2014年5月6日火曜日

見果てた夢の話

私は、今年傘寿を迎えた。傘寿とは「数え年」80歳の事である。数え年とは、昔の年齢の数え方である。赤ちゃんが、オギャアと生まれた瞬間に1歳となる。その子が最初の正月を迎えると2歳になる。師走(12月)に生まれた赤ちゃんは、わずかひと月たたぬ間に2歳の子供になるのである。
正月元旦に、昔は日本人全体が一歳年嵩になったのである。昔の元旦の厳粛さ・御めでたさは格別の意味があり、現在の元旦のような生半可なものではなかった。
満年齢と「数え年」との関係は、今年既に誕生日を迎えた人は「満年齢+1=数え年」である。今年未だ誕生日を迎えていない人は、「満年齢+2=数え年」である。

稀代の英雄豊臣秀吉(1537~1598年)は、61歳で伏見城にて他界した。彼は下層民の子として生れ落ち、針売りを手始めに艱難辛苦(かんなんしんく)を重ねながら戦国の世を生きぬき・勝ち抜いて、日本国の天下を平定したのである。身分は庶民から、関白・太政大臣にまで登りつめた英傑であった。彼の辞世の歌を下に示す。

  露と落ち露と消えにし我が身かな
           浪速のことは夢のまた夢

辞世の歌とは、そんなものかと単純に見てはいけない。辞世の歌の最後の所の『夢のまた夢』には、極めて深遠な思いが込められている事に、気付いて欲しい。
浪速の栄耀栄華は、「遠い昔の見果てた夢」だったと言っているのである。即ち『見果てぬ夢』は未だ残したまま、この世を去って行く我が身の上に、万感の思いを込めた痛切な本懐を吐露したものである。英傑は最後まで英傑であった。

日本国を平定した後の彼の本当の「見果てぬ夢」は、近隣諸国「朝鮮・(高砂:台湾)・明(みん:中国)・呂宋(るそん:フィリピン)」から日本国に朝貢させることであった。
彼は真面目に近隣諸国に使者を派遣していたが、明・朝鮮とは話がこじれて戦争となってしまった。また台湾・フィリピンには、朝貢できる様な統一の国家機構は存在しないとの使者の報告を受けていた。

明・朝鮮の連合軍約25万人に対し、日本軍約16万人は圧倒的に強かった。日本軍は組織的な鉄砲隊を持ち、鉄砲の威力は凄まじかった。文禄の役は1592年4月13日釜山攻撃開始、5月3日首都漢城(現在のソウル)陥落。7月16日平壌(ピョンヤン)近郊で明・朝鮮軍を撃破、7月24日平壌陥落。1593年4月明・朝鮮との当面の講和が成立した。
その後、明の使者が来朝したが講和条件の話がこじれて、慶長の役(1597・1598年)が始ってしまった。
「近隣諸国からの朝貢」こそ、豊臣秀吉の『見果てぬ夢』だったのである。彼は見果てぬ夢を残したまま、1598年9月18日三途の川を渡ってしまった。

札幌農学校(現北海道大学)のウイリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)は「少年よ大志を抱け(Boys, be ambitious)」と教えたと聞いている。若者は大志を抱き「見果てぬ夢」を追い求めるものである。
星霜移り人は去り、私も齢(よわい)傘寿ともなれば『見果てぬ夢』は「夢のまた夢=見果てた夢」の話として決着をつける事と致したい。

私が途方もない大志を抱くきっかけとなったのは、大学院1回生(1958年)の時である。指導教官からこれを読めと渡された文献が、米国の原子力潜水艦シーウルフ(SSN-575)に関連する「液体金属ナトリウム」関係の文献であった。「液体金属ナトリウム」で冷却される原子炉が、この世界に存在していたことが私にとっては全くの青天の霹靂(へきれき)であった。

三菱原子力工業に入社し、国家プロジェクトの高速増殖実験炉「常陽」の三菱受託部分の設計業務を担当することになって、本当に途方もない大志を抱くようになってしまった。1960年代の後半である。私は高速増殖炉一筋で良いのだと、自分自身で納得していた。
それから引き続き高速増殖原型炉「もんじゅ」の設計である。1968年後半から予備設計が開始され、三菱担当部分の「炉心上部の回転プラグ」と「2次ナトリウム冷却系」の設計を担当した。夢の実現に夢中になった。私の人生の最も輝いていた時代であったかもしれない。勿論私独りだけで出来るはずはなく、大勢の仲間たちと共に頑張っていた。

「人生は、あざなえる縄の如し」である。私の人生は二転三転する。社命で転勤を命じられ、加圧水型原子力発電所の「配置設計」を担当することになってしまった。これ以降は、見果てぬ夢は本当に「見果てぬ」ことになってしまった。
今や私は、高速増殖炉の熱烈なサポーターの一人である。
ここで心残りな見果てた夢の中身を、簡単に説明しておきます。

高速増殖原型炉「もんじゅ」は、夢の原子炉であるはずだった。燃料はプルトニウムであるが、運転すればするほど原子炉内のブランケット部分で、天然ウランからプルトニウムが生産されるのである。有難いことに、燃料で消費するプルトニウムよりブランケット部分で生産されるプルトニウムの方が多いのであるから、まさに夢の原子炉である。

「常陽」や「もんじゅ」は、日本の技術力を総動員して造り上げたものですが、何故だかトラブルが非常に多い。「常陽」・「もんじゅ」ともに、多発したトラブルにより現在長期運転停止中である。
日本の技術力がこんな様で良いはずがない。サポーターとしては、歯ぎしりする思いである。しかし日本の技術力は現在そんな程度でしかないのであろう。

