
ポツダム宣言の要旨は下記である。
①日本に降伏を勧告する
②3ヶ国は、日本が降伏するまで徹底的に戦う。
③ドイツが完璧に叩かれたのを知っているだろう。
④軍国主義者の指導を捨て、理性の道を選ぶべきだ。
⑤条件は以下に示す。譲歩・遅滞は認めない
⑥戦争犯罪者は処分する
⑦新秩序が実現するまで、日本国を占領する。
⑧カイロ宣言は履行され、日本の領土は本州・北海道・九州・四国と小諸島に限定する。
⑨日本軍は武装解除する。
⑩戦争犯罪者処罰と民主主義復活を行う。言論・宗教・思想の自由と人権の確立。
⑪日本の経済復興・生産手段の保有を認め、将来は国際貿易の復帰も認める。
⑫日本国民の自由意思による、平和政府の樹立を求める。諸条件達成後、占領軍は撤退する。
⑬即時 無条件降伏を宣言すること。それ以外は破滅するだけである。
日本はソ連(中立条約)を頼り、仲介を依頼したようであるが、梨の礫(つぶて)で全く無為な時間(19日間)を浪費した。
8月14日 日本国はポツダム宣言受諾を通告した。
15日正午 敗戦を告げる昭和天皇の玉音放送が行われた。
9月2日 東京湾内のアメリカ戦艦ミズーリーの甲板上で、日本政府代表と大本営代表が降伏文書に署名した。これにより日本降伏が正式に文書で固定された。
無謀な太平洋戦争の代償は、巨大であった。日本の戦闘員死者約1,700,000人・軍属死者約400,000人・国内民間人死者(原爆とその他の都市)400,000人以上と推定される。
アメリカ戦闘員死者約355,000人・イギリス人戦闘員死者約87,000人・中華民国戦闘員死者約1,500,000人・中華民国民間人死者約17,000、000人程度と推定される。
太平洋戦争敗戦から後の 70年間、日本国は戦争を放棄し平和憲法を守り続けて、世界平和に努力している。
以上