この世とあの世の境界に『三途の川』(さんずのかわ)があるという話である。平安時代末期(12世紀)から、三途の川の渡し賃は「銭六文」であると言い伝えられている。
渡し賃を持たずに冥界に入国した者たちは、冥界の入国管理官である奪衣婆に渡し賃代わりに衣類を剥ぎ取られ、裸で渡る事になるそうである。
16世紀に信濃国小県郡(おがたぐん)上田(現在の上田市)に真田幸隆(ゆきたか)(1513~1574)という武将がいた。甲斐国武田家の家臣であった。
真田家の旗印として「六文銭」を定めたのは、真田幸隆である。戦場の戦死者の三途の川の渡し賃として考えたものであろうと思う。戦場に臨むにあたって「不惜身命:ふしゃくしんみょう」の決意を表したものである。身も命も惜しまず戦い抜き、三途の川を渡ることを辞せずとの思い入れを込めた旗印なのである。
これ以降、真田家の旗印は「六文銭」が良く使われているが、これ以外にも「結び雁金」・「州浜」の旗印もある。
真田幸隆の嫡男信綱と次男昌輝は、長篠設楽原(ながしの・しだらがはら:愛知県新城市)の決戦(1575/7/9)で、織田方の銃弾にたおれ戦場の露と消えた。
織田・徳川連合軍3万8千人と、武田騎馬軍1万5千人の激突であった。この時の織田軍の3千挺の鉄砲の威力は凄まじかった。武田騎馬軍団は、設楽原に屍の山を築き事実上壊滅してしまった。
真田信綱・昌輝の兄弟は、父の定めた「六文銭」の旗印に包まれて、無難に三途の川を渡ったに違いない。
この後の真田家の当主は、真田幸隆の三男真田昌幸(まさゆき:1547~1611年)が引き継いだ。昌幸は実に立派な知将であった。
上田城は眞田昌幸によって1583年に築城された平城である。この城により真田昌幸は、攻め寄せてきた徳川軍を2度にわたり撃退している。
第1次上田合戦(1585年)は、徳川家康が家臣団で選りすぐった真田討伐軍7千人を編成し上田に差し向けた。これを迎え撃つ真田軍は、1千2百人と援軍上杉軍の若干名に過ぎなかった。結果は徳川軍の大敗となり、死者千名余りを出している。徳川方は「銭6千文」の三途の川の渡し賃が必要となった。
第2次上田合戦は、関ヶ原の合戦(1600年)と関連している。徳川家康は下野国小山(栃木県小山市)から関ヶ原に取って返す時、東海道を通って行った。徳川家康の子息・秀忠(2代将軍)は、3万8千人の軍勢を率いて中山道経由で関ヶ原に向かった。その進路を阻んだのが3千5百人で守る真田昌幸の上田城である。
初陣の徳川秀忠は、知将真田昌幸に散々に振り回され、徒労を重ねる事になってしまった。真田昌幸の狙いは明確である。上田城に拘泥させて、「天下分け目の合戦」に間に合わなくさせる事である。謀略により既に3日も無駄に停泊させており、後は籠城により数日持ちこたえれば、お釣りがくると読んでいたようである。
徳川秀忠は上田城を無視して通過すればよかったのであるが、知将真田昌幸の策にまんまと乗せられてしまった。
9月5日徳川秀忠は、信濃国上田から黒田長政(黒田官兵衛の嫡男)宛ての書状を出している。9月8日の最後の上田城攻めも不首尾に終わり敗退している。9月10日徳川秀忠は上田城攻めを中止し岐阜に向かって発進した。真田昌幸の策略により、徳川秀忠は5泊6日上田に滞在させられ、その後の悪天候にも難渋し、9月15日の関ヶ原の合戦には間に合っていない。このため徳川秀忠は、徳川家康から大叱責を受けている。
閑話休題「三途の川」談義に戻る。
近年日本では火葬が一般的であり、冥界への出国検査で、法令により金属類の携行は堅く禁じられている。甚だ困った事態であるが「六文銭」の旗か、、「六文銭」を印刷した紙を持って行くしか方法がないようである。
台湾・中国・韓国では、商業的に冥銭が発行されているが、各国における三途の川の渡し賃が幾らなのかは詳らかでない。日本の文銭との為替レートも不明である。
台湾・中国・韓国では、墓前で冥銭の束を焼くことによって、冥土への送金を行うようである。額面が米ドル単位の「冥通銀行券」も発行されている。
恐らく数億人の日本人が三途の川を渡っていると思うが、冥界に関する情報量が極めて貧弱なのに困惑している。渡船場の構造とか、船は何人乗りか、櫓漕ぎか櫂か竿か、船頭はどんな風体か、川幅はどの程度で急流なのか歩いて渡れそうなのか、知りたいことが山ほどある。
冥土の旅は、元々片道切符しか持っていないのでやむを得ないと思うが、まれには忘れ物に気づいて、この世に取りに帰ってきた人もいて欲しい。
三途の川は、彼岸に渡るしかないと思うのも不思議な話である。川は遡行もできるし、流れ下って海にも出られる。三途の川の源流はどこから発し、どこの海に流入しているのか、調べてみたい。
私の想像では、須弥山(しゅみせん)に端を発し、八海の一つに流れ下っているのだろうと思っている。仏教の世界観では、須弥山を中心にしてこれを八つの山が取り囲んでいる。八つの山の中に鉄囲山(てっちさん)と呼ばれる山がある。三途の川は須弥山に端を発し、須弥山と鉄囲山に囲まれた海に流れ込んでいるに違いない。
今では各大学の山岳部・探検部・ワンゲル部のOB・OGで冥界入りされた方々もおられると思う。かの地では「三途の川旅行記」が出版されているかもしれない。
ここまで想像してみて、これ以上想像を膨らませると収拾がつかなくなると悟った。
この世で立派な功績を遺した人々が、続々と冥界へ渡っていった訳である。渡し賃は「銭六文」のままかもしれないが、冥界が全く進歩していないと考える方が荒唐無稽な考え方であると思う。
三途の川には立派な橋が架けられており、入国管理官『奪衣婆』は居るかも知れないが、入国手続きは電子化され、スムーズな入国者の流れができていると考えられる。
日本の人口は、今世紀末には5千万人程度と予測されるが、冥土の人口は増加する一方である。冥土が今後将来も、大発展してゆくことは間違いないと思う。
日本の川で『三途の川』の名称を持つ川が存在している。群馬県多野郡甘楽町を流れる川で白倉川を経由して鏑川に流入している。利根川水系の川である。
上信電鉄上信線の上州新屋駅(じょうしゅうにいやえき)の傍を流れている。
白倉川合流地の付近に姥子堂(うばごどう)があり、奪衣婆が祀られている。
以上