下に高速増殖原型炉の各国比較表を示す。原子炉冷却材は、いづれも「液体金属ナトリウム」を使用している。

施設名               国      電気出力   型式    炉心燃料        運転開始  現状
                      万kw
Phenix            フランス     25      タンク    Pu・U二酸化物  1974年  運転中
SNR-300          ドイツ         32.7    ループ   Pu・U二酸化物              計画中止
PFBR              インド          50      タンク    Pu・U二酸化物              建設中
もんじゅ          日本         28      ループ   Pu・U二酸化物              長期運転停止中
PFR                イギリス       25      タンク    Pu・U二酸化物  1976年  閉鎖
CRBR              アメリカ       35      ループ   Pu・U二酸化物              計画中止
PRSM              アメリカ       31      タンク    U・Pu・Zr合金                計画中止
BN-350            カザフスタン 15      ループ   Pu・U二酸化物  1973年  閉鎖
BN-600         ロシア       60      タンク    Pu・U二酸化物  1980年  運転中
KARLIMER-600 韓国           60      ループ   U・TRU・Zr合金              計画中

注記:TRU(trans uranic elements)とは、プルトニウム等の超ウラン元素の事である。下記にTRUの一部を列記する。

原子番号  元素記号  元素名
 93             Np         ネプツニウム
 94             Pu         プルトニウム
 95             Am        アメリシウム
 ・               ・
 ・               ・
109            Mt          マイトネリウム

アメリカ・イギリスは核物質の拡散を懸念して、高速増殖炉開発には抑圧的な行動を取っている。イギリスはPFRを閉鎖し、アメリカは自国の全ての計画を中止した。他国の高速増殖炉計画に対しても決して快くは思っていないと思う。

フランスは、高速増殖炉に熱心であり、技術力も高い。現在フェニックスを運転中であるが、電気出力120万kwのスーパーフェニックスを建設・運転した実績を持つ。
スーパーフェニックスは、1986年本格稼働を開始したがトラブルが続出し、1990年一旦運転を休止した。その後紆余曲折を経て1998年閉鎖となった。
現在フランスで進行中の計画は、電気出力50~60万kwのASTRIDという新型プロトタイプの高速増殖炉の建設である。

ロシアも、高速増殖炉には意欲的に取り組んでいる。エカテリンブルグの近くにベロヤロスク原子力発電所があり、そこの黒鉛減速の原子炉は閉鎖されているが、BN-600の高速増殖炉だけが運転中である。同所に更にBN-800、BN-1200を建設中である。
ロシアの原子炉は、恐ろしいことに伝統的に「原子炉格納容器」を持っていない。事故で放射性物質が漏洩すると、直ちに周囲の環境が放射性物質で汚染されてしまう事になるが、一向に気にしないようである。

国連安保理常任理事国は、米・英・仏・露・中であり、アメリカ・イギリスは高速増殖炉抑制派である。フランス・ロシアは積極的な推進派である。中国は推進派であるが、かなり遅れを取っている。
中国は、1990年頃から高速増殖実験炉の概念設計を開始した。電気出力60万kwの高速増殖原型炉CPFRの運転開始予定は2020年頃を目指している。

インドは、1985年から電気出力1万kw余りの高速増殖実験炉を既に運転している。
電気出力50万kwの高速増殖原型炉PFBRは、2003年頃から計画が開始され、2023年までに運転開始を目指している。

高速増殖実用炉が開発されれば、人類のエネルギー源は長期にわたり保障される。このために私は頑張り続けたかった。これが私の「見果てた夢」の中身です。
今の私の見果てぬ夢は、「もんじゅ」再開の朗報を聞く事なのでしょう。
以上











2014年4月14日月曜日

調査捕鯨の差止め

国際司法裁判所(ハーグ:オランダ)は、2014年3月31日日本の南極海(南氷洋)の調査捕鯨差止めを裁定した。原告はオーストラリア政府であり、「国際捕鯨取締条約」に違反するとして提訴したものである。同条約の目的は「鯨族の適切な保存を図り、捕鯨産業の秩序ある発展を可能にする」ための条約である。

日本の調査捕鯨は、1987年以降継続して行われていたものである。捕鯨は財団法人日本鯨類研究所(ICR:Institute Cetacean Research)が行っており、捕鯨船と乗組員は共同船舶(株)からチャーターしている。共同船舶は、「調査捕鯨」を独占受託するためだけの目的で設立された正真正銘の民間会社である。
Cetacean とは、クジラ・イルカ等の「クジラ目」の動物の事である。

ICRの2011年度のキャッシュフローを調べてみると、3大収入源は下記である。

  1. 副産物収入        32.9億円         鯨肉販売
  2. 補助金等収入       25.3億円         政府補助金
  3. 調査受託収入       1.3億円         政府調査発注
今までは60億円程度の収入で赤字気味のICRを支えてきたが、これからは収入の半分を占めていた副産物収入が大きく減少することになる。今がICRの正念場であろう。

調査捕鯨の年間捕獲頭数は下記である。(IRC発表データ)

北西太平洋
  1. イワシクジラ   100頭
  2. ニタリクジラ    50
  3. ミンククジラ    220
  4. マッコウクジラ   10
合計     380
南極海
  1. クロミンククジラ  850
  2. ナガスクジラ   50
合計     900

捕獲頭数の70%が南極海であるから、差止めの影響は極めて大きい。
年間1300頭も捕獲し鯨肉販売で33億円/年を稼いでいたので、商業捕鯨とみなされたのであろう。

これはICRの受け売りであるが、推定資源量と年間捕獲頭数の対比を以下に示す。

鯨種                推定資源量   捕獲頭数/年   割合
イワシクジラ                               21,612                100                       0.46     %
ニタリクジラ                                20,501                  50                       0.24
ミンククジラ                                42,257                 220                      0.52
マッコウクジラ                          102.112                   10                      0.01
クロミンククジラ                       761.000                 850                      0.11
ナガスクジラ                              11,755                   50                      0.43

この様な研究成果は、海外向けに論文発表し、商業捕鯨が可能であることを主張しなければならない。国際捕鯨条約の目的は、「鯨族の適切な保存を図り、捕鯨産業の秩序ある発展を可能にする」ことにある。
目的に沿った調査捕鯨であったことを、全世界に広くPRすべきであろう。
IRCは調査捕鯨が条約目的に沿った活動であり、様々な貢献・成果を得ていることを強く主張すべきである。IRCはこのことを論証する国際的な論文を数多く作成し、これを全世界に発信することに、総力を結集して当たらなければならない。ただし「推定資源量の推定増加率」も忘れずに発表する必要がある。
このためのICR向け資金供給やPR手法の援助等を、日本国政府は惜しんではならない。

