囲碁が日本に伝来したのは、奈良時代(710~794)に間違いない。東大寺の正倉院に聖武天皇(在位724~749年)・光明皇后の御愛用品が御物として保存されている。これらはユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている。この大切な御物の中に「木画紫檀棊局:もくがしたんのききょく」があり有名である。罫線には象牙が埋め込まれている。碁石は、珊瑚・瑪瑙(めのう)等である。この他にも正倉院には碁盤2面が保存されている。
将棋については、平安時代(794~1185)末期の将棋駒が4点、興福寺旧境内で発掘されている。桂馬・歩兵の他「酔象:すいぞう」の駒である。残り1点は、文字が確認できず種類不明である。「酔象」は現在の日本将棋では使用されていないが、「攻撃範囲」は周囲8方向のうち、真後ろに下がれないだけである。
「チャトランガ」は、チェスと同様8×8=64の「マス目に駒を置くゲーム」である。
「中国将棋:シャンチー」は、9路盤であるが罫線の交点に駒を置く。自陣中央に「帥」がいる。「朝鮮将棋:チャンギ」も、9路盤であり罫線の交点に駒を置く。自陣中央に「漢」がいる。「西洋将棋:チェス」は、8×8=64の「マス目に駒を置く。自陣中央にキングとクイーンが並んでいる。
将棋の各駒には、駒の種類ごとに「攻撃範囲」が決められている。駒は「攻撃範囲」に出撃できる。「攻撃範囲」に敵の駒があれば、これを捕獲し盤上から除去して「攻撃範囲」に進出できる。
将棋の勝負は、敵の帥・漢・キング・王将を味方の駒の「攻撃範囲」に追い詰め逃げ場を失わせる
事により勝ちが確定する。
外国の将棋は、駒が最初から敵味方で色分けされていて、相手に捕獲された駒は盤上から除去されてゆく。戦いの進行に従って、敵味方の駒がどんどんと盤上から減って行き、どちらも手勢不足で、指揮官同士の平和共存の道しか残っていない場合が起こりうる。
外国将棋の「引き分け率」は、25~30%。先手の勝率60~70%の様である。
昔の西洋人は、チェスを「キング オブ ザ ゲーム」と称賛していたようであるが、囲碁や日本将棋を知らなかったのであるからやむを得ない。
キングが戦いに疲れ果て、平和共存するのは慶賀至極かもしれないが、私の個人的見解からすれば、『勝負をつけるのがボードゲームの真骨頂』である。理想のボードゲームとは「引き分け率」はほぼ0であり、先手の勝率は限りなく50%に近いことが望まれる。
チェスの「引き分け率」30%先手勝率70%は、理想に比べるとはるかにかけ離れた数値であり、誠に残念である。
日本将棋での、プロの「引き分け率」は2%程度であり、先手勝率は50.6~54.0%程度(年により変動)である。囲碁では「引き分け率」はほぼ0であり。先手勝率は50±0.05%程度となっている。
外国将棋に比べ、日本将棋だけが極端に理想ボードゲームに近いのには、明確な理由がある。
日本将棋だけが、捕獲した相手の駒を味方の戦力として再利用できるルールとなっているのである。外国将棋は敵味方を、色を違えて判別しているが、敵の捕虜を自分の駒として使用する日本将棋では、敵味方を色で判別させる訳にはいかない。駒は全て同色にして、別の方法で敵味方を判別する手法が必要になる。
そこで採られた方法が、「駒に種別を示す文字を書く事」と「駒を5角形にして尖った先を敵陣に向ける事」の双方で敵味方の判別が行われている。これ等は日本人の大発明であった。
しかしこの大発明によって、日本将棋に様々な「禁じ手」を生む結果となっている。
- 同一縦線上の2歩打ち
- 王の歩打ち詰め
- 敵陣の最奥に歩・香・桂打ち(動けない駒となってしまう)
- 敵陣の2列目に桂打ち(動けない駒となってしまう)
囲碁は極めて単純なルールのボードゲームである。縦横19×19=361の罫線の交点(目という)に石を置いてゆくだけである。石は移動しない。石は丸くて、碁笥に入っている間は全く個性がなくて平等である。敵味方は白石と黒石で判別される。
