3世紀以降から始まる日本国の歴史の中で、最も輝かしい黄金時代はいつだっただろうかと私なりに考えてみた。評価の基準となる物差しは、人ごとに異なっており、十人十色の答えが出てくるのは当然である。
自由奔放な発想をもとに、桁外れな活躍を行った数多くの英雄たちを輩出した「安土桃山時代」を、私としては強く推したいと思う。この時期は「織豊時代」とも言われている。織田信長・豊臣秀吉の時代である。戦国時代の後期も含めて、16世紀(1501~1600)が日本国の黄金時代であったと私は堅く信じている。
これに次ぐ時代は19世紀(1801~1900)であり、『坂の上の雲』(司馬遼太郎)の時代である。
神仏をも信じず、自分の信念のみで突き進んだ「天下布武」の織田信長は、尾張半国の実権を握っていた織田氏の庶家の子である。
「天下布武」の障害となれば、比叡山の焼き討ちを敢行し、僧・児童の首を刎ねてしまった。比叡山の僧兵が浅井・朝倉と結んで敵対したからである。
その後の紆余曲折はあるが、最終的には遂に鎌倉幕府の「足利義明将軍」を追放してしまったのである。
豊臣秀吉は、下層民の子として生まれたが、遂には日本統一を果たし、太政大臣関白にまで上り詰めた。さらにはこれに飽き足らず、近隣諸国の朝鮮・高山国(台湾)・呂宋(ルソン:フィリピン)に朝貢を促そうとしたのであるから驚く。場合によっては、明国にまで攻め入る勢いであった。全くの類まれな英傑であった。
16世紀の日本国の人口は、1~2千万人程度である。参考までに「18世紀以前の日本の人口」を以下に示す。また当時のヨーロッパとの対比のため「イングランドの人口推計図」も以下に示す。16世紀のイングランドの人口は4百万人程度である。さらに参考用に現在の英国の地域別人口構成を下記に示す。
ウェールズ 3,064 千人 4.9%
北アイルランド 1,811 2.9
スコットランド 5.255 8.3
イングランド 53,143 83.9
合計 63,143 100.0
豊臣秀吉により日本国内は完全に平定されて、農工業の生産性が上がり、殖産興業・文明文化が高まり、富国強兵が行われた。
16世紀後半には、日本は「世界最多の銃(火縄)保有国」となり、50万丁程度保有していたと推定されている。逆に銃保有数から考えると、兵30万人程度の動員は比較的容易であったろうと思われる。
日本は、16世紀における「世界最強の軍事国家」であったと考えてよい。
文化面での発展も著しいものがあった。南蛮貿易で堺が発展し、多数の豪商が誕生した。絵画では狩野派の障壁画等が素晴らしい。千利休による茶の湯が完成したのもこの頃である。陶磁器や漆器も発達し、木版印刷も行われ始めた。出雲阿国による歌舞伎踊りもこの頃に始まった。
織田信長が始めた無税の楽市楽座が広まり、国内市場も活気づいた。
16世紀頃の日本の海外進出は、秀吉の朝鮮出兵だけではない。民間による海外進出も極めて活発であった。
シャム(現在のタイ)には日本人町ができており、アユタヤ王朝には日本人雇兵隊も存在していた。日本人町の頭領の山田長政は、スペイン艦隊のアユタヤ侵攻を撃退して国王から厚い信頼を得ていた。
当時のインドシナ半島のフエ(現在のベトナムの都市)は、広南阮氏の首都であり、その東南100km程のところに會安(ホイアン)の港がある。ダナンの近くである。この港は16世紀以降国際貿易港として発展していった。16世紀の會安港には、もちろん大きな日本人町が造られていた。
この頃「高山国:台湾」には、中国やタイ・ベトナムとの通商を目的とした「日本商人の中継基地」が幾つか作られていた。
17世紀初めに、オランダが台湾領有を宣言し、台湾にある日本商人の中継基地に貿易税を課した。
これに反発した日本人貿易商の浜田弥兵衛は、台湾のオランダの長官を襲撃する事件を起こしている。
以上