歴史と文化に根差した沿岸捕鯨は、世界各所で行われているが、捕獲頭数は少ない。
現在商業捕鯨(?)を行っているのは日本以外にはノルウェー(500頭程度)とアイスランドだけである。四面楚歌で「環境保護」の大合唱に取り囲まれている。
大合唱の首謀者たちは、自国の畜産業の輸出が最大の関心事で、他国の海洋資源の利用に強硬に反対するのである。「捕鯨産業の秩序ある発展」などは以ての外と考えている。

海洋国日本としては、何としてでも捕鯨権益は守って行かなければならない。そのために日本国政府は、長年にわたりICRに補助金を給付し続けてきたのである。
ICRの存続を懸けた大活躍を期待している。

   米・豪は 目くじら立てて 自然保護

                              雲行
以上








2014年3月21日金曜日

フランスの原子力発電所

1.コールダーホール型原子力発電所

フランスの原子力発電所は、コールダーホール型原子力発電所の建設から始まった。天然ウランを燃料とし、中性子減速材には黒鉛を使用する。原子炉冷却材には炭酸ガスを使用した。
ChinonA1~A3・Bugey 1・G1~G3(マルクール原子力地区)・Saint-Laurent A1~A2の合計9基である。最初の原子力発電所ChinonA1の着工が1957年である。

この当時のフランスにはウラン濃縮技術がなく、天然ウランからプルトニウムを生産し、長崎型のプルトニウム核爆弾を作る目的であった。
ChinonA1の営業運転期間は1963~1973年である。コールダーホール型原子力発電所は逐次営業運転を開始していったが、長くても20年程度で営業運転を終了している。Saint-Laurent A2の1992年の営業運転終了で、フランスのすべてのコールダーホール型原子力発電所の営業運転は終了した。

この型の原子炉は、イギリスで開発されたものである。天然ウランで発電できるのが特徴であり、施設は大規模であるが電気出力は非常に小さい。建設の主目的は「原子爆弾製造原料のプルトニウムの生産用」であった。

日本の最初の原子力発電所は東海第一原子力発電所で、コールダーホール型原子力発電所であった。イギリスからの輸入であり1960年1月着工、営業運転開始は1966年7月である。生産されたプルトニウムはイギリスが引き取る事になっていた。電気出力16万kwであった。
1998年3月末営業運転を終了し廃炉になっている。現在廃炉作業が進められている。

2.CANDU型原子力発電所

カナダで開発された、原子力発電所である。重水減速・重水冷却で、天然ウラン燃料の原子炉である。カナダはCANDU一本槍であり、国情に合致した一貫した政策は立派である。他の形式の原子力発電所は、カナダでは建設されていない。

フランスでは電気出力7万kwの1基だけ輸入した。稼働期間は1967~1985年である。
原子力開発を目指した国は、ほぼ間違いなくCANDU炉を輸入しているが、日本だけは輸入していない。
その代わりに、日本は独自に設計した新型転換炉(ふげん)を建設した。重水減速・軽水冷却・圧力管型原子炉である。着工1970年12月、運転開始1978年3月、運転終了2003年3月。現在廃炉作業中である。もはや新型転換炉の開発は行われる可能性は全くなく、このプロジェクトは失敗であった。

3.高速増殖炉

Phenix(23.3万kw)とSuperphenix(120万kw)を建設し運転していた。前者の運転期間は1973~2010年、後者は1985~1997年である。
プルトニウムを燃料とする原子炉で、原子炉の冷却材は液体金属ナトリウムである。高速中性子による核分裂を利用するので、中性子減速材は不要である。
高速増殖炉の最大の特徴は、原子炉炉心内の「ブランケット」の天然ウランからプルトニウムが生産されることである。さらに驚くことに、燃料として消費するプルトニウムよりもブランケット内で生産されるプルトニウムの方が多いのである。全く「打出の小槌」のような発電炉なのである。この型の発電所を使い続ければ、すべての天然ウランがプルトニウムに転換されて、さらに電力に転換されてゆくことになる。発電用エネルギー源としては、笑いの止まらないような話であるが、全く正しい科学的事実である。

日本で建設された「常陽」・「もんじゅ」はこの型の原子炉である。
「常陽」は実験炉で発電設備はない。某ユーザーの運転不手際で、炉心上部の機構を損傷し、現在運転休止中である。
「もんじゅ」は原型炉で2010年5月運転を開始したが、炉内中継装置の落下事故でうんてん停止中となっている。

4.加圧水型軽水炉

現在フランスで稼働中の原子力発電所は、全て加圧水型軽水炉(PWR)で、59基である。ベルギー国境近くのChooz(ショー)AもPWRであるが、何故だか稼働期間1967~1991年で稼働を終えている。ChoozB1~B2は現在も稼働している。

5.フランス電力会社EDF(Electricite de France)

フランスの国策会社で、株式の85%を政府が保有している。フランスの電力市場は完全に解放されており、必ずしもEDFの独占ではないが、EDFは世界最大の電力会社であると思われる。
欧州連合(EU)をはじめ、電力自由化の進む国々の電力会社株式を積極的に買収し、世界各国の電力会社を傘下に集める多国籍電力会社である。

6.フランスの電源構成

フランスと日本の電源構成を下記に示す。2011年のデータである。

         フランス          日本
石油                   0.6                                14.7
石炭                   3.1                                27.0
天然ガス            4.8                               35.9
原子力             79.4                                 9.8
水力                   8.1                                  8.0
その他               4.0                                  4.6

