2010年12月3日金曜日

解決しない普天間問題

1995年沖縄駐留米兵による少女暴行事件を契機として、大規模な普天間基地返還要求運動が巻き起こった。これに即応し、当時の橋本龍太郎首相と駐日米大使との間で下記の様な「普天間基地返還」の合意ができた。
  • 5~7 年後までの全面返還を目指す。
  • 基地移転を実現するため、十分な代替施設を準備する。

これが今日まで全く実現していないのは、日本国政府が机上の検討に終始して15年間を空費してしまった結果に他ならない。

2004年8月沖縄国際大学構内に、米軍ヘリコプターが墜落する事件が起こり、地元の「普天間基地返還」要求は更なる高まりを見た。

2009年自民党政権に終止符が打たれ、民主党鳩山由紀夫内閣が誕生した。発足当初「普天間問題」は、「目標は国外、最低でも県外」移転を高らかに謳ったが、菅直人内閣に替わる直前に、「辺野古」移転案を決めてしまった。全く開いた口が塞がらない、恐れ入った政策の180度急転回であった。鳩山内閣で副首相・経済財政担当であった菅直人氏が、鳩山内閣の後を引き継いだのであるから、「辺野古」移転案はそのまま存続し続けることになる。

鳩山内閣発足当初は、宣言を実現すべく動いたように見受けられた。平野官房長官は、米海兵隊の訓練だけを「徳之島」でと、実現の希薄な話を持掛けたりしていた。米軍は海兵隊の主力をグァム島に引き上げる計画であり、主力の国外移転は労せずして実現しそうであった。しかし最大の問題は普天間に残す800名程度の残留海兵隊である。この勢力だけは、金輪際沖縄から移転するはずがない。その論拠は「異論な話」の2010・5月「抑止力」において詳細に説明している。公約が実現不能になった結果、苦し紛れに800名の海兵隊を「抑止力」と言わざるを得なくなったのであろう。

「辺野古」への基地建設は、地元の同意なしには実現不能である。現状では、地元の同意が得られる目途は全く立たないようで、「普天間問題」は未解決のまま残される。従って、情けない話であるが日本国政府の無為無策により、米海兵隊は今後も普天間に残留し続け、心置きなく猛訓練を続ける事ができる。このため基地周辺の住民は、危険と同居し轟音に耳を塞ぐ生活を強いられ続ける事になる。

以上

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