「行雲流水」は中国の蘇軾(そしょく)の言である。彼は北宋時代(960年~1127年)の政治家・詩人・書家であった。蘇東坡(そとうば)とも言われていた。日本で言えば平安時代(794年~1185年)にあたる。
蘇軾が書いた「謝民師推官与書:しゃみんしすいかんに与うるの書」に「行雲流水」が出てくる。謝民師は人名で固有名詞であり、推官は当時の官職名の1つである。
現代風の例で示せば、『茂木敏充(もてぎ としみつ)経済産業大臣に贈る書』のようなものと考えられる。
蘇軾が謝民師推官殿に贈った書は「文を創る時の心得」を示したものである。
文を創る時は、初めから決めてかかってはいけない。行雲流水のごとく、自然の成り行きに任せるのである。「行くべきところに流れゆき、止まるところで止まるのである。」と云っている。
日本の戦国時代の武将に黒田官兵衛(孝高:1546年~1604年)がいた。播磨国(兵庫県姫路)に生まれた、智謀の名将である。豊臣秀吉の天下統一に大貢献した1人である。
豊臣秀吉の名参謀「二兵衛」として、竹中半兵衛(1544年~1579年)と共に並び称された人物であった。秀吉から豊前6郡16万石を与えられ、中津(大分県)に城を構えた。秀吉は、官兵衛の智謀の大きさに不気味さを感じていた節があり、官兵衛を重用はしていたが、決して高禄を与えようとはしなかった。
1589年黒田官兵衛は、家督を黒田長政(1568年~1623年)に譲り「如水軒」と号して隠居した、満43歳である。黒田官兵衛は碩学の名将であったから、蘇軾の「行雲流水」に因んで「如水」と号したに違いないと、私は堅く信じている。
黒田如水の子 黒田長政は、関ヶ原の合戦(1600年)において徳川方に属し大きな戦功を挙げて、福岡藩52万石の初代藩主となった。しかしながら黒田如水は、子息の大出世にもかかわらず、喜び半分、不満半分の様であった。天下分け目の戦いが、余りにあっけなく終わってしまったことが、黒田如水には極めて不本意であった様である。
私がペンネーム「雲行」を使い始めたのは、ブログ「異論な話」(2009年10月13日~)を書き始めた時からである。ペンネームの由来は「行雲流水」とは全く無関係である。
私の学生時代のワンダーフォーゲル部の部報のタイトルが「水行末・風来末・雲行末」である。アルトフォーゲル(老鳥)のなれの果てが雲行末であり「雲行」の号が頗る素敵に思えたのである。
ついでながら部報の「水行末・風来末・雲行末」の由来をたどれば、落語の「寿限無寿限無」である。子供の長寿を願って、縁起のいい話を全て名前に取り込み、「寿限無寿限無・・・・水行末・風来末・雲行末・・・・長久命の長助」と名付けた話である。
私は、創部の時から在籍していたワンダーフォーゲル部の古参OBの内の1人です。
私の雲行の号は、まぎれもなく「雲行末」の雲行に由来するものです。
歴史に「もしも」は禁句である。
行動力も智謀も黒田官兵衛の遥か足元にも及ばない私ですが、「もしも」彼の偉大さにあやかって、「行雲流水」に因んだ号を付けるとすれば、「如雲」以外は考え難い。
ところが剣の達人柳生石舟斉(1527年~1606年)の孫に柳生兵庫助(1579年~1650年)がいた。号は「如雲斉」。彼は肥後熊本で加藤清正に仕えていた。この時、故あって古参の将を切り捨てて逐電し、以降は諸国を巡遊していた。
私は「如雲」の号を採らなくて良かったと思っている。
如雲斉 雲行(くもゆき)怪しみ 逐電す
雲行
以上
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