フランスは余剰電力を近隣諸国に輸出している。

7.電力料金比較

OECD/IEAからの孫引きで、グラフからの読取値であるから最後の桁は不確かである。
読取数値は、2012年の家庭用電力料金の値である。

韓国                    95 $/Mwh                    34%
アメリカ             120                                 47
フランス            175                                 63
イギリス            217                                 78      
日本                 278                                100
イタリア            288                                104
ドイツ               342                                 123

%表示は、日本を基準にした場合の料金比較で、韓国は日本の1/3程度、ドイツは23%高い。

8.フランスの国土

フランスと日本の国土事情を以下に示す。

            フランス                 日本
人口      0.6234(2009年)           1.276(2012年)   億人
面積                63.3                                                 37.8                     万平方キロメートル
人口密度        98.5                                                338                       人/平方キロメートル
GDP                  2.58                                                  5.96                 兆ドル(国内総生産:2012年)
GDP/人             4.14                                                  4.67                 万ドル/人

フランスは、日本国土の倍くらいの広い国土で、日本人の半分くらいの人口で暮らしている。一人当たりのGDP(国内総生産)は、日本とフランスは大差ない。

9.原子力発電所の位置



    

2014年2月24日月曜日

安土桃山時代

日本の歴史では、弥生時代が終わり3世紀後半以降から古墳時代が始まった。この頃が、日本国の誕生と考えられる。
3世紀以降から始まる日本国の歴史の中で、最も輝かしい黄金時代はいつだっただろうかと私なりに考えてみた。評価の基準となる物差しは、人ごとに異なっており、十人十色の答えが出てくるのは当然である。

自由奔放な発想をもとに、桁外れな活躍を行った数多くの英雄たちを輩出した「安土桃山時代」を、私としては強く推したいと思う。この時期は「織豊時代」とも言われている。織田信長・豊臣秀吉の時代である。戦国時代の後期も含めて、16世紀(1501~1600)が日本国の黄金時代であったと私は堅く信じている。
これに次ぐ時代は19世紀(1801~1900)であり、『坂の上の雲』(司馬遼太郎)の時代である。

神仏をも信じず、自分の信念のみで突き進んだ「天下布武」の織田信長は、尾張半国の実権を握っていた織田氏の庶家の子である。
「天下布武」の障害となれば、比叡山の焼き討ちを敢行し、僧・児童の首を刎ねてしまった。比叡山の僧兵が浅井・朝倉と結んで敵対したからである。
その後の紆余曲折はあるが、最終的には遂に鎌倉幕府の「足利義明将軍」を追放してしまったのである。

豊臣秀吉は、下層民の子として生まれたが、遂には日本統一を果たし、太政大臣関白にまで上り詰めた。さらにはこれに飽き足らず、近隣諸国の朝鮮・高山国(台湾)・呂宋(ルソン:フィリピン)に朝貢を促そうとしたのであるから驚く。場合によっては、明国にまで攻め入る勢いであった。全くの類まれな英傑であった。

16世紀の日本国の人口は、1~2千万人程度である。参考までに「18世紀以前の日本の人口」を以下に示す。また当時のヨーロッパとの対比のため「イングランドの人口推計図」も以下に示す。16世紀のイングランドの人口は4百万人程度である。さらに参考用に現在の英国の地域別人口構成を下記に示す。

ウェールズ              3,064  千人            4.9%
北アイルランド        1,811                      2.9
スコットランド          5.255                      8.3
イングランド          53,143                    83.9
合計                      63,143                  100.0




豊臣秀吉により日本国内は完全に平定されて、農工業の生産性が上がり、殖産興業・文明文化が高まり、富国強兵が行われた。
16世紀後半には、日本は「世界最多の銃(火縄)保有国」となり、50万丁程度保有していたと推定されている。逆に銃保有数から考えると、兵30万人程度の動員は比較的容易であったろうと思われる。
日本は、16世紀における「世界最強の軍事国家」であったと考えてよい。

文化面での発展も著しいものがあった。南蛮貿易で堺が発展し、多数の豪商が誕生した。絵画では狩野派の障壁画等が素晴らしい。千利休による茶の湯が完成したのもこの頃である。陶磁器や漆器も発達し、木版印刷も行われ始めた。出雲阿国による歌舞伎踊りもこの頃に始まった。
織田信長が始めた無税の楽市楽座が広まり、国内市場も活気づいた。


16世紀頃の日本の海外進出は、秀吉の朝鮮出兵だけではない。民間による海外進出も極めて活発であった。

シャム(現在のタイ)には日本人町ができており、アユタヤ王朝には日本人雇兵隊も存在していた。日本人町の頭領の山田長政は、スペイン艦隊のアユタヤ侵攻を撃退して国王から厚い信頼を得ていた。

当時のインドシナ半島のフエ(現在のベトナムの都市)は、広南阮氏の首都であり、その東南100km程のところに會安(ホイアン)の港がある。ダナンの近くである。この港は16世紀以降国際貿易港として発展していった。16世紀の會安港には、もちろん大きな日本人町が造られていた。

この頃「高山国:台湾」には、中国やタイ・ベトナムとの通商を目的とした「日本商人の中継基地」が幾つか作られていた。
17世紀初めに、オランダが台湾領有を宣言し、台湾にある日本商人の中継基地に貿易税を課した。
これに反発した日本人貿易商の浜田弥兵衛は、台湾のオランダの長官を襲撃する事件を起こしている。
以上

2014年1月9日木曜日

軍師黒田官兵衛孝高


2014年1月5日、「軍師黒田官兵衛」のタイトルでNHKの大河ドラマが開始された。岡田准一の官兵衛も適役の様で、ひとまずは安心した。

私の当面の関心事は、2014年間の大河ドラマの放映において、黒田官兵衛孝高(1546~1604年)の生誕から何歳までの官兵衛を放映するかという事である。官兵衛の生涯は57年と4か月余りであった。


本当は関ヶ原の合戦以降の1600年代の晩年まで描かなくては、官兵衛の本性やスケールの大きさを伝えることはできないと思う。しかし国営放送であるNHKが、官兵衛の晩年までも放映を続けると国際問題を惹起する恐れも十分考えられる。豊臣秀吉の日本統一(1590年:小田原征伐)まで、としておくのが穏当の様である。黒田官兵衛満44歳の時までである。

