2015年2月12日木曜日

干支(かんし:えと)の話

今年は平成27年・皇紀2674年(神武天皇即位の年から数える)・西暦2015年である。「零式戦闘機:ゼロ戦」が出現してから、74年が経過している。私は齢傘寿(数え年80)を過ぎてしまった。
今年の干支は「乙・未」(きのと・ひつじ)である。

「えと」と言えば、通常は十二支の事を言う。十二支を下記に示す。



また十干(じっかん)も下記に示す。

  60年周期の干支表を下記に示す。


今から数えて29年後、2044年は「甲・子」(きのえ・ね)となる。

甲子園球場は、大正13年(1924年)3月11日起工式が行われた。もちろん甲子(きのえ・ね)の年である。
最初の名前は「阪神電車甲子園大運動場」である。
大リーグのホームラン王ベーブルース(1895~1948年:George Herman Ruth, Jr)が来日した時、「too large」と驚嘆させた「大運動場」であった。
1924年8月「全国中等学校優勝野球大会」が開催されている。これが現在の高校野球大会につながっている。当時の中等学校は5年制であった。
高等学校は大学予科相当であり、ナンバー・スクール(1高~6高)に入学できれば、どこかの帝国大学に間違いなく入学できた。

毎年十二支と十干を1つずつ進めるので、次の年2045年は「乙・丑」(きのと・うし)となる。60年目は「癸・亥」(みずのと・い)となる。61年目は再び「甲・子」となり還暦である。

「十二支」と「十干」を毎年ひとつずつ進めると、12と10の最小公倍数60が周期となって、繰り返されることになる。

紀元前17世紀頃、中国山東省(現在の安陽市付近)に殷いん(紀元前17世紀~紀元前1046年)の首都が有った。殷は「商・商殷」とも言われている。紀元前11世紀に「周」に滅ぼされた。
殷の時代には、すでに、日付、番号、数字等を表すのに干支が使われていたようである。

十二支に動物を割り当てたのは中国であるが、なぜこのような順番に動物を割振ったのか良く分からない。
中国では、最後が豚である。台湾は日本と同じように最後は猪である。ベトナムでは、水牛(牛)と猫(兎)がいる。

干支は年を表すだけでなく、昔は時刻や方位を表すことにも使われていた。
方位を表す場合は、が真北でありが真南である。真東がで、真西がである。
北東は「丑・寅」の境目で、うしとら)の字を当てた。南東をたつみ)、南西をひつじさる)、北西をいぬい)としていた。

時刻は、太陽の南中が正午であり、正午の前が午前、後が午後である。

昔は鐘を突いて時を知らせていた。
鐘を突く回数が少ないと、鐘の音に気付かぬ恐れがあるので、鐘は「四つ~九つ」突く仕組みになっていた。

  1.  子の刻;0時頃                           夜 
  2.  丑の刻:2時頃                           夜 八つ
  3.  寅の刻:4時頃                           暁(あかつき) 七つ
  4.  卯の刻:6時頃                           明 六つ
  5.  辰の刻:8時頃                           朝 五つ
  6.  巳の刻:10時頃                         朝 四つ
  7.  午の刻:12時頃                         昼 
  8.  未の刻:14時頃                         昼 八つ
  9.  申の刻:16時頃                         夕 七つ
  10.  酉の刻:18時頃                         暮 六つ
  11.  戌の刻:20時頃                         宵 五つ
  12.  亥の刻:22時頃                         夜 四つ
近松門左衛門(1653年~1724年)作の曽根崎心中では、遊女お初と醤油屋手代徳兵衛が心中(自害)するのであるが、『あれ数ぞふればの、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり』とある。
暁七つだから、寅の刻(午前4時頃)の心中であった。
以上