しかし碁笥から取り出されて、ひとたび盤上におかれると、敵味方の相互関係により石の価値に大差が生じる。敵石を屠る必殺の石となったり、全く無意味な「駄目石」だったり、敵の威力を減殺する囮だったり、打ち手の力量次第で千変万化する。
石は原則として、空いている目の何処に打ってもいいと言うのが、単純明快で清々しい。
対局を始める時点では、敵味方の陣地は全く存在していない。交互に石を置きながら戦いが進むにつれて、敵味方の陣地らしきものが形成されてゆく。
囲碁の勝敗は、敵味方の囲った陣地内の『空白の目の数』の多さで決せられる。終戦後味方の陣地内の「敵の捕虜」は敵陣に返され、敵陣の『空白の目の数』を減らす事になる。我々素人の大乱戦の対局では、戦後の捕虜交換を行ってみないと、勝敗が分からぬ事が多々ある。
置き碁(2~9子局)の場合は、白から打ち始めるが、同等の対局だと黒から打ち始める。ただし6目半の「コミ」を出すことになる。先手有利の代償である。7目以上の目数差がないと黒の勝ちにならない。
囲碁の別称として『手談』はよく知られている。『爛柯:らんか』もまた有名である。中国の王質という樵(きこり)が石室山に入ってゆくと、童子が碁を打っていた。童子に勧められた「なつめの実」のようなものを食べながら観戦していた。ふと気付くと斧の柯(柄)が腐爛して朽ちていた。驚き慌てて急いで里に帰ってみたが見知らぬ人ばかりであった。要するに「中国の浦島伝説」の一つなのである。碁を観ていると時のたつのを忘れるようである。
『奕:ばく』も、囲碁・ばくち・勝負事を表す。
古式の囲碁は、四隅の星に黒石と白石を交互に置いてゆき、5手目から試合開始となっていた。中国・韓国では、80~100年ほど前までは、古式の方法で打たれていたようである。
この方式をやめたのは、もちろん日本が最初である。16世紀後半の事である。本能寺の変(1582年6月21日)の直前に、織田信長の前で本因坊算砂と鹿塩利玄の対局が行われており、その棋譜が残っている。これは古式ではなく現代方式の打ち碁である。
本因坊算砂(1559~1623年)は、京都の日蓮宗寂光寺本因坊の僧で法名を日海と言った。豊臣秀吉が天下を平定し、1588年碁打ちを招集し、御前試合を行わせた。日海はこの大会で優勝し、20石10人扶持が与えられた。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は、本因坊算砂にいづれも5子で指導碁を打ってもらっていた(座隠談叢)ようである。
江戸幕府が開かれ(1603年)、1612年囲碁衆・将棋衆は寺社奉行あずかりとなり、俸禄が与えられた。本因坊算砂は、将棋の大橋宗桂とともに50石10人扶持であった。
現在の囲碁同好会では、囲碁の段級位を持ち点制で定めている場合が多い。一般的には初段を200点とし、1段級位差を±13点としているようである。104点差であれば9子局となる。4級の人であれば、9子局で5段と対局できる。これらは勿論アマ同士の対局のハンディーの話である。
最近は、パソコンソフトで相当に強い将棋ソフトや囲碁ソフトが出てきて楽しみが増えてきた。将棋ソフトでは、かなり古くから強いソフトが開発されていたようである。
最近囲碁ソフトを購入し対局してみたが、相当以上に手ごわい相手であった。互先黒番で対局したが、幸いにも白の大石を仕留めて大勝できた。次の日白番でやったら、完膚なきまでにやられてしまった。相手の方は適当に手抜きして、私の読み筋にない手を次々に打ってくる。残念ながらソフトの方が私より若干上手の様である。
パソコンソフトに負けた悔しさで、悔し紛れに気付いたのが考慮時間の差であった。私の考慮時間は合計30分程度に過ぎないのに、「あ奴」はやたらに長考していた。
翌日持ち時間30分ずつで対局してみたら、白番でも黒番でも私の勝ちは動かない。
「あ奴」は局勢悪しと気付くと、私の地の味の悪そうな処なん箇所かに、それぞれ石を打ってくる。順次に私の読み筋通りに正しく対応してやると、「あ奴」は遂に諦めて投了してくれる。なかなか愛嬌があってよろしい。
何時までも「あ奴」と言う訳にもいかないので、近いうちに「あ奴」に適当な名前を付けて遣ろうと思っている。
以上