 『異論な話』は個人のブログであり、国際問題のおそれも無いだろうから、豊臣秀吉の「日本統一」以降の史実をそのまま忠実に記載しておく。

 「日本統一」後秀吉は、朝鮮・高山国(台湾)・呂宋(ルソン:フィリピン)に使者をだし、朝貢を促した。高山国・呂宋には倭寇や明海賊の基地はあったが、「朝貢できる様な統一勢力」は存在せず、使者は空しく帰国した。但し朝鮮とは話がこじれてしまって、1592年・1598年の2度にわたって朝鮮出兵が行われた。

 黒田官兵衛は、総大将宇喜多秀家 付の軍監として朝鮮に渡った。本人は極めて不本意であったと思われる。「出兵そのものに反対」であったに違いない。朝鮮では碁ばかり打っていて、ほとんど何もしていない。
総大将の貫禄不足で睨みが効かず、小西行長らの暴走があり十分な采配が取れていなかった。止むを得ず官兵衛は、病気を理由に早々に帰国した。

最初の出兵の「文禄の役」の講和交渉が始まった時、官兵衛は朝鮮に再渡航させられたが石田三成とそりが合わず、確執を持ったまま、これ又早々に帰国した。三成33歳・官兵衛46歳であった。三成は職務に忠実で、必要となれば嘘も平然とつける優秀な官僚である。一方官兵衛は、信義の人であり嘘偽りは決して行わない人であった。そりが合う訳がない。

歴史に「もしも」はないが、私としては、この時ばかりは黒田官兵衛孝高に踏ん張っていてもらいたかった。官兵衛帰国後の講和交渉の結果は、嘘偽りに満ち満ちたものとなってしまった。

再度の帰国で秀吉の怒りを買った官兵衛は、「如水軒」と号して出家した。しかし出家後も秀吉に重用されている。
1592年の「慶長の役」でも、総大将小早川秀秋の軍監として釜山に滞在した。

驚くことに官兵衛は、1585年キリスト教の洗礼を受けている。(霊名:ドン・シメオン)。1587年7月「伴天連(ばてれん)追放令」を秀吉が出し、キリスト教の弾圧を始めた。ところが、官兵衛は率先して命令に従った。信義の仁・官兵衛には主君秀吉への忠義が第一義であり、神・仏への信仰は知識を広げる方便に過ぎなかったようである。又1593年頃には、頭を丸めて出家している。秀吉に謹慎を認めてもらうための方便である。

「秀吉の朝鮮出兵」は日本軍約16万人・朝鮮・明の連合軍約25万人を動員した、大戦争であり、当時としては「世界最大の国際戦争」であった。当時の世界1・2位の軍事力を持つ国の激突であった。
16世紀のヨーロッパにおける国際戦争は、大抵英国が絡んでおり、海戦が多い。スペイン・イギリスの艦隊決戦等が行われたりしている。勿論オランダ等をめぐる陸戦もあるが、せいぜい数千人、どんなに多くても双方数万人を超える兵力での国際戦争は行われていない。当時としては、世界に類を見ない桁違いの規模の国際戦争が行われた。
 
1592年4月13日(文禄の役)、日本軍は釜山に上陸し、小西行長軍・加藤清正軍・黒田長政(官兵衛の嫡男)軍の3軍に分かれて侵攻した。小西・加藤両軍は早くも5月3日に首都漢城(ハンソン:現在の京城|ソウル)に入場した。
火縄銃ではあるが、日本の銃は極めて優秀で、朝鮮での銃の多用は絶大な威力を発揮したと思われる。当時の日本は「世界最多の銃保有国」で、既に50万丁程度保有していたと推定されている。

7月16日に明の援軍が朝鮮半島に到着したが、平壌攻防戦で明軍は脆くも敗れ去った。
しかし日本軍は明の参戦を見るに及んで、進軍は平壌までとし、防備を固める方針を採った。
 加藤清正軍は、釜山から東海岸に沿って北進し、7月23日会寧(フェリョン:北朝鮮咸鏡北道)に至り李氏の王子二人を捕縛した。
また7月24日には、小西軍・黒田軍が平壌(ピョンヤン)入城を果たした。
 1593年4月、明・朝鮮連合軍も平壌戦敗退に懲りて、講和を申し出てきた。
下記の講和条件で、当面の講和が成立した。
①   朝鮮二王子と従者を朝鮮側に返還する。

②   日本軍は釜山まで撤退する。
③   明軍は開城まで撤退する。
④   明から日本に使者を派遣する。
 4条件は表面上守られた形になっているが、報告内容は双方で大きく食い違っていた。日本側は「明降伏」と報告しており、明側は「日本降伏」と報告していた。
1593年5月15日明勅使は、九州名護屋(佐賀県唐津市:朝鮮出兵の本陣として築城された。)で秀吉と会見した。秀吉は明に対し7条件を提示した。主要部を下記に略記する。
①   明の皇女を天皇の妃とすること。
②   勘合貿易の復活。
③   朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲。
④   朝鮮王子と家老各1名を人質として日本に送る。
⑤   捕縛していた朝鮮二王子は返還する。

 一方「秀吉の降伏」と知らされていた明は、「日本国王の称号と金印」を携えた使節を日本に派遣した。1596年9月秀吉は明使節と謁見したが、自分の要求が全く無視されているのを知り、激怒して使節を追い返した。このため秀吉は、再度の朝鮮出兵を決意した。慶長の役(1597・1598年)である。
 1597年2月21日付の朱印状が作戦開始命令である。日本側の準備もあるし、朝鮮・明連合軍も日本軍の再侵攻に対する防備を固めていたので、再侵攻には時間がかかっている。
 
釜山に上陸し侵攻準備を進める日本軍に対し、1597年7月朝鮮水軍が攻撃を行ったが、撃退した。7月16日さらに巨済島沖に敗退していた朝鮮水軍を、水陸から攻撃し壊滅させた。制海権を掌握し補給路の安全を確保した日本軍は右軍・左軍の二手に分かれて進撃していった。
両軍は全羅道(チョルラド)の要衝である全州(チョンジュ)で合流し、8月19日全州を掌握した。朝鮮・明 連合軍は、相次ぐ諸城の落城により戦意を喪失し、全州から撤退していた。
 稷山(ショクサン:忠清南道天安(チョナン)市付近)で日本軍と明軍が遭遇し、明軍を敗走させた。日本軍は、これで計画通り京畿道・忠清道・全羅道を制圧した。
以降も当初計画通り、朝鮮南岸を恒久的領土とするため、反転して朝鮮南岸の各所に築城を開始した。
 朝鮮・明 連合軍は、1597年12月22日最東端の蔚山城に攻撃を開始した。日本軍は急遽救援隊を差し向け、1598年1月4日朝鮮・明軍を敗走させた。
その後朝鮮・明 連合軍は、朝鮮南岸の日本の諸城に攻撃を仕掛けてきたが、いずれも撃退している。
その中でも泗川(シセン)倭城の戦いは特筆すべきものであった。
島津軍7千と明・朝鮮連合軍数万の迎撃戦となった。連合軍が大敗し、泗川平原で島津軍は勝鬨を挙げた。島津の威名は北京にまで轟いたと言われている。
その後の紆余曲折はあるが、1598年9月18日豊臣秀吉が他界して、朝鮮撤退が行われた。11月中旬から撤退が開始され、11月下旬には撤退が完了している。
以上
 

2013年11月24日日曜日

国家リスク

日本は、平和国家である。治安が良く、内乱・騒乱などはまず起こらないと考えて暮らせる、大変有難い国である。
国家破綻確率の低い国ランキングでは、日本は常時10位ぐらいのところにいる。ちなみに最近(2012年)のトップ10を以下に示す。

①ノルウェー
②米国
③スイス
④スウェーデン
⑤英国
⑥オーストラリア
⑦香港
⑧フィンランド
⑨日本
⑩ニュージーランド

日本の内閣には「内閣危機管理監」と呼称する役人のポストがある。このポストは、警察ばたのトップである「警視総監」からの天下り先の一つになっている。この人たちの経験と努力により、常時世界のトップ10入りを果たし、日本国内では枕を高くして就寝することができるのである。
従って、「我々日本人は彼ら警察官僚に対して大いに感謝すべきであろう」と、私は考えている。
ただし温和な日本人の一人として、欲張った話をさせてもらうと、将来的にはランキング⑤⑥位には食い込めるはずだと信じたい。

ただし日本国の危機管理は、もちろんこれだけの話では終わらない。この他にも日本国政府が、どの様なリスク管理をどの程度行い、今日の「平和国家日本」を維持できているのか、あらためて再吟味してみたい。

「国家リスク」管理の最重要項目として下記の5項目を挙げる事ができる。

①国際平和の維持
②防衛力の維持強化
③国内農業の保護育成
④資源の備蓄
⑤補給路の確保

国際紛争の回避については、最大限の努力を払うべきである。
独立行政法人・国際協力機構(JICA)が行っている政府開発援助(ODA)は、大変金は掛かるが、発展途上国を日本の味方にできる大切な仕事の1つであると考えられる。

防衛力の維持強化も、最重要項目の1つである。自衛隊は、核兵器は持たないが、世界でも屈指の軍事力を持つところまで強化されてきた。「日米安保条約」とも相まって、日本と本気で戦争をしようと考える国は、まず無い筈である。
「日米安保条約」は、日・米いずれかへの攻撃に対し、「各自国の憲法上の規定に従って対処する」事になっている。
戦争を放棄している日本国憲法においては、万一の『有事』の際は、下記のように対処するであろう。

①自衛隊は、日本国民・日本国土の安全のために対処する。
②米軍は、米国民・米軍基地の安全のために対処する。

食料の自給体制は、国家リスク上の最重要項目の一つである。食料自給率には2種類の統計手法がある。

①生産額ベース    69%(2010年)
②カロリーベース    36%(2010年)

私は貿易立国日本が、「生産額ベース」で自給率70%近くとなり、りっぱなものだと思います。農水省は「カロリーベース」で、自給率40%足らずで問題だと考えているようです。
都市近郊で「生鮮野菜」を生産している農家は、「カロリーベース」ではほとんど貢献していませんが、「生産額ベース」では正当に評価されます。

日本は鉱物資源には恵まれていませんが、森林資源に恵まれ、水も豊富です。本気になれば食料自給も可能です。日本の人口は漸減を続け今世紀末には5千万人程度になります。
農水省の基本方針は、「現状維持」のように見受けられます。日本の将来を見据えて、この際農水省は本気になって、農業政策の大転換を検討して戴きたい。

①補助金の出し方
  減反奨励金のような、農産物を作らないことへの税金投入をやめる。
  休耕田・荒地・ゴルフ場の耕地化に補助金を出す。
  大規模農業・機械化奨励金をだす。
  裏作奨励金(農地の有効利用)

 
 
②既得権益の再吟味
  全ての農業規制を廃止し、農業の自由化を進める。農業会社の自由化。
  農業委員会・農協の必要性と役割を再吟味する。

日本は鉱物資源が乏しく、資源の備蓄と補給路の確保はそれぞれ「国家リスク」対応の最重要項目の1つとなっている。
備蓄は、下記に大別できる。

①燃料備蓄
②金属資源備蓄

燃料備蓄は、天然ガス・石油・石炭が大切である。
天然ガスは超低温で液化してLNG輸送船で輸入し、国内のLNG(液化天然ガス)貯蔵基地で貯蔵されている。2~3週間分の貯蔵量である。万一補給路の確保ができなければ、最新鋭の「天然ガス火力発電所」は2~3週間で停止せざるを得なくなる。
石油備蓄は国策として重点的に管理されており、約半年分の備蓄がある。
石炭は、世界各国に幅広く産地が分布しており、「どこからでも簡単に安く輸入できる」として、意図的な備蓄は行っていない。

金属資源備蓄は、独立行政法人「石油天然ガス・金属鉱物資源機構」で行っている。

対象鉱種

①ニッケル
②クロム
③タングステン
④コバルト
⑤モリブデン
⑥マンガン
⑦バナジウム

半年分の備蓄を目標にしているようである。マンガン・バナジウムは達成率100%であるが、その他は54~78%で目標に達していない。

補給路の確保は、米国第7艦隊に負うところ大であり、我々は第7艦隊に大いに感謝しなければならない。第7艦隊は、横須賀を母港とする揚陸指揮艦「ブルーリッジ」を旗艦とする、世界最強の艦隊である。主力艦は原子力空母「ジョージ・ワシントン」である。
東経160度以西を担当海域としている。具体的にはハワイ諸島の西端から始まる西太平洋とインド洋である。

天然ガスの主要輸入先は下記である。

①ペルシャ湾岸諸国他  41.7%
②オーストラリア      18.2%
③マレーシア        16.8%
④ロシア            9.5%
⑤インドネシア         7.1%
⑥ブルネイ            6.7%

約半分を極東とオーストラリアから輸入し、残り半分をペルシャ湾岸諸国に依存していると考えてよい。いずれの補給路についても第7艦隊の存在を前提にした「シーレーン」の維持が大切である。

石油の輸入先は、サウジアラビアを含むペルシャ湾岸諸国からの輸入が82%程度で、その他は18%程度しかない。
石油の場合は、天然ガス以上にペルシャ湾から日本に至る「シーレーン」の維持が極めて重要である。
これこそが、日本の命綱である。

以上


2013年10月9日水曜日

黒田官兵衛孝高

2013/8/28の「異論な話」で、行雲流水の表題で戦国の名将黒田官兵衛の事を書いた。次の表題を何にするか考慮中であったが、NHKがタイムリーなヒットを打ってくれて歓喜雀躍した。NHKの報道では、2014年の大河ドラマを『黒田官兵衛』にする由である。私としては大喝采・万々歳である。とにかく立派にやってくれよと、期待に胸を大きく膨らませている。

黒田官兵衛孝高は、播磨の国に生まれた。姫路城主小寺家の家老の家柄であり、姫路城代を務めている。
官兵衛30歳(満)に満たない若さながら、織田信長の天才的才能を見抜き、主君小寺政職に織田家への臣従を進言していた。織田信長が、長篠の合戦(1575年)で3千挺の鉄砲を使用して、武田勝頼を完敗させた頃である。

信長から摂津の国を任されていた荒木村重が、信長に謀反し有岡城(兵庫県伊丹市)に籠城した。官兵衛の主君小寺政職も謀反に呼応しようとしたので、主家の存亡の危機を感じて単身有岡城にのりこみ、荒木村重の説得を試みた。黒田官兵衛32歳の時である。もちろんこの時、官兵衛の長子(後の黒田長政)を信長の人質に差し出した上でのことである。
凡人であれば、無難に主家小寺政職の説得だけで済ますところであるが、天下の形勢に明るい官兵衛にとっては、信長への謀反の無謀さに驚いたことであろう。
天下の形勢を話せば、荒木村重にも判ってもらえると信じたに違いない。官兵衛は信義の人であった。


荒木村重は、黒田官兵衛の説得に全く耳を貸さず、官兵衛を城内の岩牢に幽閉してしまった。立つこともできない岩牢であった様である。
帰ってこない官兵衛に対し、短気の信長はしびれを切らし、人質の官兵衛の子の斬首を命じた。
1年後有岡城が落城し、官兵衛は救出された。

幽閉でひざ関節を痛めてしまった官兵衛は、戸板に乗せられて信長の前に運ばれ平伏していた。信長は声も出なかったと思う。自分の短気を深く後悔するとともに、忠臣黒田官兵衛孝高の悲惨な姿に息をのんだに違いない。

有岡城から救出されたのが官兵衛33歳の時である。以後ひざ関節を痛めたため、若干びっこを引いていたとの説もあるが定かではない。
信長から斬首を命じられていた人質の官兵衛の息子は、かねてから官兵衛の人柄を見抜いていた知将竹中半兵衛に秘かにかくまわれていて、無事であった。「天才は天才を知る」の好例である。

黒田官兵衛は百戦連勝の不敗の知将であった。この智謀の軍師は、誠心誠意の正義の将でもあり、決して人を欺かなかった。戦国時代における、屈指の信義の名将と言っていい。
近年において、本能寺の変(1582年6月21日)は黒田官兵衛の策謀であったという人もいるが、この様な人は官兵衛の智謀だけを評価し、官兵衛の人柄に感銘を持たない人物だと思う。
信義の名将が、本能寺の変を画策するはずがない。

最大の受益者を犯人と思わせながら、真犯人を別に用意するのがミステリー作家の常套手段である。「本能jの変」について、今日では様々なミステリーが作られているようである。歴史は、あたかもミステリー作家の様であった。

確かに本能寺の変で最大の利益を得たのは羽柴秀吉であり、秀吉の参謀が黒田官兵衛であった事は事実である。
本能寺の変の時、羽柴秀吉は備中高松城(岡山県岡山市北区高山)の水攻めを行っていた。本能寺の変を知らせる明智光秀方の密偵を捕え、毛利方宛ての光秀密書を読んだ官兵衛は、「主君羽柴秀吉が天下統一の好機を掴んだ」と確信したに違いない。
毛利と急遽和議を結び、「中国大返し」を行い、逆賊明智光秀を天王山の決戦で打ち破った。この時期頃から羽柴秀吉の天下統一まで、黒田官兵衛孝高の智謀は更に冴えわたるのである。

羽柴秀吉の天下統一後は、さすがの黒田官兵衛も、晩年の秀吉の征服欲を抑えきれなかったらしい。
秀吉は、朝鮮・高山国(台湾)・呂宋(ルソン:フィリピン)に使者をだし、朝貢を促している。高山国や呂宋には倭寇や明海賊の基地があるものの、朝貢ができるような統一勢力は存在せず、使者は空しく帰国したようである。一方朝鮮とは話がこじれて、1592年・1598年の2度にわたって朝鮮出兵が行われた。

歴史上では、日本からの最初の朝鮮派兵は倭国の時代である。391年に倭国が百済・新羅を破り従属させている。562年まで朝鮮半島南部を任那日本府が統治していた。
663年白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅と倭国・百済の軍が激闘し、倭国・百済が敗退した。以降朝鮮半島から日本は撤退している。

逆に朝鮮半島から攻め込まれたのは、1274年・1281年の2度にわたる元寇である。北九州に上陸されたが、いずれも撃退した。
この他に1419年、李氏朝鮮が単独で対馬に侵攻してきた。

閑話休題、本題に戻る。
秀吉の朝鮮出兵では、総大将宇喜多秀家 付の軍監として黒田官兵衛は朝鮮に渡ったが、極めて不本意であった様である。出兵そのものに反対であったに違いない。出兵の手配一切は石田三成に任せ、口出ししなかったようである。朝鮮では碁ばかり打っていて、何もしていなかった。

日本軍・朝鮮軍ともに十数万人を動員した戦争であり、当時としては「世界最大の国際戦争」であった。
1592年4月13日(文禄の役)、日本軍は釜山(プサン)に上陸し、小西行長軍・加藤清正軍・黒田長政(官兵衛の嫡男)軍の3軍に分かれて侵攻した。小西・加藤両軍は早くも5月3日に首都漢城(ハンソン:現在の京城|ソウル)に入場している。
火縄銃ではあるが、日本の銃は極めて優秀で、銃の多用は絶大な威力を発揮したようである。
また7月24日には、小西軍・黒田軍が平壌(ピョンヤン)入場を果たしている。
加藤清正軍は、釜山から東海岸に沿って北進し、7月23日会寧(フェリョン:北朝鮮咸鏡北道)に至り李氏の王子二人を捕縛した。

7月16日 明の援軍が朝鮮半島に到着したが、平壌攻防戦で明軍は早くも敗れ去った。日本軍は明の参戦を見るに及んで進軍は平壌までとし、防御を固める方針を採った。明・朝鮮連合軍も平壌戦敗退に懲りて、講和を申し出てきた。
この時出来上がった講和の話は、だれが画策したのか定かでないが、虚偽欺瞞に満ち満ちた、世界に例を見ない嘘偽りの講和であった。
明朝に対しては、日本側が降伏したと報告され、日本側に対しては朝鮮側が降伏したと報告されているのである。

もちろんこんな嘘偽りの講和が実際に成立するはずがない。講和交渉は決裂し、1597年(慶長の役)日本軍の再度の侵攻作戦が敢行された。戦闘開始日を調べてみたが素人の私にはよく分からない。
釜山には簡単に上陸を果たし、日本軍は釜山周辺に布陣した。出撃を渋っていた朝鮮水軍が7月に釜山攻撃を試みたが失敗し、近くの巨済島(コジェド:きょさいとう)沖に停泊しているのを日本軍が知り、水陸両面攻撃により撃滅した。この海戦で、朝鮮水軍は事実上壊滅した。
9月には日本軍は、全羅道(ぜんらどう:チョルラド|現在の行政区分では北道・南道に分かれている)・忠清道(ちゅうせいどう:チュンチョンド|現在の行政区分では北道・南道に分かれている)・京畿道(けいきどう:キョンギド|現在の行政区分で言えばソウル特別市・仁川広域市や北朝鮮の一部を含む韓国北東部一帯の地域である)まで侵攻した。

日本軍はこれ以上の進軍を取りやめ、各所に新城を作って恒久的な占領を目指した。簡単に言えば、当時の日本軍は現在の韓国領全体の領土化を目論んだのである。
その後紆余曲折はあったが、1598年9月18日豊臣秀吉が死去し、朝鮮の日本軍撤退が行われた。

ここで再度黒田官兵衛の話に戻る。
文禄の役では、総大将宇喜多秀家の軍監として黒田官兵衛は朝鮮に渡ったが、総大将の貫録不足で睨みがきかず、勇み立った小西行長らの暴走があり、十分な采配が取れなかった。止むを得ず官兵衛は、病気を理由にして帰国した。
偽りの講和話が持ち上がった際再渡航したが、石田三成とそりが合わず確執を持ったまま帰国した。同じ知将でも、官兵衛の方がはるかに格上である。もっと大きな度量で石田三成を扱えなかったものかと、私はこの時の官兵衛を大変残念に思っている。

再度の帰国で秀吉の怒りを買い、官兵衛は「如水」と号して出家した。しかし出家後も秀吉には重用された。
1597年の慶長の役では、総大将小早川秀秋の軍監として釜山に滞在している。

黒田官兵衛孝高は、1585年キリスト教の洗礼を受けている。(霊名:ドン・シメオン)。
1587年7月秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」をだしキリスト教弾圧を始めると、信義の仁 官兵衛にとっては、信仰は方便に過ぎず、主君秀吉の命に背かぬことが第一義であった様である。

秀吉の死後からが、黒田官兵衛の真骨頂が発揮される。
即ち織田信長・豊臣秀吉・明智光秀・徳川家康らと並び、黒田官兵衛も天下を狙う「大伴黒主」であった。信義の人「黒田如水」も誰はばかることもなく、本気で天下を狙ったのである。

ただし残念ながら、関ヶ原の天下分け目の大会戦は、東軍方で参戦した官兵衛の嫡男黒田長政の大奮闘などによりあっさり1日でけりがつき、徳川の天下になってしまった。歴史の皮肉は痛烈である。黒田官兵衛孝高は、ぬか喜びしただけになってしまった。

黒田長政は、この功により福岡藩52万石の初代藩主となっている。黒田如水は隠居し、大宰府に一庵を設けてひっそり暮らしていた。
晩年は「如水」の名のごとく、すべてを水に流したように振る舞い、静かな暮らしであった。
1604年4月19日死去。享年満57歳である。
以上